猫ー1
(荷物が置いてあったということは、帰ってくるつもりはあるのか)
瑞穂は診察室に戻り、文机に向かって悶々としていた。
人間の匂いはほとんど消えている。そうそう危ないものに狙われることはないばずだ。心配せずとも、ひょっこり帰ってくるだろう。
瑞穂は不安をかき消す理由を探すたびに、掌にじっとりと汗が滲むのを感じていた。
ちりんちりーん
診療所の玄関に取りつけられた鈴が鳴る。
瑞穂はその音を聞くや否や、診察室の襖を勢いよく開けて待合に飛び出た。玄関のほうに目をやると、ちょうど引き戸を閉めた楓がきょとんとした顔で振り返った。
「どこ行ってたんだ、心配したんだぞ」
「猫が鳴いてる気がして、診療所のまわりを見に行ったの。そしたら、ほら、この子が倒れてた」
楓はその腕に、白と亜麻色の毛並みをした一匹の猫を抱いていた。
猫は目を閉じ、楓に体重を預けきっているようだ。毛は見るからにボサボサで艶がなく、左前足の辺りには血がべったりついている。
「怪我してるし、体もすごく冷たいの。瑞穂って、さすがに猫は専門外かな?」
瑞穂は獣医ではない。
が、この猫にはしっぽが二つある。
「こいつは猫又だ。れっきとした妖だよ」
猫を診察室の座布団の上に寝かせると、瑞穂は
(まだ、気の巡る音はしてる)
猫はひどく衰弱しているが、手当をすればまだ回復の見込みはある。
「楓、この臭いわかるか?」
「魚か卵が腐ったような、臭いのこと?」
「そう。これが呪いの臭いだ。呪いを受けると、こういう腐敗臭のようなひどい臭いがする」
どうやら楓は妖が見えるだけでなく、呪いを感知することもできるらしい。
「なんで呪われちゃったんだろう。この子」
呪い、と一口に言っても、その程度や種類は様々である。
まずは傷口を見て、どういう類の呪いを受けたのか確認する必要がある。
瑞穂は猫の足を観察しようとしたが、毛にべったりついた血のせいで傷口がよく見えなかった。
「楓、桶を取ってきてくれるか」
楓は頷くと母屋に走っていき、風呂場の桶を診察室に持ってきた。
処置用の桶がとなりの処置室にあることを、楓はまだ知らないのだ。
(あとで物の場所も一通り教えておかないといけないな)
瑞穂は心の中でつぶやきながら、薬棚の上に置いてある一升瓶を取ると、中に入っている神水を風呂桶に注いだ。
その神水の中に猫の前足を入れ、清潔な手拭いで傷口を優しく洗う。
猫は声を出す力も残っていないのか、傷口を洗っている間、じっと目を閉じたまま大人しくしていた。
「かなり深いな」
傷は、刃物などで切りつけられたような深い切り傷だった。
血はすでに止まっているが、傷の周囲からはジュクジュクと浸出液が出ていて、傷の周りだけひどく冷たい。また体温も低下している。
体温低下と、創傷周囲の極端な冷感。
このことから考えられる術式は――。
(氷室の術か)
瑞穂は薬棚から、小さな青い壺を取りだし、中に入っている軟膏を木べらで少量すくって、清潔な布巾に乗せた。その上に、茶色い粉を振りかけて、木べらでよく混ぜる。
「それはなに?」
楓が猫に向き直った瑞穂の手元を覗き込んだ。
「これは清めの軟膏に熱生姜という生薬を混ぜたものだ。水や氷に関する術ならこの熱生姜が効くはずだ。本当は飲んだ方が効き目があるんだが、今の状態では口から飲むのは難しそうだからな」
瑞穂は、軟膏を傷口に塗り、布巾をその上に被せた。さらにその上から手際よく包帯を巻く。
「これでもう大丈夫なの?」
「まだ分からない。傷口は清められたし熱生姜である程度呪いは祓えると思うが、どこまで回復するかはこの猫しだいだな」
楓は猫の体をそっと撫でてやる。
「じゃあ、もう他にできることはないの?」
「そうだな、あとは霊力を消耗しないように、体を温める」
楓はすぐさま座布団ごと猫を抱えて、母屋のほうに連れて行った。瑞穂も神水の入った一升瓶と熱生姜を持って、あとを追う。
居間に着くと、楓は猫をそっと炬燵の中に寝かせた。瑞穂は中の様子が観察しやすいように、一面だけ炬燵の布団をめくっておく。
猫は、楓が連れてきたときより幾分楽そうな様子だったが、まだぐったりと横たわったままだった。
猫に霊力のあるものを摂取させるのは、意識が戻らないことには難しい。
交代で猫の看病をしながら、つい炬燵でうとうとしていた瑞穂は、楓のけたたましい声で起こされた。
「瑞穂! この子目覚ましたよ!」
ちらと時計を見ると、針はすでに日付を越えていた。
瑞穂は楓が覗き込んでいる隣に膝をつき炬燵の中を覗いた。座布団の上で丸まったままの猫はまだぐったりしていたが、瑞穂に気づいて少し顔を上げた。
猫と目が合う。
猫の瞳は、翡翠のような、きれいな緑色だった。
「薬飲めるかな?」
「そうだな一度やってみるか」
瑞穂は、小皿に神水と熱生姜を入れて混ぜ、猫の口元に持っていった。
しかし猫は飲もうとしない。
「だめだな。まだ水が飲めるほど回復してないのかもしれない」
それを見ていた楓は、台所に走っていき、箸と布巾を持って帰ってきた。
そして箸に布巾を巻きつける。
「これで飲ませてみよ」
布巾を巻きつけた箸の先に熱生姜水を含ませ、猫の口元に持っていくと、猫は舌を出して、ペロリと熱生姜水を舐めた。
瑞穂と楓は顔を見合わせる。
二人はこの夜、交代で猫に神水を飲ませ続けた。
朝、瑞穂と楓は、炬燵で気を失ったように眠っていた。
瑞穂は、腹の上にずしりと重みを感じて目を覚ました。
首をもたげると、腹の上に乗っていたのは、翡翠の瞳の猫である。
「おまえ、元気になったのか」
「にゃあ、おぅ」
猫は元気に声をあげた。
安堵と同時に、再び睡魔が襲ってくる。自然と後頭部が床についた。
「にゃあ!」
どうやら、この猫は瑞穂を寝かせておいてくれないらしい。瑞穂は腹の上に乗った猫を脇にどかせて、起き上がった。
炬燵で寝てしまったからか、体中が痛い。
「もう起きられるようになったんだね」
瑞穂が起きあがった気配で楓も目を覚ましたようだ。
楓はむくりと体を起こすと、寝起きとは思えない動きで、横を通り過ぎようとした猫を捕まえ自分の膝の上に乗せた。そして膝の上に乗せた猫の背中を撫でる。猫は無理やり捕まえられたせいか、どこか不機嫌そうな顔に見えた。
「まだ言葉は話せないみたいだな」
「猫又ってしゃべれるの?」
「ああ、たいてい猫又は言葉を話せる。人の姿にだってなれるはずなんだけどな」
「え? 人になれるの?」
「霊力が一定以上ある妖は人の姿になれるんだ。妖の見た目は、人型や半妖型、獣型や異形とかいろいろあるけど、人の姿に近いほど霊力が高い」
楓はへえと興味深そうに頷く。
「半妖型ってのは、どんなやつ?」
「耳とかしっぽとか、体の一部が獣や異形の姿になってるやつのことだ」
「ああ! それなら、わたしも見たことある。可愛いよね、けも耳ってさ」
君も半妖の姿になってみてよ、と楓が猫の目を覗き込む。
猫はじっと黙って背中を撫でられていたが、ついにするりと楓の手から逃れ、炬燵の中にもぐりこんでしまった。
「そうだ、今日は往診に行く日だった。そろそろ用意しないといけないな」
「おうしん?」
「妖の住んでるところに行って、診察するんだ」
「瑞穂、そういうのもやってるんだ」
「妖は自分の縄張りから離れられないやつもいるからな。今日は小豆洗いという妖のところへ行こうと思ってる」
「小豆洗い?」
楓が首を傾げる。
「小豆洗いってのは、川の水で小豆を洗う妖だ。彼は自分の住み着いている川から離れることができないんだよ」
「その小豆洗いってのは、どこにいるの?」
「壱岐山っていう山の――痛っ!」
瑞穂は足に鋭い痛みを感じた。炬燵に潜っていたはずの猫が、いきなり瑞穂の太ももで爪とぎを始めたのだ。
瑞穂は両手で猫の脇腹を摑まえると目線が合う高さまで猫を持ち上げる。
「ひとの足で爪なんか研いだら痛いだろ!」
「にゃうん!」
猫は叱られたのが気に入らなかったのか、苛立たしげにしっぽを横に振った。
(なんて反抗的な目だろう)
必死で手当てして寝ずの看病をしてやったのに、なんとも恩知らずな猫である。
「お腹空いてるんじゃないかな。水しか飲んでないもんね。わたし、何か見てくる」
そう言って楓は台所に駆けて行った。
残された瑞穂は猫を床におろすと、浴衣の裾をめくって猫に引っかかれた箇所を確認する。血は出ていないが、太ももには薄っすら引っかかれた痕が残っていた。猫はかたわらで、まだ瑞穂の目をじっと睨んでいる。
ニボシの袋を抱えて戻ってきた楓は、皿にニボシを数匹乗せて床に置いてやった。猫は皿に飛びついて、うまそうにニボシをたいらげる。
朝食後。瑞穂は診察室で往診に使う物品を診察鞄に詰めていた。足りないものがあるのに気づいてとなりの処置室に取りに行くと、がしゃん、と大きな物音が診察室の方から聞こえた。
「うわ」
処置室から診察室を覗くと、先ほど診察鞄に入れた物が全て床にぶちまけられていた。
視線を感じて振り返ると、猫が聴魂器をくわえてこちらを見ている。
「あ! おまえがやったんだな。おい、ちょっと。返しなさい!」
瑞穂は聴魂器を取ろうと手を伸ばしたが、猫はするりとかわして待合の土間に飛び降りた。瑞穂も追って土間に降りるが、猫は聴魂器をくわえたまま、今度は長椅子にぴょんと飛び乗る。
「おまえなあ」
瑞穂は苛々していた。もう往診に行かなくてはいけない時間なのだ。こんな遊びにつきあっている暇はない。
猫は瑞穂の都合など知らぬとでも言うように、ぐるるんと喉を鳴らした。
「瑞穂~。まだ行かないの?」
そこに楓がやってきた。猫は楓の足元をすり抜け母屋の方へ走り去る。
「え? あれ、猫くん?」
「聴魂器を取られたんだ! 捕まえてくれ楓」
結局、猫はそのあと行方をくらませてしまい、最終的に楓の作ったニボシの罠に猫がかかったのは、瑞穂たちが昼食をとってから随分たった頃だった。
「なんでこんな悪戯するんだ。もう外にほっぽりだすぞ」
聴魂器の代わりにニボシをくわえた猫は、その翡翠の瞳で瑞穂を睨んだ。
「嫌われちゃったのかもね」
散々悪戯で瑞穂を振り回した猫だったが、やはりまだ完全に霊力は回復していなかったようで、その後、猫は再び炬燵に入って眠ってしまった。
猫が眠ったのを確認した瑞穂と楓は、寝る子を起こさぬよう静かに診療所を出た。
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