神のあやかし診療所

秋乃西瓜

人ー1

 薄暗い診療所の片隅でひとり、少女が眠っている。

 その光景を目にした瑞穂は、額に汗が滲むのを感じた。


(どうして人の子が…?)


 瑞穂は、人間ではない。この国におわす八百万の神のひとりであり、ここは神である瑞穂があやかしを治療する診療所なのだ。

 人間がこの診療所を見つけ、さらには結界を通過して入って来ることなどありえない。

 だが今、瑞穂の目の前で、人間の少女が気持ちよさそうに眠っている。


 異常事態、である。


 瑞穂は、急く鼓動を静めるように胸に手をあて、少女に近寄った。

 まだあどけなさの残る相貌。艶やかな髪。可愛らしい少女ではあるが、痩せた体つきと地味な服装のせいで少年のようにも見えた。


(この年頃の娘ならもっと着飾ってもいいだろうに)


 見た目に無頓着な性格なのか、はたまた身なりを構っていられない訳でもあったのか――。

(それにしても…)

 気持ちよさそうに寝ているものだ。


 少女がなんの目的でここに入って来たかは分からないが、見知らぬ場所でここまで熟睡できるとは、よほど疲れていたのだろうか。


 瑞穂は、すぅすぅと寝息をたてて眠る少女の顔をじっと見つめた。

 人間の知り合いなどいるはずもないのだが、どうしてか、心の奥底から懐旧の情が込み上げる。どこかで会ったことがあるのだろうか。


(話してみたい)


 通常、人間が神の姿を見ることはできない。もちろん声を聞くことも、話すことも。

 だがこの診療所に入り込んだ彼女ならば、神の姿をその目に映すことができるかもしれない。


 瑞穂は長椅子の横に膝をつき、眠る少女の肩を軽く揺さぶった。


「おい、君。起きてくれるか」


 少女は眉頭に煩わしそうな皺を寄せ、うっすら目を開けた。

 まだ眠そうに瞬きをしながらゆっくり首をもたげ、覗き込んでいた瑞穂と目が合った途端、飛び起きた。

 瑞穂はその俊敏な動きに驚いて、思わず尻もちをつく。

「ごめんなさい!私…」

 瑞穂は動揺する少女をなだめながら立ち上がり、少し間をあけて彼女の隣に腰を下ろした。

「君、名はなんという」

 初対面の男にいきなり名前を聞かれたからか、少女は少し戸惑った顔をしたが、すぐに何か思い当たったらしく、溌溂とした表情で答える。

「士堂楓です。すみません問診表も書かずに、こんなところで寝てしまって」


 瑞穂は「士堂楓」という名に聞き覚えはなかった。

 やはり、見覚えがあると思ったのは勘違いだったろうか。だが彼女の表情や匂いが、瑞穂の心の奥底にある何かに触れてくる。


 そう、ちょうどこんな溌溂とした感じの――。


 瑞穂は過去の記憶がぼんやり見えそうな気がしたところで、目の前にいる少女に訝し気な目で見られていることに気づいた。瑞穂が黙りこくっているのを不審に思ったのだろう。瑞穂は慌てて言葉を継いだ。

「診察をするつもりで聞いたんじゃないんだ」

 楓は眉を寄せる力を一層強めた。

「君がどうやってここに入ったのか知らないが、ここは人間の診療所じゃないんだ。『妖を治療』する所なんだよ」

 楓は目を大きく見開いた。

 瑞穂は楓を怖がらせてしまったかと思ったが、彼女の瞳に恐怖の色はなく、むしろ興味をそそってしまったようで、彼女は少し離れて座る瑞穂に詰め寄ってきた。

「じゃあ、あなたも妖なの?」

「おれは神だよ」

 一応、と付け加える。

 楓は、ほんとに? と首を傾げながら瑞穂の姿を見つめた。


 瑞穂は、神様らしい姿をしていない。

 短髪に作務衣という見た目の問題もあるが、おまえは神として威厳がない、と周りの神々に言われるのだ。

 妖からも、本当は人間なんだろう、とからかわれることだってある。だから楓がそんな瑞穂のことを疑うのも無理はなかった。


 今のところ、瑞穂を神だと言わしめる要素は、「匂い」しかない。

 神、妖、人間にはそれぞれ特有の匂いがある。

 神や妖たちは、それぞれの違いを「匂い」でかぎ分けているのだが、人間である楓には、これもまた難しいことである。


 楓は訝しげに瑞穂を見つめていたが、急に吹っ切れた様子で、ぽんっと自分の膝を叩いた。


「わかった。信じる。でも、どうして神様が妖の治療をしてるの?」

「おれは…神様として人気がなくて。つまり、人間からの信仰を得られないんだ。だから代わりに妖を治療して、なんとか食いつないでいる」


 古来よりこの国には、稲の神を含めたくさんの農耕神がいた。しかし時代は農耕中心社会から商業中心社会に移り、農耕神は昔ほどの輝きを失っていた。

 さらに瑞穂が「稲神」であることも追い打ちをかけていた。瑞穂は稲以外の作物にご利益がないのである。

 小麦の台頭により、米の需要は減る一方。そんな時代に稲神としてのご利益しかもたない瑞穂が、人からの信仰を集めるのは至難の業だった。


 ゆえに、未だ己を祀ってくれる社はなく、人々からの賽銭や供物も期待できない。

 瑞穂が神として生きていくためにはもう「人」以外のものを相手にするしかなかった。


 そして辿りついたのが「妖の診療」である。


 妖の診療であれば、人気がなく、たいした霊力を持たない瑞穂でも、薬草の利用や神術の工夫次第で、仕事として成り立たせることができた。


「だけど診療所も、この通り閑古鳥が鳴いてるんだけどな」


 まだ診察時間中だったが、待合には瑞穂と楓の二人しかいない。

 やっと見つけた生活の糧であったが、思うように患者は増えず、今や妖の診療所も風前の灯火となっていた。

 瑞穂は、神として人からの信仰を集められず、さらに妖の診療という最後の砦まで失いそうになっていたのだ。


 楓はおもむろに立ち上がると、まるで探し物でもしているように診療所の中を探索しはじめた。

 瑞穂は長椅子に座ったまま、そんな彼女をぼんやり眺める。


 ここは人間が住まなくなった古民家をそのまま利用しているので、人間の楓が見ても特段変わった所はないはずだが、彼女はえらく熱心に診療所内を見てまわっていた。


 瑞穂が今座っている長椅子は、玄関から続く六畳ほどの土間に並べてあるうちの一つ。土間は患者用の待合室として利用し、土間を上がってすぐの板間には、文机を置いて受付兼会計ができるようにしてあった。といっても、瑞穂以外に働いている者がいないので、結局、診察室で受付から会計に至るまで全て行っているため、板間の会計所はただの物置になっていた。


 楓は板間に上がって、物置と化した文机上の前に座って、積まれた帳面を手に取りパラパラめくったり、戸棚の中を覗いたりしている。


「たいして面白い物はないだろう」


 んー、と楓は気のない返事をしながら、奥の診察室に向かった。

 板間の奥には二つ部屋があって、左手の襖の奥は診察室、右手は処置室として使っている。

「そっちは危ない薬品もあるから駄目だ」

 楓は瑞穂を振り返り、口をとんがらせて板間から降りてきた。

「というか君、体調が悪かったんじゃないのか? 医者にかかるつもりだったんだろう」

 楓は人間の診療所と間違えてここに来た様子だった。診療所に行く理由など体調不良以外には考えられない。

「たぶん寝不足だっただけなの。さっき一眠りしたら、すっきりした」

「確かに顔色は悪く無さそうだが――」

 ただの寝不足程度で医者に診てもらおうと思うだろうか。

「私がウトウトしながら道を歩いてたから、通りすがりのお婆さんがすごい心配してくれたの。絶対医者に診てもらった方がいいって、わざわざここまで案内してくれたんだ」


 この診療所を知っているということは、その「お婆さん」はおそらく妖だったのだろう。

 なぜ、ここに人間を連れて来たのかは分からないが、妖のすることである。もしかすると彼女はからかわれたのかもしれない。


 楓は軽い足取りで、今度は待合の窓から外の景色を眺めはじめた。

 今日は分厚い雲の垂れ込める、どんよりした日だったが、楓が窓際に立った時、ちょうど山に沈む寸前の太陽が、雲の隙間から顔をのぞかせた。

 するどい陽光が窓際に立つ楓を照らす。

 瑞穂は、その光があまりに眩しくて、目を細めた。


「わたし、ここで働きたい」


 逆光のせいで楓の表情はよく見えないが、その声は力強く、迷いがなかった。


(ここで働く?)

 瑞穂は思いがけない提案に、一瞬頭が真っ白になる。


「君は人間だろ」

 人間が妖の治療を手伝うなど、できようはずもない。

 動揺している瑞穂に楓が詰め寄る。

「わたし実は昔から妖が見えるの。だから怖くないわ。それに患者さん少なくて困ってるんでしょ? わたしがここに妖を連れてきてあげる」

「連れてくるって…君が?」

「本当は助けを求めてる妖ってたくさんいるんだよ。わたしそんな妖たくさん見てきたもの。きっと患者さんが来ないのは、妖たちがこの診療所のこと知らないだけだよ。だったらこっちから知ってもらいに行けばいい」

 楓は綺麗な瞳で真っすぐに、瑞穂を見つめる。

 瑞穂はその瞳を見つめ返しながら、心が強く揺さぶられるのを感じた。


 確かに、彼女の言う通りかもしれない。瑞穂は待つばかりで、診療所のことを知ってもらえるよう働きかけたことはない。

 それに彼女の強い瞳を見ていると、なんの根拠もないのに、なんだか上手くいきそうな気がしてくる。

 普段、理詰めで考える性質の瑞穂にとってそれは新鮮な感情だった。


 しかし――。

 瑞穂の中で膨らんだ期待はすぐにしぼんでしまった。

 他人を巻き込む。ということへの恐怖が襲ってきたのである。こんな廃業寸前の診療所で楓を雇っても、この先うまくいく保障はない。もし潰れてしまったら彼女も共倒れだ。

 ましてや楓は人間。神が己の欲のために、人を不幸に巻き込むことなど許されない。


 瑞穂は、なおも真っすぐに見つめてくる楓から目を逸らした。

「君をここで雇うことはきないよ」

「私が、人間だから?」

「もちろんそれもあるけど、おれはまだ神として駆け出しなんだ。この診療所もどうなるか分からない。そんな状態で他人を雇う余裕はないよ。まずはおれ一人で、なんとかしないといけないんだ」

 楓はきゅっと唇を噛んだ。瑞穂はその様子から彼女が諦めてくれたのだと思った。


 しかし楓は退くどころか、さらに瑞穂に詰め寄ってきた。

 瑞穂は反射的に後退りしようとするが、彼女はそんな瑞穂の両肩をがっしと掴む。彼女のほうが小柄な体格なのに、彼女に掴まれた体はぴくりとも動かせない。


「今まで一人でやってきて、駄目だったんでしょ」


 図星だった。助手を雇えと散々言われながら、頑なに一人でやってきて、その結果がこれである。診察や薬の調達・調合に加えて、金銭管理、診療所の掃除まで全部一人でやるのは正直大変だった。自分でも誰かに手伝ってもらった方が、効率がいいのは分かっている。


 それでも、やはり失敗した時のことを考えてしまうのだ。

 他人を道連れに沈没するより、一人で海の底に沈むほうがまだましである。


「君はまだ学生だろ。学校はどうするんだ。それに親には何て言うつもりだ?」

「わたし社会人よ。歳だって二十一だし…」

 そこまで言って、急に楓の顔が暗くなった。先ほどまでの溌溂とした活気は息を潜め、まるで別人が瑞穂の目の前に現れたようだった。

「わたし天涯孤独ってやつなの。だから誰にも何も言われない」

 彼女の声は、元気な調子を装っていたが、わずかに震えているのが分かった。

「仕事も辞めちゃって、お金もないし、他に頼れる人がいないの。だからお願い、神様」

 瑞穂は、泣きそうな楓の表情を見て心が乱された。

 神というのは人間の悲しむ姿に弱いのだ。なんとかして目の前にいる人間を救ってやりたいと思うのが、神の性。


 彼女を見つめながら、心の内では、他人を抱える恐怖と、慈悲の精神が激しく闘っていた。

 そして、瑞穂の心を掴み取ったのは――。


「まずは、試用期間ということなら…」

「ありがとう!」

 楓は満面の笑みで瑞穂に飛びついた。瑞穂は慣れないことをされて体をびくっと震わせる。楓はそんな瑞穂の心持にはお構いなしといった様子で、今度は長椅子の下に手を突っ込み、何か引っ張り出してきた。

 よっこらしょ、と楓が持ち上げたのは大きなボストンバックである。

「それじゃ、住み込みでお願いします」

 瑞穂は引っ込んでいた汗が再び噴き出してくるのを感じた。

「賃貸も追い出されたんだよね」

 さすがの瑞穂も家のない女の子に野宿しろとは言えない。

 もうここまできたら、生活の面倒もみてやるしかないようだ。

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