雪女ー1
瑞穂たちが神堕ちと遭遇したことを一体どこから聞きつけたのかは分からないが、その噂は広まっていく間に大げさな尾ひれがいくつもついて、瑞穂が凄まじい霊力でもって神堕ちを退けたとか、いやいや、恐ろしい妖を召喚して神堕ちを喰い殺させたとか、そんな話がまことしやかに囁かれていた。
妖というのは元来、噂話が大好きなのだ。
そんなすごい神様が、下界で妖の診療所などというものを開いていると聞けば、ぜひ一度ご尊顔を拝見せねば。と思う妖はけっして少なくなかった。
「患者さん増えて来たんじゃない?」
瑞穂が文机に向かって診療記録を書いている後ろで、楓は河童用の保湿軟膏を練っていた。
楓は仕事を覚えるのが早く、簡単な薬の調合なら楓にも任せるようになっていた。
「患者といえるか怪しいけどな」
実際のところ、最近増えた患者の中で本当に治療が必要なものはあまりいななかった。
やってくる妖のほとんどが野次馬根性で診療所に来ていたに過ぎなかったのだ。
「それでもまず知ってもらえることが大事よ。一度来たら、ここの良さを分かってもらえると思う」
楓は瑞穂と違って、この状況を好転ととらえていた。
「おーい。先生いるかい」
表から声が聞こえた。
楓がはーいと声を張り上げ、診察室から出て行く。
男の妖と話しながら楓が嬉しそうに礼を言っている声が聞こえる。ほどなくして診療所の扉が閉まる音が聞こえた。
「瑞穂、見て!」
診察室に戻ってきた楓が抱える紙袋の中身は、焼き立ての大判焼きだった。
「誰が持ってきてくれたんだ?」
「昨日来てた鉄板親父よ。昨日渡した腱鞘炎の薬がよく効いたから、そのお礼だって」
やっぱり気に入ってくれるひとはいるんだ、と楓は満足げに笑った。
この鉄板親父という妖もまた、神堕ちの一件を聞きつけてやってきた妖のひとりだった。彼は、そもそも診療所がなにをする所かすら把握しておらず、本当にただ単に瑞穂たちを見に来ただけだった。
そんな鉄板親父が受付にやってきた際、楓は彼が手首を庇うように荷物を持っていることに気づいた。そしてその話を聞いた瑞穂が、鉄板親父の手を診てやったのである。
楓が鉄板親父からもらった大判焼きを紙袋から取り出すと、診察室の奥で寝ていた猫がむくりと体を起こした。
神堕ちから救ってくれた猫又のゴンは、結局あのあと猫の姿に戻ったまま、また口をきけなくなってしまった。どうやら神堕ちを祓った際に、戻りつつあった霊力をすっかり使い果たしてしまったらしい。
瑞穂と楓は、猫の姿に戻ってしまったゴンを連れ帰ってきて、引き続き診療所で面倒を見てやっていたのである。
それにしても――。
(まさか神堕ちを祓える猫又がいるとは思わなかった)
瑞穂は猫又の彼が、あれほどの妖術を使えるということが、まだ信じられなかった。
猫又というのは本来、それほど妖術が得意な妖ではない。
三味線を弾いて歌って踊ったり、人の家に勝手に入り込んで炬燵を占領してごろごろしたり。つまり猫又というのは、のんびり気ままに生きることを至上命題としているような妖なのだ。
神堕ちを祓えるまで妖術を極めるには、どれほど霊力が高い妖であっても相当な修行が必要である。
普通の猫又ならそんな辛い修業、御免被ると言うところだが、このゴンという猫又は、そこまでの修行をこなしたということである。
いったいどのようにして猫又が、神堕ちを祓えるまでの修行をしたのか、瑞穂は興味があった。
(見た目は普通の猫又にしか見えないけどな)
そんことを思われているとは露知らず、ゴンは今日も、瑞穂たちが診療所を開けると同時に、診察室の奥に重ねて置いてある座布団の上を陣取って、うつらうつらしながら診察風景を眺めていた。
「ゴンも大判焼き欲しいの?」
ゴンは積み上げられた座布団の上から飛び降り、楓の太ももに前足をかけて、大判焼きの匂いを嗅ごうと立ち上がっていた。
その時、診療所の玄関の鈴が鳴った。
楓が取り出した大判焼きを慌てて袋に戻し薬棚の上に置く。瑞穂がそんな楓に代わって待合に出ようと腰を上げると、診察室の襖が音もなく開いた。
あまりに静かだったので、まるで襖はひとりでに開いたかのようだった。
「もし。ごめん下さいまし」
開いた襖の向こうに立っていたのは、陶器のような白い肌に、白銀の長い髪を垂らした美しい女だった。
全体的に線の細い体に、純白の浴衣を身に纏った姿は、今にも消え入りそうな儚げな印象だった。
突然現れたその美しい妖に面食らった瑞穂は、中腰になったまま目を瞬かせた。
と急に、楓に大判焼きをせがんでいた猫が暴れ出した。
猫は診察室内を走り回って薬棚に頭からぶつかり、その拍子に、楓が置いた大判焼きの袋がひっくり返って、中に入っていた大判焼きが幾つか畳の上にころころと転がっていった。
それを見て、もう! と声を上げた楓に構わず、猫は瑞穂の側をすり抜け文机の下に潜り込む。
「あら、驚かせてしまったかしら」
女はその美しい顔に淑やかな微笑みを浮かべ、診察室に入ってきた。
瑞穂は美しい女に笑いかけられ、つい顔が緩んでしまったが、直後、その女の足下から畳の上を這うように流れてきた冷たい霊気に鳥肌がたった。
それは体の芯まで凍りつくような、ぞっとする霊気だった。
「えっと。診察を受けに来られた…ので?」
「ええ。ここに、神堕ちも祓える神様がおいでだと、伺ったものですから」
女は瑞穂がすすめるまでもなく、瑞穂の前に置いてあった患者用の座布団に座った。
その所作は、衣擦れの音すらしないほどに無駄がなかった。
瑞穂は女に顔を向けてはいたが、文机の上に乗せた手から伝わる猫の小刻みな震えを感じ取っていた。
「もう、ゴンったら。こっちおいで」
楓は診察の邪魔になると思ったのか、文机の下に手を突っ込んで嫌がる猫を無理やり引きずりだした。猫は楓に抱きかかえられながらも、やはりぶるぶると震えている。
「猫は寒いのが苦手ですものね。でも、こう見えてわたくしも、寒いのが苦手ですのよ」
そういう女が座る座布団には霜が降りていた。
瑞穂は笑っていいものか悩み、曖昧な表情で誤魔化した。
「今日はどのようなご用件で?」
「眠れない。なんていう悩みも解決していただけるのかしら」
「ああそれなら、気を静めてよく眠れる煎薬があるので。それをお渡ししましょう」
「煎薬、ですか…」
「そうです。
「啼々夜…。つまり、涙に暮れる夜に相応しい薬、ということですか」
「語源としてはそうですが、単に疲れた時なんかに飲んでも構わないです。おれも時々、疲れが溜まったときなんかに飲んでますし」
瑞穂が女と話している間、すでに楓は啼々夜草を紙の袋に分け入れていた。
猫は奥の座布団の上に乗せられ小さく丸まっている。
「ありがとう。これで、眠れると良いのだけど…」
女が楓から啼々夜草を受け取る際、裾から細い腕がちらりとのぞいた。その白い絹のような肌には、引っかいたような傷が無数についているのが見えた。
女は傷を見つめる瑞穂の視線に気づいたのか、さっと裾を下ろす。
そして、瑞穂が傷について聞く暇も与えず、風のように帰っていった。
「うう、さぶっ」
女が帰ると、楓は腕をさすりながら呟いた。
「あれは雪女だな」
「やっぱり? わたしも、そうかなと思った」
「だけど、ここら辺に雪女が来るなんて珍しい」
雪国にいるはずの雪女がこんな日本列島の真ん中辺りまでやって来たのは、何か理由があったのだろうか。それに、雪女が来た途端暴れ出したゴン。二人は知り合いなのか。
瑞穂が猫の方を振り返ると、猫は煙に巻かれて今まさに人の姿に変化したところだった。
「もう人の姿になっても大丈夫なの?」
「いつまでもつか分かんないけど。あいつに見つかった以上、のんびりしていられない。俺はここを出て行く」
瑞穂と楓は顔を見合わせた。
「出てくって、まだ本調子じゃないんでしょ?」
「霊力が回復するまでくらい、ここに居てもいいぞ」
「駄目だ。あの雪女が狙ってるのは俺なんだ。俺がここに居たら、あんたたちにも迷惑をかける」
ゴンはよろよろと立ち上がった。
あの雪女がどんな妖か分からないが、神堕ちを祓えるゴンがここまで弱らされるのだ。相当厄介な相手なのだろう。
「そんな状態で出て行って今度呪いを受けたら、おまえ本当に死んでしまうぞ」
「そうよ。命の恩人をほっぽり出すようなことできないわ」
ゴンは驚いたような顔で瑞穂と楓の顔を交互に見たあと、力なく笑った。
「あんたらほんと、お人好しすぎ」
診療所を閉めて母屋に戻ってきた瑞穂は楓とともに、ゴンから、雪女に狙われることになった、その顛末を聞いた。
ゴンは以前、飲み屋に住み込みで働いていた時に、たまたま、あの雪女と出会った。
ゴンが働いていたのは、妖の夫婦が営む小汚い店だった。
ゴンは、その日、飲み屋に客としてやってきた雪女に声をかけた。低級妖のたまり場のようなその店に、彼女のような綺麗な女性がやってきたのを不思議に思ったからだ。
聞けば女は、最近この辺りに来たばかりで、まだ近辺の地理に疎く、ちょうど見つけたこの店に入ってみたのだという。
自分は雪女で、ここよりずっと北の地域に住んでいたが、とあるきっかけで、生まれ育った村に居づらくなり、夜逃げ同然でここにやってきた。
一人で来たから、家族も友も居ない土地での生活は寂しく、賑やかそうなこの店にひきよせられた、と。
その日、雪女はゴンと少し話をしながら数杯酒を飲んで帰っていった。
しかし、その後、なぜか雪女はゴンの仕事が終わるのを店の前で待ち伏せするようになった。
最初に待ち伏せしている雪女を発見したのは、店の女将さんだった。女将さんはその雪女から異様な霊気を感じたそうだ。そしてそのことをゴンに告げた。
ゴンは雪女に、店の迷惑になるから店の前で待つのはやめてくれと言うと、雪女はその後しばらく店には現れなくなった。
だが今度は、女将さんが原因不明の病で倒れた。最初はガタガタと体を震わせて、その後、高熱にみまわれた。なんとか女将さんの体調は回復したものの、雪女の呪いだといって、雪女につきまとわれていたゴンを解雇したのである。
仕事と家を失くしたゴンが新しい職場を求めて彷徨っていると、例の雪女がやってきた。
雪女は、女将さんのことは濡れ衣だが、自分のせいでゴンが解雇されてしまったことを詫びたいと言ってきた。そして、一杯おごると言われ近くの店に入ったところ、眠り薬を盛られ、気づけば雪女の家に連れて行かれていた。
目覚めたゴンに雪女は、帰ってきてくれてありがとう、もうどこにも行かないで。と言ったのだという。
身の危険を感じたゴンが雪女の家から出て行こうとすると、雪女は鬼のような形相になって、襲いかかってきた。
本来のゴンならば、雪女に妖術で押し負けるはずはなかったのだが、その時のゴンはすでに氷室の術を受けて霊力を消耗していた。さらに、雪女の家には呪いが幾重にも仕掛けられており、極限までゴンの霊力は削られ、氷柱を振りかざして襲ってくる雪女を退けるのもやっとだった。
そして、なんとか命からがら逃げだしたゴンは、道端で力尽き、楓に拾われることとなったのだ。
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