猫ー3

やっと獣道を抜けると、山道は下り坂に転じた。

瑞穂はその坂を足早に下りながら、背中にじっとりと嫌な汗が滲むのを感じていた。

瑞穂に魔物を祓う神術は使えない。もし神堕ちに遭遇すれば、神堕ちを退ける方法はないのだ。


「ねえ瑞穂、もし神堕ちが出てきたらどうしよう」


瑞穂たちが神堕ちから逃れるためには、診療所に帰るしかない。診療所であれば、瑞穂が緻密に編み上げた結界によって、神堕ちが中に入って来ることはできないのだ。


「早く診療所に帰ることだけ考えよう」


もし途中で出会ってしまったら、その時は、喰われるのみ、だ。


瑞穂は、あれだけ辛かった体の軋みも忘れ、ひたすら診療所への道のりを急ぐ。

曲がりくねる坂道を下っているとき、前を駆けていた猫が急に足を止めて後ろを振り向いた。


猫を避けようとしてつんのめった瑞穂は、そのままま歩調が乱れ危うく顔面から横転しそうになった。

そんな瑞穂の腕を、隣にいた楓がとっさに掴む。危なかったわね、といって楓は瑞穂の体を引っ張り起こした。


猫はというと、今しがたやって来た道をじっと見つめ、耳をそばだてている。猫が見つめる道は緩やかに右に曲がっていて、その先は生い茂った木々の枝葉でよく見えない――。


ふいに風が止まった。

辺りが、しんと静まりかえる。

鳥の鳴く声も虫の羽音も、葉が落ちる音すら、聞こえない。

瑞穂の耳には、早鐘を打つ自分の鼓動だけが響いていた。


ずん。ずず…ざさっ…。

何かが土を穿つような、引きずるような音がこだましはじめた。

幻聴のように微かに聞こえ始めたその音は、段々と大きくなっていく。


「なに…?」


瑞穂の隣で掠れた声が漏れた。

全身がこわばり、内から叩きつける鼓動で胸が苦しくなる。


そして、草木に覆い隠された道の先からゆっくりと、「何か」が現れた。

その「何か」は瑞穂の身長よりはるかに大きな、人の顔だった。


複数のぎょろついた目を有し、鼻はなく、顔を割るように裂けた口がある。その顔面の両側からは、人の大腿からつま先までが、蜘蛛の足のように何本も生えていた。

あまりに異様なその姿は、およそ人の顔とは呼べないものなのに、それでもその「何か」は、人の顔なのだと感じさせるものがあった。


「瑞穂!」


楓の切迫した声で、瑞穂は我に返る。

すでに猫は、化け物から逃げるように駆けだしていた。二人も後を追って走り出す。

人の顔の化け物は、瑞穂たちが走り出したのと同時に、速度を上げ追いかけてきた。


(まさか、あれが神堕ちなのか)


瑞穂は今自分たちを追いかけてきているあれが、神堕ちだと思いたくなかった。

文献に記されていた神堕ちの特徴が、今見たものと一致するとしても――。


かしゃっかしゃん。瑞穂と楓の足が地を蹴る度に、二人が持つ鞄の中身が揺れて音を立てた。重い。

診察鞄はかなりの重量があり、疲労がたまっている体で、その鞄を抱えながら走るのは辛かった。

となりを走る楓は、動きに無駄のない鮮やかな走りを見せていたが、それでもやはり鞄は邪魔そうに見える。

後ろをちらと振り返ると、人の顔の化け物は、愚鈍そうな図体をしているにも関わらず、瑞穂の予想をはるかに超える速さで近づいてきていた。

その勢いに瑞穂は思わず息をのむ。


「楓、荷を捨てるぞ!」


楓は本当に良いの? という顔で瑞穂を見やった。

瑞穂は、いいから! と叫んで、自分が持っていた診察鞄を手放した。

鞄は、がしゃんっと嫌な音を立てて道に転がっていった。

楓も一瞬ためらったのち同じようにする。


荷を捨て多少身軽にはなったが、化け物との距離はむしろ、どんどん近くなっているようだった。

瑞穂は、この期に及んで、足が重くなり始めたのに気づいた。足が上手く上がらない。

颯爽と走っていた楓の顔にも疲労の色が滲み、肩で呼吸をしていた。

そんな二人に追い打ちをかけるように、追い風に乗って化け物の瘴気が漂ってくる。

ただでさえ息絶え絶えなところに、瘴気を吸い込み、喉を焼くような痛みが襲う。

瘴気は瑞穂の頭をも侵し、意識を朦朧とさせはじめた。

化け物はもうすぐそこまで来ているというのに、目の前が霞んで道もよく見えない。

そして意識が、ほんの一瞬、ぷつ、と途絶えた。

しまった! と思ったときには、瑞穂は顔から地面に着地していた。


「わ! 瑞穂!」


楓は数歩進んだところで瑞穂が派手に転んだことに気づき足をとめた。

行け! と瑞穂が叫ぶのも聞かずに楓は瑞穂の側に駆け戻った。

楓が地面にはいつくばっている瑞穂の手を取って引き起こそうとするも、瑞穂は足に力が入らず、すぐに立ち上がれない。

化け物はすぐ後ろに迫っている。

振り返る瑞穂の目には、不気味に開かれた化け物の口だけが、映っていた。

喰われる――。


その瞬間、眼前が急に明るくなった。と同時に、顔に熱風が吹きつけられる。

目の前にいる化け物は、燃え盛る青い炎に包まれていた。


瑞穂と楓はその場にしゃがみこんだまま、その光景を眺めていた。

そんな瑞穂と楓の後ろから、深いため息が聞こえた。


二人が振り返るとそこには、翡翠のよううな瞳の少年が立っていた。

亜麻色の細く短い髪が、さらさらと風に舞っている。

彼の整った顔立ちは、熱風が吹きつける中でも、どこか涼しげに見えた。


「もしかして君、猫くん?」


少年は不機嫌そうに、うん。と答えた。


「まったく、あんたらときたら。神堕ちがいる山なんか行くなよな」

「神堕ちがいると知ってたのか?」

「だから俺行かせないようにしてたろ?」


猫の悪戯だと思っていたことは全て、瑞穂たちを隠岐山に行かせないためのものだったらしい。

楓はさっと立ち上がって猫のもとへ駆け寄った。

すっかり腰が抜けてしまった瑞穂は、まだ地面に尻をつけたまま二人を見上げている。


「助けてくれてありがとう」


頷く少年の顔は不機嫌、というより、どこか辛そうな表情にも見えた。


「霊力温存しといて正解だった」

「猫くん名前は?」

「俺はゴン。まあ、なんだ。おれのほうこそ、その…ありがとな、昨日」


ゴンは恥ずかしそうに口の中をもごもごさせる。


「昨日の怪我はもしかして、この化け物にやられたの?」

「この怪我は、神堕ちにやられたんじゃ…な、くて」


そう言うゴンの顔から、みるみる血の気が引いていく。


「神堕ちが出た…から頑張って…み…けど。もう…」

少年はついに立っていられなくなり、膝から崩れた。


その体を楓が受け止めたときには、ゴンはまた猫の姿に戻っていた。

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