猫ー2

外は雲一つない晴天だった。

瑞穂と楓は、初秋の爽やかな風に吹かれながら、畦道を歩き出す。

風にのって赤とんぼが二人の上を飛んでいった。


「にゃっ」


いつの間にか、診療所においてきたはずの猫がついて来ていた。


「寝てなくて大丈夫なの。君」

猫は知らん顔で二人の横を歩いている。

「体が辛かったら着いてこないだろう」


猫又というのは気まぐれな妖なのだ。考えを探ったところで、その行動に一々理由などないのだろう。


こんなに気持ちのいい気候の下でも、瑞穂の体は重く、山道の上り坂ともなると膝が震えて転げずに歩くだけで精一杯だった。

瑞穂はここ数日の寝不足に加えて、人間の娘と暮らすという思いがけない出来事により疲れがたまっていたのだ。


一方、楓はというと、初めての往診に浮かれているのか、その足取りは軽く、鼻歌まで歌っていた。

瑞穂がとなりで、よたよたと老人のように歩いているのを見かねて、楓は瑞穂の背中を後ろから押す。


「しっかり瑞穂! これから診察もしなきゃいけないのよ」

「大丈夫歩ける。歩けるから」


そう言いつつも、内心は今すぐ引き返して家で横になりたい気分だった。

だが小豆洗いとの約束がある。行かない訳にはいかない。

猫はそんな二人の横をすまし顔で着いてきていた。


坂を登りきると、そこから脇道に逸れ、獣道をゆく。

枝葉が生い茂る細く曲がりくねった道を、二人と一匹は一列に並んで進んだ。道に積もった落ち葉が、踏みしめる度に乾いた音を鳴らす。


そのうち、水が流れる清涼な音が近づいてきた。その音に混じって、規則的に刻まれる歯切れのいい音が聞こえてくる。


うっそうとした道から開けたところに出ると、そこは低い崖になっていて、下には清らかな水の流れる川が見えた。

河原に目をやると、瑞穂の腰位の身長の痩せた爺さんが、こちらに背を向けてしゃがみこんでいるのが見えた。小豆洗いだ。


「小豆のじっちゃん!」


瑞穂は崖の上から、その背中に届くよう声を張り上げた。

小豆洗いはきょろきょろと辺りを見回したが、どこから声をかけられたのか、わからないようだ。


瑞穂は手を振りながらもう一度呼びかけた。小豆洗いはやっと瑞穂たちの姿を見つけたらしく、手を振り返す。


瑞穂と楓は、人ひとりがやっと通れるほどの細い崖路を降りた。

猫は二人より先に河原に降りていて、川の水で喉を潤している。


「遅くなったな。すまない」

「なぁにを言いなさる。わざわざ神さんに来てもらっとるんじゃ。こっちが礼を言わにゃならんじゃろ。ところで、そちらのお嬢ちゃんは?」


瑞穂が口を開きかけると、楓がずいと瑞穂の前に進み出た。


「最近、瑞穂先生のところで働き始めました。楓といいます」


よく通る声だった。


「いやあ、元気なのが入って良かったのう。先生」


小豆洗いは、にやりと笑いながら、そのびしょびしょの手で瑞穂の腰の辺りをバシバシ叩いた。

ただでさえ崩れそうな骨身に振動が響く。瑞穂は体の芯の疼きをぐっとこらえた。


「じっちゃん、手の調子はどうだ?」


小豆洗いは、両手の甲を上に向け瑞穂の前に突き出した。


「正月に向けて小豆の依頼が増えとるでな」


突き出された小豆洗いの手は、ひび割れて赤く腫れている。


「うわ、痛そう。あかぎれだね」


楓がいたわしそうな表情で、小豆洗いの手を見つめた。


「これは、あかぎれじゃないよ。小豆の霊気にかぶれたんだ。じっちゃんが洗ってるのは、神に供えられた霊気の強い小豆だから」


それを聞いて楓は、何か思いついたようにハッとした顔をする。


「もしかして、またあの炭をつかうの?」

「そのとおり! よくわかったな。ただ今回は、炭は飲まない。じっちゃんの手は、皮膚の表面に強い霊気が触れたのが原因だから、軟膏として患部に塗る」


瑞穂は診察鞄から、軟膏壺を取り出し、海苔の佃煮のような色の軟膏を木べらですくって小豆洗いの手にのせた。

小豆洗いはその軟膏を、まんべんなく手に刷り込んでいく。

全体に軟膏がいきわたると、小豆洗いの手は、ずず黒く、なんともみっともない状態になった。


「そろそろふき取ってもええかな」


小豆洗いが、首にかけていた手拭いで軟膏をふき取ると、無数にできていた皮膚のひび割れが全てなくなっていた。


「すごい! 傷が治ってる」

「やっぱり先生の薬はよく効くのう」

「おじいさん、なんでそんな手になってまで小豆洗い頑張るの?」

「小豆を洗わんかったら、わしはわしでなくなるからのう」


小豆洗いは自分の手をさすりながら、苦笑した。


「それじゃあ、また来月同じ日に来るよ」

「気つけて帰ってくれな」


「おーい猫くん。そろそろ行くよ」


猫は遠くの岩の上で寝そべっていたが、楓の呼ぶ声で起き上がり、ひらりと岩から飛び降りた。すると前足に巻いていた包帯がほどけてその端が宙を舞った。


「あの猫又、怪我しとるんかい?」

「ああ、そうなんだ。昨日、倒れてたのを楓が見つけて連れて来たんだよ。元気になってよかったが、お陰でおれたちは睡眠不足さ」

「もしや、神堕ちに襲われたんじゃなかろうか」


小豆洗いが神妙な面持ちで言った。


「神堕ち? さすがにそれはないだろう。神堕ちに襲われたんじゃ、あんな怪我じゃすまないさ。それに神堕ちなんて滅多に現れるものじゃないだろう?」

「いやあ先生。それが最近、この辺りにも出たらしいゆうて、妖の間じゃえらい噂になっとりますよ」


小豆洗いが冗談を言っているようには見えなかったが、神堕ちがうろついているなど俄かには信じられない。

神堕ちが氷室の術を使うがずがないのだ。神堕ちは術を使えない。

だが、猫がまだ人の姿になれないというのも気になっていた。

猫はひょっとして、氷室の術に加えて、さらに神堕ちの瘴気にもあてられたのだろうか。

だとすると――。

仕留め損ねた猫の匂いを辿って、神堕ちがやって来るかもしれない。


「楓、急いで帰ろう」

「え、どうしたの?」

「神堕ちという魔物が近くに出たらしいんだ。魔物は暗くなると余計に活発になるから、陽が落ちる前に診療所に戻った方がいい」


瑞穂と楓は急いで荷物をまとめ、帰路についた。もと来た細い獣道を歩きながら、楓がちらちらと瑞穂を振り返る。


「その神堕ちってのは、どういう魔物なの?」

「おれも文献でしか読んだことがないが、牛を丸飲みするほど大きな図体をしていて、足も速いそうだ」

「あのおじいさんは大丈夫なの?」

「小豆洗いはこの辺りを熟知してる。身を隠す場所なんていくらでも知ってるさ」


前を歩く楓の表情は見えなかったが、神堕ちの話を聞いてから、その足取りが段々と速まっていることに瑞穂は気づいた。猫は楓にせっつかれるように前を小走りに駆けていく。


空を見上げると、あんなに気持ちよく晴れていた空にはいつの間にか鱗雲が出ていて、遠くの山に沈みかけている夕陽が、その鱗雲を禍々しく朱殷に染めていた。

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