人ー2

 瑞穂は診療所の隣にある母屋に楓を案内した。

 瑞穂はこの古民家の母屋で暮らし、離れを診療所として使っているのだ。

 母屋には、居間と寝室、台所、風呂場がある。


「君の部屋がいるな」

 住み込みということなら彼女にも部屋を与えてやらなくてはならない。

 楓は居間でいいと言うが、一応は女の子だ。居間で着替えをされたりしたら瑞穂が困る。神様にだって、そういう恥じらいはあるのだ。


 検討の結果、楓には物置で寝てもらうことにした。女の子を物置で寝かせるなんて少々気が引けるが他に部屋はない。楓は物置で寝ることを快く受け入れ、意気揚々と与えられた物置にこもり荷をほどきはじめた。


 瑞穂は楓が荷物を整理している間に夕飯の準備を始める。

 今日は昨日買っておいた夏落魚を塩焼きにする予定だ。


 夏落魚かちうおとは、晩夏から初秋にかけて天界の川で獲れる魚で、皮を焼くと柑橘系の果物のような爽やかな香りを放つ。夏落魚は瑞穂が住んでいる下界でも安価で手に入るので、この時期は週に三回は夏落魚が食卓にのぼっていた。


 本来、神というのは天界に住んでいるが、瑞穂は神としては珍しく下界で暮らしていた。

 なぜ下界で暮らしているのかというと、天界に家を持てるほどの経済力がなかったからだ。天界の家は高価なのだ。下界であれば、人が住まなくなった空き家がいくらでもあるし、こうして勝手に住まうことができる。金はかからない。

 それに、そもそも瑞穂は天界の煌びやかな暮らしがあまり好きではなかった。どうにも落ち着かないのである。

 実際、下界に住んでみると、むしろ瑞穂にとっては下界のほうが住み心地がよかった。


 じゅうじゅうと夏落魚かちうおの皮が焦げ、香ばしい香りが台所中に広がる。

 その芳しい香りに誘われるように、楓も物置から出てきた。

 楓は炬燵に座って、いただきますと言った次の瞬間には、まだ熱々の夏落魚に、はふはふと声を漏らしながらかぶりついている。

「これ、すっごいおいひい! 鮎みたいだけど、鮎よりもっと脂がのってる感じね」

 楓は、胸がすくほど気持ちの良い食べっぷりだった。

 幸せそうに食べる楓の横で、思わず上がってしまう口角を隠すように瑞穂はみそ汁をすすった。


 夕食のあと、楓が他人の家とは思えない手際の良さで片づけをしてくれている間、瑞穂は茶を淹れる準備に取りかかった。

 水がたっぷり入って重くなった鉄瓶を持ち、台所の戸棚をちらりとのぞく。


(干し芋を出したら食べるだろうか)


 あれくらいの歳の人間というのは、一体どれくらい食べるものなのだろう。

 楓がここに住むということは、単純に見積もって食費は倍になる。いや、あの食べっぷりからすると、もっとかかるかもしれない。

 今まで瑞穂だけでもギリギリの生活だったのだ。このままでは家計が赤字になることは目にみえている。


(本気で診療所の経営をなんとかしないと…)


 瑞穂は、脳裏に浮かんだおそろしい未来を振り払うように頭を振った。


 干し芋と鉄瓶を持って居間に戻ってきた瑞穂は、長火鉢の火が消えていることに気づいた。

 長火鉢の前に座って、脇に置いてあった麻袋から、饅頭のような形の石をとりだす。その石を掌の上に乗せ、つるりとした石の表面を、団子をまるめるような手つきで撫でた。石は瑞穂の手の中で、じんわりと熱を帯びはじめる。瑞穂はすかさず、その石を長火鉢の中に入れた。石は、徐々に赤くなり、やがて炭のような穏やかな火をつけ始めた。


 この石は、火石ひいしと呼ばれるもので、火鉢や炬燵、かまどや風呂焚きに用いられる。火を扱える神や妖なら不要なものだが、瑞穂は稲の神であるから、火にまつわる神術は使えない。生活していくためには、この火石を購入する必要があった。


 瑞穂は、火石にしっかり火がついたのを確認してから、五徳に鉄瓶を乗せ、その隣には干し芋を並べた網を乗せる。

 その頃には楓も食後の片づけを終わらせて居間に戻ってきた。


「明日から診療所の宣伝、頑張ろうね」

 楓は瑞穂の横に腰を下ろし、じんわりと汗をかきだした干し芋を見つめながら言った。

「その前に、まずは一通り診療所の仕事をやってみた方がいいだろう」

 妖に宣伝すると言っても、この診療所のことを知らないでは話にならない。実際に楓がどれくらい働けるのかも見極めたかった。


 部屋の中に、干し芋の甘く香ばしい香りが漂いはじめる。

 待ってましたとばかりに楓は、網の上で柔らかくなった芋を箸で慎重につまみ上げ、うまそうに頬張る。


「それから、君は妖に化けてもらうよ」

「妖に化ける?」


 楓は芋をくわえたまま首をかしげる。


「人間が働いていたら妖が驚くだろう。それに君が妖に狙われる可能性だってある。人間だってことは明かさない方が賢明だ」

 長火鉢の中の鉄瓶がしゅんしゅんと音を立て始めた。瑞穂は布巾で取っ手をくるみ、茶葉を入れておいた急須に湯を注ぐ。茶の香りが、ふわりとたつ。


「そんな危ない妖がいるの?」

「魔物なんかは君みたいな見える人間が大好物だ」

「魔物って、例えばどんなの?」


 楓は瑞穂が淹れてやった茶をすする。


「他の妖や人間を喰うやつらのことだよ。霊力の高い魔物は、神まで喰らうこともある」

「そういう魔物は、妖とはまた別ものってこと?」

「妖や神が魔物になることもあれば、自然発生的に生まれることもある。基本的に意思や思考を持たなくて、周りに害を及ぼすようなものを『魔物』と呼んでるんだ。おれも、さすがに魔物の類は治療できないし、というか、そんなことしようものなら、おれが食べられてしまうな」

 瑞穂は苦笑した。

「わたし、色んな妖と会ってきたけど、そんなのがいるって全然知らなかった」

「運が良かったんだな」


 魔物の中でも特に危険なのは、「神堕ち」と呼ばれるものである。

「神堕ち」は、元は神だったものが神格を失った成れの果てといわれており、妖でも神でも、なんでも喰らう。強い瘴気を放ち、その瘴気を吸い込むだけで気絶することもあるという恐ろしい魔物だった。

 どこから現れ、どこへ消えていくのかも、よく分かっておらず、まさに神出鬼没の災厄とされている。


 それじゃあ、と楓はまた干し芋をくわえながら瑞穂に尋ねる。


「わたしはどうやって妖に化けたらいいのかな?」

「方法は…今から考える」


 妖に化けろ、とは言ったものの、瑞穂も正直なところ、人間を妖に化かす方法など知らなかった。


(人間の匂いだけでも誤魔化せれば)


 楓が物置に引っ込んだあと、瑞穂は本を探すため寝室に向かった。寝室には布団が一枚敷かれているだけで、あとはその周りを囲むように本の山がうずたかくそびえている。

 薬草や妖の生態、呪いのかけ方・解き方、幻術、天界の歴史、霊植物図鑑。

 ありとあらゆる分野の本が、この狭い寝室に押し込められている。

 布団を敷く場所だけはなんとか確保するように気をつけていたが、目が覚めると雪崩れた本に埋まっていることも、しばしばだった。


 瑞穂は、知の魔窟と化した寝室から、「人間観察学」「天界下界薬草辞典」「しん・調香(応用編)」の三冊を探しだし、それらの本を抱えて診察室に向かった。

 暗い診察室に明かりを灯すと、さっそく文机に本を広げ、該当しそうな頁をパラパラめくってみる。


(まずは人間の匂いを消してから、妖の匂いをつけて…)


 瑞穂は好奇心がむくむくと湧き上がってくるのを感じていた。

 面倒なことになったと思う一方で、こうやって本で調べ、頭を捻り、問題を解決に導く。という過程は、瑞穂にとって、どうしようもなく胸躍るものだった。


 夢中で頁をめくり、薬草や香料を調合し、気づけば空が白んでいた

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