契約ー1

次の日、雨音との約束通り、瑞穂は楓とゴンを連れて妖雇用監督署にやってきていた。

楓はさきほどから、初めて来る天界に浮かれっぱなしな様子である。

「うわ、お城だ!」

天界にある妖雇用監督署の外観はまさに中世の城である。

周りをぐるりと水堀で囲まれ、塀のその向こうには、高くそびえる天守閣が見える。


三人は、水堀にかけられた石橋を渡り、来訪者用の玄関口である南大門をくぐった。

その先には、二の丸御殿、本丸御殿、そして天守閣と続いている。


「あそこに、お姫様が居たりして」

「姫はいないけど、本丸には、もう一人の署長がいるんだ」


監督署の署長は常に二人在籍している。

それぞれ本丸御殿と二の丸御殿に務めており、本丸御殿の署長となれるのは神だけで、就任した神の名は公表されず、またその姿が公の場に現れることもない。


一方、二の丸御殿の署長は、妖から選ばれることになっており、監督署の実務の全てを司っている。つまり、事実上この二の丸の署長が妖雇用監督署の実権を握っているのだ。

一般的に妖雇用監督署の署長といえば、この二の丸に務める署長のことを指す。


「お? なんだ今日は祭りでもあるのか」


二の丸御殿前の広場には、仮設舞台や天幕が設置され、職員たちが慌ただしく駆けまわっていた。

「さあ。知らないな」

瑞穂は気のない返事をして、そそくさと二の丸御殿に向かう。


二の丸御殿の車寄せは、履物を脱ぎ履きする神や妖でごった返していた。

そんな中、職員と思われる獣姿の鼠が引き札を配っている。

ゴンがその引き札を一枚受け取った。


「三百周年の記念日なんだってさ。式典後、参加者に酒が振舞われるらしい」

「へえ! 帰り寄って行こうよ」

「今日は内職がたまってるから早く家に帰――」


瑞穂の声は、楓の耳に届いていないようだった。

一の間の豪奢な装飾が、楓の心を奪ってしまっていたのである。


見上げるほど高い天井、そこから垂れ下がる水縹色の紙垂は、淡く発光しており、呂色に塗りあげられた鏡面のような柱に、妖しく影を落としている。

板張りの床には紅い絨毯、壁には金箔をあしらった装飾が施され、絵巻物さながらに天界の鳥観図が描かれていた。


楓はぽかんと口を開けたまま感嘆の声を漏らす。

「さすが天界だね…」

「そんなこと言ってたら田舎者丸出しだぞ」

ゴンは以前にも来たことがあるらしく、たいして珍しそうにしている様子はなかった。


瑞穂は楓と同じく御殿の中に入るのは初めてだったが、瑞穂の場合は華美な装飾に感動する気持ちよりも、この混雑した空間から早く出たいという気持ちの方が強かった。


「まず受付を探さないとだ」


広い一の間には壁際に受付台がいくつも並んでおり、またそこを行き交う神や妖も多く、契約申請に関する受付を探すのは一苦労だった。

勝手の分からない場所で瑞穂がきょろきょろ辺りを見回しながら歩いていると、後ろから凛とした声が聞こえた。

「瑞穂か?」

声がした方を振り返ると、半妖姿の妖狐が二人、ひとごみをかき分けて瑞穂たちのところへ歩み寄って来るところだった。

「久しぶりだな!」

瑞穂はこちらにやってくる二人に向かって手を振った。


この二人は、蘭と揚戸与あげとよという妖狐の夫婦で、瑞穂と親しい間柄の妖だった。

妻の蘭は、妖艶な香りをまとった美しい妖狐で、彼女の琥珀色の瞳と紫黒のたおやかな髪は、まさに蘭の花を彷彿とさせる。


そして彼女の隣にいる夫の揚戸与は、人ごみの中でも一目で分かるくらい大柄な体格で、白髪を肩まで伸ばし、いかにも豪胆そうに見える男だった。


蘭は瑞穂のすぐそばまで来ると、豪快に瑞穂に抱き着いた。

「ほんまに久しぶりやなあ。あんたが水の神さんとこ出てから、しばらく会うてへんかったしな」


瑞穂が初めて蘭と揚戸与に出会ったのは、瑞穂がまだ神様になったばかりの頃だった。

その頃の瑞穂は、水神三姉妹の屋敷に居候していて、毎日何もすることがなく、というより何もできることがなく、ただただ書物を読み耽るだけの日々を過ごしていた。

そんなあるひどい雨の日。水神の屋敷に、大怪我をした揚戸与を背中に担いだ蘭がやってきた。

どうか揚戸与を助けてくれ、と懇願する蘭に水神たちは、もう手立てはないと答えた。

そんな中、瑞穂は書物で読んだ呪解術を試してみたいと申し出た。

そして瑞穂は見事、揚戸与の命を救ったのである。

そのことがきっかけで、瑞穂は妖の診療所立ち上げを思いついた。


「瑞穂、あんた契約の申請に来たんか?」

「そうなんだ。とうとう、おれも妖を雇うことにしたんだよ」


瑞穂は後ろにいた楓とゴンを、蘭・揚戸与夫婦に紹介した。

ゴンを見た揚戸与は驚いた様子で、ゴンの肩を叩く。


「なんやぁ、瑞穂君のとこに来たゆう猫又は、ゴンちゃんやったんか」

「そりゃそやろ。神堕ち祓える猫又いうたら、ゴン以外にいるか?」


二人の会話で驚かされたのは瑞穂である。


「二人はゴンと面識があるのか?」

「昔からよう知っとるで。知り合いの狐の秘蔵っ子なんやわ、この子。瑞穂も、木蓮ていう狐、聞いたことないか?」

「いや、聞いたことないな」


揚戸与が驚いた顔をする。

「瑞穂君ほんまに知らん? 妖狐の木蓮君ていうたら有名やで。妖だけやなくて神様の間でも」

「性質は狡猾、顔は傾国。な狐と言うたら木蓮のことや」

蘭がそう言うと、ゴンは噴き出した。


「こらこら。ゴンちゃんの前でそんなこと言うたらあかんて」

揚戸与が蘭をたしなめる。


「なんやあげ。私は褒めてんのやで。狐たるもの狡猾と言われるくらいやないとな。それにゴンかて笑ろてるやんか」

「師匠は確かに、腹の中真っ黒かもな」


蘭とゴンはケラケラ笑った。揚戸与はそんな二人を見て溜息をつく。揚戸与はその見た目とは裏腹に、繊細で優しい男なのだ。


「傾国って女性に使う言葉だろ。木蓮は女だったのか?」


神も妖も、性別のないものや逆にどちらの性も持ち合わせている者なんかもいるが、木蓮もそういった類の狐なのだろうか。


「師匠は男の狐だよ」


にやにやと冷笑を浮かべるだけの蘭とゴンに、瑞穂も楓も首をかしげる。

そんな二人を見かねて揚戸与が口を開いた。


「木蓮君てな、妖術の天才やねん。最年少で龍神の神使になったことで一躍有名にならはったんや」


龍神といえば、天界で最も霊力・権力をもった神の一人である。今はその力も衰えたと言われているが、それでもその名は天界下界に轟く。


「木蓮君は狡猾っていうか、人心掌握にも長けてはってな、実力的にも政治的にも一人で一国くらい滅ぼしてまうんちゃうかって言われてはったんよ。ほんでまた見た目もええからな。木蓮君をやっかんだ妖たちが揶揄して『傾国』なんて言うたんや」


「ゴンの師匠ってそんなにすごいひとだったの?」

楓がゴンの顔を覗き込む。


「昔の話な。俺は下界で隠居生活してる師匠しか知らない」

ゴンは他人ごとのように言った。


「ほんで? そちらが木の精霊か」


楓は、急に蘭から声をかけられて身体を固くした。無理もない。蘭も揚戸与も、こんな砕けた態度だが、相当な霊力を持った上位の妖なのである。半妖の姿でいるのは、だった。


「はい。楓といいます」


慣れているらしいゴンはともかく、楓は二人の霊気に少し当てられているようだった。

蘭はそんな楓を頭のてっぺんからつま先まで舐めるように眺める。


「ふうん。なんや、ちょっと変わった匂いがするけど…」


瑞穂の胸がドキリと大きく脈打った。


「そうか? 可愛らしい子やんか」

揚戸与がまるで幼い子にするように、ぽんぽんと楓の頭を叩く。


蘭は、ふぅと溜息をついた。

「なんでこんな可愛らしい女の子に、男物の着物着せてるん」


蘭は楓から目線を外し瑞穂を睨んだ。


「急遽うちに来ることになったから、おれの着物しかなくて」

「しゃあないなぁ。私の着物送ったるさかい、この子に着させてやり」


瑞穂は悪いからと断ったが、蘭は着物を診療所に送ると言ってきかなかった。


「代わりに、狐魂祭ここんさいの救護役として来てくれへんか」


瑞穂は驚いた。まさかそんなお願いをされるとは思っていなかった。


「狐魂祭って何?」

「妖狐のお祭りや。狐たちがな、妖術で競い合うねん。会場には露店もぎょうさんでるし、お嬢ちゃんもきっと楽しいで」


楓は、ぱあっと顔を輝かせる。


「今年は、うちも実行委員に入ったさかい、瑞穂が来てくれたら助かるんやけど」


瑞穂は返答を渋った。ひとが多く集まるところが得意ではないのだ。

狐魂祭は妖だけでなく神様にも人気の祭りで、天界の神々もこぞってやってくる。

瑞穂のように新参者の、しかも下界で妖の診療所を営むという珍妙なことをしている身としては、天界の流麗な神々が集まる場は肩身が狭かった。


「行こうぜ、狐魂祭。俺も行ったことないんだよ。師匠そういうの好きじゃなかったからさ」

木蓮が来たら色んな意味で祭りが終わってまうわ、と蘭がぼやく。


楓もゴンも乗り気だが、救護役ということは遊びに行くわけではない。


「どれくらい怪我人が出るものなんだ?」

「年によって変わるなあ。まあそんな固く考えてくれんでええよ」

「水神さんらも手伝ってくれる言うてたし、一緒に来たらどやろ」


瑞穂は雨音たちが一緒だとしてもやはり行きたくはなかったが、楓とゴンに期待を込めた目で見つめられ、根負けした。


「わかった。狐魂祭、行くよ」

「ありがとう! この子の着物と一緒に招待状送るわ」

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