水神ー1
雪女の一件から数日後、やっと結界の材料が手元に集まったので、瑞穂はその日、診療所を休みにして結界修復にとりかかった。
まだ日も登らないうちから始め、昼過ぎたくらいには楓の中和防止も含め、すべての結界修復を終えることができた。
(我ながら、いい出来だ)
瑞穂は完成した結界を満足げに眺める。
後片付けを終え縁側から居間に上がると、楓とゴンが炬燵に入って、ぬくぬくと過ごしていた。
瑞穂が寒いなか結界修復をしていたというのに、まったくのんきな奴らである。
しかも、ゴンはどこから持ってきたのか大量の漫画を炬燵の横に積み上げ、寝転びながら読書に励んでいた。楓も便乗してゴンが持ってきた漫画を読んでいる。
「君らなあ。ちょっとは手伝おうとか、そういうのないのか」
ゴンはちらりと瑞穂に目を向けると、読んでいた漫画を胸の上に置き、いかにも苦悩しているという顔をつくる。
「俺実は、炬燵から出たら全身の毛が抜け落ちる呪いにかかってるんだ。俺だって本当は、瑞穂を手伝いたいって思ってるよ…」
ゴンは頭を抱え首を振る。
楓はそんなゴンを見て、わざとらしく真剣な顔になった。
「裸猫なんて、わたし嫌だよ。瑞穂、治せる薬ないかな?」
「俺のことはいい。楓だけでもここから出て生き延びるんだ」
「そんなっ。ゴンだけ置いていけないわ。ゴンが残るなら私も残る」
楓は憐れむような目をゴンに向けながらも、口元はにやけている。
「そしたら二人でここにいよう。きっと瑞穂も分かってくれるさ」
「そうね。瑞穂は神様だもん、許してくれるよね」
楓とゴンは二人して瑞穂の顔を覗き込んだ。
「おれはこの寸劇をいつまで観てなきゃいけないんだ?」
きゃははは!
瑞穂は眉間を指で押さえた。
猫又は怠惰で気分屋な妖である。ゴンも例に漏れず、かなりその気があるようだ。
そんなゴンに影響されて、テキパキ動く性質の楓にも怠け癖がうつっている気がする。
これは、よろしくない。
「ゴン。おまえ、うちにいるのは霊力が回復するまでじゃなかったのか」
瑞穂はゴンが積み上げた漫画の山を脇にどけ、自分も炬燵に入った。
ゴンはそんな瑞穂を悲しそうな目で見つめる。
「そんな寂しいこと言うなよ。一緒に死線をくぐり抜けた仲だろ」
「そうだよ。いいじゃない猫一匹くらい」
瑞穂は腕を組んで厳しい顔をつくった。
「これ以上、居候を増やす余裕は、ない!」
ゴンは口を尖らせて下を向いた。
「じゃあ、働くよ」
「働くって、何するんだ?」
ゴンも腕を組んで考え込む。
「そうだな…。俺が瑞穂の助けになれるとしたら、まずは会計」
「おまえ算術できるのか?」
「うん。できる」
「だが収入が上がらない限り居候を養う金は作れない」
「じゃあ逆に出費を抑えよう」
瑞穂はかなり質素な暮らしをしていた。これ以上一体どこを切り詰めるというのだ。
だがゴンはそんな瑞穂をよそに、さっそく帳簿見に行くぞ、と言って離れに向う。瑞穂と楓もゴンのあとを追った。
ゴンは使われていない会計所の文机に積まれた古い出納簿をぱらぱらめくった。
「瑞穂さ、この帳簿に家の支出と診療所の経費、ごっちゃに書いてるだろ」
瑞穂は頷いた。
「それはさすがによくない。純粋に診察にかかってる費用が分からないし、無駄な支出も把握しにくい。何にどれだけ金を使ってるのか、統計を出して定期的に見直すべきだ」
瑞穂は、うめき声をもらした。
生活費は切り詰めていたが、正直なところ診療所の金銭管理はあいまいだった。
診療所の経営状況が苦しいと分かっていながら、ついつい治療の効果や薬の研究の方に夢中になって、金の管理は後回しになっていたのだ。
あとこれ! とゴンがある頁を指さす。
「この製紙業者、ぼったくりなんだよ。たったこれだけの紙袋にこんな金額、普通しないからな。他の薬草とか消耗品の仕入れも、もっと安く済ませられるはずだし、取引業者をいくつか変えるだけでも相当経費が浮きそうだ」
瑞穂は目から鱗だった。まさか自分がぼったくりにあっているなんて夢にも思っていなかったのである。
「そんで診察代の見直しもした方がいいな。どう考えても安すぎだろ」
これには瑞穂も異論があった。
「下界の妖たちに、高額な費用は払えないだろう」
「そうだけど、料金表のなかには明らかに破格すぎるものもある。ほら、これとか薬代引いたら利益ほとんどないじゃねーか。全ての料金を上げなくてもいいけど、ここまで自分の技術を安売りしちゃ駄目だ。仕事に見合う金は遠慮なく取れ」
低価格の料金設定にしていたのは、確かに下界の妖たちの経済状況に合わせる目的があった。
しかし一方で、その価格の低さは、瑞穂の迷いの表れでもあった。
瑞穂は、自分の仕事にいったいどれほどの価値があるのか測りかねていたのである。
そこをゴンにずばり指摘された気がして、瑞穂はそれ以上何も言い返せなかった。
「なんかゴン、すごい。そういうのって学校で習うの?」
「妖に学校なんてねーよ。師匠に教わったんだ」
「師匠?」
ゴンは出納簿をぱたんと閉じた。
「俺さ、子どものときに狐に拾われたんだ。で、その拾ってくれた狐が、算術とか妖術を教えてくれたんだよ」
だから、師匠。とゴンはぶっきらぼうに言った。
「おまえ、狐に妖術を教わったのか」
瑞穂はゴンがいったいどうやって神堕ちを祓えるようになったのか不思議に思っていた。
だが妖狐に教えを乞うたのなら、猫又のゴンがあれだけ妖術を使えるのも納得だ。
そもそも妖狐は妖のなかでも特に妖術に長けていて、己の妖術修行はもちろん、仲間同士で術を競ったり、教えあったりする風習があるのだ。
それでも、奔放で飽きっぽい猫又をここまで導いた、その師匠とやらには感服する。
「神堕ちってさ、すごく霊力が高い魔物なんだよね。それを祓えるってことは、ゴンも同じくらい霊力が高いってこと?」
「いや、俺はそんなに霊力高いほうじゃないな」
「じゃあ何で神堕ちを祓えるの? ゴンより強いってことでしょ?」
「俺が妖術を使うときは、大気に含まれてる霊気を利用してんだ。大気中の霊気を使えば、自分より霊力の高いものも祓える」
「そんな裏技があるの! じゃあ、わたしもそれ使えるかな?」
「さすがに楓の霊力じゃ無理だろ。大気中の霊気を使うったって、ある程度は自前の霊力もいるし、その技を習得するのだって一朝一夕でできるわけじゃない。俺だって二十年かかったんだからな」
そっかあ、と楓はうなだれた。
「でも幸運だよね、ゴンは。そんな技教えてくれる師匠さんに出会えてさ」
ゴンは渋い顔をする。
「どうだろな」
血へ度吐く思いだったけど、とゴンが修行の苦労話をするのを楓はふんふんと聞いてやっていた。
瑞穂は二人のやり取りを聞きながら、ゴンに診療所で働いてもらうか否か、思案していた。
ゴンが居てくれれば、身の安全を気にする必要はなくなる。
神堕ちは、さすがにそうそう出ないとしても、瑞穂はこれまでにも魔物に遭遇してひやりとした経験があったのだ。
もし患者の数が今より増えれば、おのずと往診の頻度も増える。そうなると危険な目にあう機会もさらに増えるだろう。
そんな時、神堕ちも祓えるゴンが居てくれれば心強い。
診療所の経理だって、あの様子ならゴンに任せた方が、瑞穂が管理するよりむしろ良さそうだ。
条件的にいえば、ゴンは従業員として申し分ないように思う。
しかし――。
やはり瑞穂は仲間が増えることに抵抗を感じていた。
楓もゴンも頼りになると思う一方で、守らなくてはならない者が増えることは、瑞穂にとって、ずっしりと重い足枷のように感じられるのだ。
ゴンは考え込んでいる瑞穂の様子を見て何か察したのか、その翡翠のような瞳で瑞穂の顔を覗き込んだ。
「俺がうちにいたら、この炬燵の火だって、風呂焚きの火だって、使い放題だぞ?」
楓も反対側から瑞穂の顔を覗き込む。
「まあなんてお得なんでしょう。これは逃せないんじゃない?」
瑞穂が口を開きかけたとき、母屋の玄関の戸が開く音が聞こえた。
「ごめんくださーい」
その声を聞いた瑞穂はそそくさと炬燵から出た。
あ! 逃げる。という声は聞こえないふりをして、玄関の方へ向かう。
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