人ー3
朝、瑞穂が完成した薬を持って居間に向かうと、楓はすでに炬燵に入って待っていた。
髪を一つにまとめ、貸してやった瑞穂の小袖に着替えている。男物の着物を着ていると本当に少年のように見えた。
「瑞穂、寝てないの?」
ふらふらしながら入ってきた瑞穂を楓が心配そうに見上げる。
「妖に化ける方法を考えてたんだよ」
瑞穂はそう言って、青緑色の液体の入った小瓶と、鉄製の噴霧器を炬燵の上に置いた。
「この瓶に入っているのが人間の匂い消し。噴霧器には、妖の匂いに似せて調香した香水が入ってる」
楓は、目の前に置かれた、明らかに食べ物らしくない色の液体が入った小瓶を手に取り、恐ろしい化け物でも見るような目で見つめた。
「もしかして…これ、飲むの?」
楓は不安そうな目で瑞穂を見た。瑞穂は黙ってうなずく。
小瓶に目線を戻した楓は、ゆっくりコルク栓を引き抜き、中に入っている液体の匂いをかいだ瞬間、苦虫を嚙みつぶしたような顔になりすぐに鼻から小瓶を遠ざけた。
瑞穂はぼんやりとその光景を眺めていた。徹夜明けの頭は霧がかかったようで意識が遠い。
「大丈夫よ、楓、これくらい大したことないわ」
楓はぶつぶつと独り言を唱え、小瓶の中身を一気に飲みほした。
「うっへぇ! まずい」
楓は青く染まった舌を出してみせる。
「初めて作った薬なんだが、大丈夫そうか?」
「それ、飲んでから言うの」
楓は苦々しい顔のまま瑞穂を睨んだ。
そう言われて瑞穂ははたと気づく。
(もしかすると、これはかなり危ない橋を渡っているのではないか)
瑞穂は今まで人間に薬を飲ませたことはない。
新しい薬を作ることに夢中で、副作用のことまで気がまわっていなかった。
もし楓に良からぬ影響がでたら――。瑞穂の額に冷汗が滲む。
「まあ今のところ、なんともないけど」
見たところ、楓の身体に異常はなさそうである。楓からにじみ出ていた人間特有の匂いも、徐々に薄くなっていくのが分かる。
どうやら、うまくいったようだ。
瑞穂はほっと胸をなでおろし、手で額の汗を拭った。
「じゃあ次は、このスプレーをかけたらいいのかな?」
瑞穂は頷くと、楓が手に取った噴霧器をもらい受けた。楓の頭の先からつま先まで、まんべんなく香水を振りかける。
「わあ! いい香り! だけど何の匂い?」
「君は『木の精霊』ということにしようと思うんだ」
木の精霊なら妖術が使えなくても、たいして怪しまれない。しかも花や木の精霊というのは香りが強いものが多いので、濃いめの調香にして人間の匂いも誤魔化しやすい。
ちりんちりーん
診療所の引き戸が開く音と同時に、来訪者を知らせる鈴が鳴った。
患者がやって来たようだ。
瑞穂は立ち上がろうとしたが、中腰になったところで膝が、がくりとおれた。体の節々から悲鳴があがっている。
「はーい。今、行きまーす!」
瑞穂がもたもたしている間に、楓は勢いよく飛び出していった。
「あ、おい!」
楓の人間の匂いは随分薄くなったというものの、まだ完全に消えたわけではい。
敏感な妖ならその匂いを嗅ぎつけるかもしれない。
瑞穂は鉛のような足を引きずり楓のあとを追った。
外廊下に出て離れに向かっていると、楓が、たたっと走って引き返してきた。
「患者さんが来てたよ」
「君、人間だって気づかれなかったか?」
「大丈夫。ばれてないみたいだった」
瑞穂は患者を待合で待たせ、診察室に出しっぱなしになっている、匂い消しを作る際に使った道具や本を慌てて片づけた。
最中、待合のほうから野太い声と楓の笑い声が聞こえてきた。何を話しているのかまでは聞こえないが、妖が怖くないというのは本当だったらしい。
「診察室へどうぞ」
楓が案内してきた患者は、巨漢の、のっぺらぼうだった。
「先生、とにかく痒くてたまらんのです」
どしんっと座布団に座ったのっぺらぼうの顔面は、真っ赤に腫れただれていた。
「これはひどいなあ」
服をめくってもらうと、顔だけでなく腹や背中の皮膚も同様にただれていた。
「なにか原因として思い当たるものはないですか? 普段食べないものを食べたとか、触れたとか」
のっぺらぼうは、腕を組んで首をかしげる。
「いやあ。変わったものは特に、食べとらんですね」
のっぺらぼうの様子からすると呪いをかけられた痕跡はない。もし呪いをかけられていれば、魚の腐ったようなひどい臭いがするはずなのだ。
呪いでないとすると、他に考えられるのは、強い霊気にあてられた可能性である。
その場合、体内に取り込んでしまったのか、皮膚に触れただけなのかで対応が異なる。こののっぺらぼうが、一体どちらなのか確証が欲しいかった。
「おじさん昨日、珍しいお酒飲んだって言ってなかった?」
楓がのっぺらぼうの顔を覗き込む。
「ああ、酒の神さんのやつな。あれは、うまかった。先生も飲んだことあります?」
「酒の神様が作ったものを飲んだんですか? じゃあ、たぶんそれだな。原因は」
「え? 酒で? でも酒なら毎日飲んでますぜ」
「酒の神様が作る酒は、霊気の強いものがあるんですよ。おそらくこの皮膚ただれは、その酒の霊気に体が負けてしまったからです」
「まさか俺が…酒に負けるなんて。情けねぇ」
うなだれるのっぺらぼうの肩を楓がぽんとたたく。
「強いお酒ばっかり飲んでたら、体も悲鳴上げちゃうよ。たまには休肝日つくって」
「嬢ちゃんに言われちゃ仕方ねえな。その、きゅうかんびってのは、よくわからねぇが。そしたら先生、こりゃもう日にち薬ですかね?」
「いや、
「炭? そんなもの飲んで大丈夫なのかい」
「炭は霊力を吸い取る働きがあるので、強い霊気にさらされたときには、よく効くんです」
瑞穂は診察室の薬棚から炭粉の瓶を取りだすと、匙で一杯分ずつ掬って小袋に分け入れた。
「毎食前に、これを一袋水に溶かして飲んでください。症状が治まっても、全部飲み切ってくださいね」
「ありがとう先生。ちと不安だが、飲んでみるわ」
のっぺらぼうは炭粉の入った袋を受け取ると、お代の銀2枚を支払って帰っていった。
「待合で、のっぺらぼうと何話してたんだ?」
瑞穂は文机の端を押さえながら、のっぺらぼうの診察記録を帳面につけていた。
診察室の文机はどうも最近、足の高さがちぐはぐになってきているようで、物を書く度に、がたがたと揺れるのだ。
「おじさん酒臭かったでしょ。飲んできたの? って聞いたら、昨日の宴会の話をしてくれたの」
「そうか。おかげですぐに原因がわかって助かった」
楓は少し照れくさそうに微笑んだ。
これなら楓は妖ともうまくやっていけそうである。
心配だった人間の匂いも、のっぺらぼうは全く気づいていないようだった。
ひとまず、楓がここで働くにあたって問題はなさそうだ。
のっぺらぼうが帰ったあと、正午を過ぎても次の患者は現れなかった。
瑞穂は患者を待つ間、診察室の文机に向かって護符を作っていたが、途中、猛烈に睡魔が襲ってきた。
「横になりなよ。昨日、徹夜で薬作ってくれたんだもんね」
「じゃあ、少しだけ…」
患者が来たら起こしてくれ、と言って瑞穂は隣の処置室の布団の上に寝転んだ。と同時に意識が途絶えた。
そして目が覚めたときには、すでに日が暮れ始めていた。
瑞穂は慌てて飛び起き、作務衣のしわを伸ばしながら楓を探す。
しかし、診察室にも待合にも楓の姿はない。
母屋のほうへ行ったのかと、そちらも探してみるがどこにも楓の姿はなかった。
(一体、どこに行ったんだ)
瑞穂は、母屋の縁側から庭に降り、玄関にまわり込んで敷地の外に出た。
黄昏時の夕陽が辺りを赤く染めている。
その眩い光の中見えるのは、山の腕に抱かれるように広がる田畑と、ぽつり、ぽつりと佇む民家だけで、人の姿も、妖の影もなく、まるで瑞穂はこの世でひとりぼっちになったようだった。
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