水神ー2

瑞穂が玄関に出ると、そこには水神三姉妹のひとりである雨音あまねが立っていた。

彼女は、胡桃色のふんわりとした長髪に、薄紅色に染まるふっくらした頬の、小柄で可愛らしい女神だった。

天界の神々とはほとんど交流のない瑞穂だったが、この水神たちとは昔から懇意にしていた。


「今日はどうしたんだ?」

「さつま芋をね、おすそ分けに来たの。うちの畑でたくさんとれたから」


畑でとれた、は嘘である。

雨音はこうやって、よくおすそ分けにきてくれるのだが、それらは全て水神姉妹に捧げられた供物なのだ。

供物には印が施され、誰に捧げられた物なのか分かるようになっている。

雨音は、信者のいない瑞穂に気を遣って、わざわざその印を消してから、畑で採れたと言って芋やら果物なんかを持ってくれるのだ。

そして瑞穂は、おすそ分けに刻まれた、消しきれぬ印の痕に気づいていた――。


「いつもありがとな。せっかくだし上がって茶でも飲んでいってくれ」

「うんそれじゃ少しだけ、お邪魔するわね」


瑞穂は雨音が持ってきてくれたさつま芋を受け取って、彼女を居間に案内した。

雨音が居間に入って来ると、楓とゴンの二人は会話をやめ、きょとんとした顔でその可憐な女神を見あげる。

「水神の雨音だ」

こちらは楓とゴン。瑞穂はそれぞれを紹介した。

瑞穂は炬燵の空いているところを雨音にすすめ、自分も腰を下ろした。

瑞穂は久しぶりに雨音の顔を見て、そういえば彼女に聞きたいことがあったのだ、と思いだした。


「楓のこと、どこかで見たことないか?」


瑞穂がたずねると、雨音は怪訝そうな顔で首を横にふった。


「たぶん初めましてだと思うけど?」

「そうか」


楓も不思議そうな顔で瑞穂を見つめる。


「あいや、楓に初めて会った時、どこかで会ったことがある気がしたんだ」

でもやっぱり気のせいだったみたいだ、と瑞穂は苦笑いする。

瑞穂は一時、雨音たちの屋敷に居候していたことがあるので、もしかしたらその時に楓と出会ったのでは、と思ったのだ。


「瑞穂と会ったのは、ここに来た時が初めてだと思う」

楓は、早く聞いてくれればよかったのに、とぼやいた。


「でもあなたたちの噂は聞いてるわ」

雨音は柔らかい笑みを二人に向ける。


「どんな噂だ?」

「可愛らしい木の精霊が働いてるって。それに新しくやってきた猫又は、神堕ちをも祓う神童だ。なんて、うちの婆やが話していたわ」

「それ言ってるの、君の神使だけじゃないのか」

「もう、またそういうこと言う」


雨音はふくれっ面になった。

その隣で楓が顔を輝かせている。


「ほら! もうゴンのことも知られちゃってるんだから、雇ってあげようよ」

「え? 瑞穂ったらまだ二人と契約していないの?」

「ああ、契約はしてないんだ。…まずいかな?」


雨音は驚いた顔をする。

「まずいに決まってるでしょ! 診療所がお取り潰しになるわよ」


楓が不安そうな顔で瑞穂と雨音の顔を交互に見た。

「何かしないといけなかったの?」


雨音は溜息をついた。

「神様が妖を雇用するにはね、妖雇用監督署あやかしこようかんとくしょというところに申請をしないといけないの。もし申請なしに妖を働かせているのが知れたら、罰則が与えられるのよ」


妖雇用監督署とは、妖が関わる雇用の一切を取り締まっている機関のことで、特に神が妖を雇用する場合には、この監督署への申請が必須となる。

監督署が設立される前は、神と妖が個人的に神使契約を結ぶだけで雇用関係が成立していた。神使契約とは、神様がその妖の生活と安全を保障する代わりに、妖は契約した神に一生仕えるというものだ。


本来、神使契約は、神と妖がお互いを守るための契約であったが、いつしか神が妖に極端な滅私奉公を強要しはじめ、なかには妖を奴隷のように扱う神も出てきた。

そして今から三百年前、積もりに積もった妖たちの鬱憤はついに爆発し、天界下界双方を巻き込む大規模な暴動に発展した。

これを契機に、神と妖の雇用関係が見直されはじめ、その流れで設立されたのが妖雇用監督署なのだ。

初めは小さな組織だったが、時代の流れを受け急成長したこの組織は、今では天界でも大きな権力を握る組織のひとつになっていた。


ゆえに、雨音が「お取り潰しになる」と言ったのも、けっして大げさな話ではなかった。

瑞穂はそのことを分かっていながら、契約申請をずるずる先延ばしにしていたのである。


「最近特に取り締まりが厳しくなったって聞いたぞ。新しい署長は過去一番やばいやつだって噂だ」

「監督署の署長、代わったのか?」

「先月、新しい署長が就任したのよ。お知らせ見てない?」


瑞穂は、監督署から文が届いていたことを思い出したが、目を通していなかった。


「職員たちも怯えるくらいなんだってさ、その署長」

「私も聞いてるわ。昔、干支関連の事業で活躍して、その功績が評価されて今回監督署の署長に抜擢されたらしいの。甲子きのえねという鼠、聞いたことないかしら?」

「知らないな」


瑞穂は天界の政治事情に疎かった。

興味がないのである。

誰がどこに就任しようが自分には関係ない。そう思っていた。

しかし、どうやら今回はそうもいかないらしい。


「甲子は、就任と同時に監査の制度を引き締めると公言したの。だから今、契約してない妖を働かせているなんて、すごく危ないことだって分かるでしょう?」

ほんと瑞穂はそういうところ抜けてるんだから、と雨音は肩をすくめた。


雨音は三姉妹の末っ子なのだが、上の二人があまりにも奔放な性格なので、すっかりお姉さんが板についてしまっている。こうやって瑞穂の至らないところを窘めるのも、いつものことだった。


「だけど、楓だってまだ試用期間なわけだし…」

「え! わたしってまだ試用期間だったの?」

楓は悲しそうな顔をする。


「そのつもりだったけど」


瑞穂は三人に見つめられて、手にじとりと汗が滲んできたのを感じた。


「そうだ! 焼き芋しよう。せっかく雨音がさつま芋持ってきてくれたんだし」


瑞穂はさっと立ち上がると、さつま芋の入ったざるを抱えて台所に向かう。


「あ! また逃げる!」

楓がとっさに瑞穂の袖を掴もうとしたが、雨音がそれを止めた。


瑞穂は台所の流しで、もらった芋を洗いはじめた。

この季節になると水はもうずいぶん冷たくなっていた。

手がかじかんで、芋が上手く洗えない。


「瑞穂」

柔らかな薄掛けを背中にかけてもらったような、暖かい声がした。


「どうした」

瑞穂は手元を見つめたまま、答える。


「なぜ二人と契約するのが嫌なの?」

「別に嫌なわけじゃないよ。ただ、契約してしまったら、ここが潰れたとき、あいつらに迷惑がかかる」


雨音はそっと、流し台に立つ瑞穂の隣に立った。


「潰れることが前提なのね」

「可能性はなくはないだろ」


雨音は小さく息をもらした。

「何にだって危険はあるわ。でも、最近の診療所はいい方向に向かってると思う。なのにどうして瑞穂は、そんなに後ろ向きなのかしら。…昔、何かあったの?」


瑞穂は、はたと手を止め雨音の顔見た。

雨音と目が合う。彼女の目は、瑞穂の瞳の奥底に眠る何かを、探っているようだった。

瑞穂は流しに転がった芋に視線を戻した。


「何度も言ってるけど、昔のことは覚えてないんだよ。おれは神になる前の、人間だった頃のことは、よく覚えてない。だから、分からない」


瑞穂は嘘をついた。

本当は人間だったときのことを、断片的に思い出すことがあった。

見渡す限りの田園、親し気な声。それらに似つかわしくない、火薬のにおい、轟く怒号、腐臭。

それらが自分とどう関係があるのか分からない。

そんな曖昧で不穏な記憶を、雨音に話せるはずもなかった。

ただでさえ、雨音は瑞穂に対して過剰に心配するのだ。


「そうだったわね…。覚えていない、のよね」

雨音は探るような瞳の色を消した。


「おれは、一人でやりたいんだ。なのに楓は帰るところがないって言うし、ゴンもなんだかんだ言ってここに居座ろうとするし…」

「非神使契約は駄目なの? それなら二人を束縛することにはならないわ」


神と妖の契約は二種類ある。

神使契約と、非神使契約である。


神使契約の場合、妖の方からその契約を切ることはできないし、神様の方も簡単には契約を切れない。通常、神使契約は、契約した神か妖どちらかが消滅するまで継続される。

妖にとっては永続的に心身を拘束されてしまうことになるが、良い神様と契約できれば、一生安泰に暮らせるという利点がある。

神様としても、気に入った妖をずっと自分の側に置いて使役することができるので、今でも神使契約を選ぶ神や妖は多い。ただし、拘束力の強い契約であるがゆえに、妖雇用監督署からの監査は厳しいものとなる。


一方、非神使契約であれば、妖の方からも契約を切ることができる。

非神使契約はもともと、神使でない下働きのようなものとの契約を管理するため設けられた制度だった。


瑞穂はこの非神使契約ですら気が引けていた。

神使契約に比べれば気軽な契約とはいえ、契約をする以上、雇用する神としての責任はつきまとう。この責任が瑞穂にとっては、どうしようもなく重かった。


「申請は、もう少し先でもよくないだろうか」

「駄目よ。瑞穂はすでに、楓ちゃんを雇い始めてる。仮とはいえ、それはあなたが決めたことでしょう。だったらもう、腹をくくりなさい」

蝶を撫でるように優しい声をしている雨音が、急に語気を強めた。


瑞穂はこの優しい女神がふいにみせる厳峻な態度には抗えない。


「…わかったよ」

蚊のなくような声でつぶやく。


「明日、行ってくるのよ」


絶対ずるずる伸ばしちゃ駄目だからね、と言って雨音はにっこり笑い、瑞穂の洗い終わった芋を持って、すたすたと縁側へ行ってしまった。


成り行きとはいえ、楓を受け入れると決めたのは紛れもなく瑞穂である。

行くあてのない楓を今更になって放り出すというのは、あまりに無責任だということも分かっている。ゴンにも、神堕ちから救ってくれた恩がある。

雨音が言うとおり、もう腹をくくるしかないのかもしれない。

瑞穂はひとり大きなため息をつき、雨音のあとを追った。


瑞穂が縁側に着くと、すでに庭に集められた落ち葉には火がつけられていて、楓とゴンがさっそく芋を火の中に放り込んでいる。

瑞穂は二人に向かって、縁側から声をかけた。


「楓、ゴン。明日、契約の申請に行こう」


楓とゴンは顔を見合わせると、両手でパシンッと互いの手を合わせた。

そんな二人を夕陽が赤く染める。

瑞穂はその光景を眺めていると、頭がズキっと痛んだ。思わず陽の光を避けるように顔をそむける。

そんな瑞穂を心配そうに見つめる雨音の視線に気づいたが、瑞穂は目を合わせなかった。

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