第21話 契約〜飛行


「すぐサインしてくれとは言わない。一晩じっくり読み込んでみるといい」

 その日ラトナはただただ草案を持ってきただけだった。シスターとも話をしなかった。それが騎士なりの真摯な態度なのだろう。

 僕は夕食の時にシスターを捕まえて、そのあと言葉のニュアンスを何度か確認しながら3周分くらい読んでもらった。大きさ的にも情報量的にもA3用紙片面といった程度だったが、たっぷり1時間くらいテーブルに並んでかぶりついていた。

「やはりこの世界とディストピアの言葉は違うのですね」

「そのようです」

「こちらの言葉はテツヤさんが知っている概念を言語化するのに十分なものなのでしょうか」

「実感はないですよ。僕としてはただ自分の母語を喋っているだけですから。でも、そうですね。こうやってこちらの言葉、単語のひとつひとつを説明してもらうと、案外似ていますね。大きな違いはない。これを表現するのにどうしてこんな回りくどい書き方になるのか、というのはない。意味が通らなくてそのままの音になっている単語もありませんでした。表現として稚拙だとか、ビジネスにそぐわないということもなかった」

「不思議ですね」

「むろん、今回はこちらの言語がベースなのでそう感じるのかもしれません。契約書の上ではあくまで必要な表現が選び取られているわけで、わざわざ曖昧な表現は使わない。逆に僕が書いた契約書をこちらの言葉に直す機会があればそれが顕わになるのかもしれません。上手く表現できる言葉がないな、というのは」

「お預けですね」シスターは契約書を丸めた。「でも、不思議です。異なる言語が共通の概念を通して訳される。同じ世界ならわかります。かつてどこかで交流があって、あるいは共通のルーツがあって、そこから発音と文法だけが分かれたのだと。でも、まったく交流がなかったはずのこの世界とディストピアに共通の概念があるというのは」

「言語や文化は環境や時代の作用で生じるものだといいます。つながりがなくても、同じような環境で同じような成立過程を経ているのかもしれません」

 言ってみてからすぐに違うなと思った。向こうの世界にはマナや魔法をベースにした文化はない。でも実際マナという言葉が通じている。

「全く別の場所で同じようなものが生まれる。それはつまり、時代と環境の作用ではなく、人間の言語機能の必然によるもの。そういう考え方もできますね」

「生まれる前から定められたもの、後天的ではないもの、ということですか」

「個ではなく種としてのそういったもの、です。これって、なぜ別々の世界に私たちのように酷似した人間種が存在するのか、という問題にも似ていますね」

「似ているというか、根っこは同じですよ」

「人間存在は2つの世界で完全に同一なのでしょうか」

「生物である以上は時代と環境の作用によって淘汰されていくものだとは思いますが……」

「たとえかつてどこかの時代で交わり、起源を同じくするものであっても、長い時を経て環境が両者を隔てたはずだと」

「ええ」」

「全く異なる起源と全く異なる環境を経たものがたまたま一時的にとても似通った姿をとっている、というのは奇跡的すぎますね」

「いいロマンスじゃないですか」


 翌朝、基地の執務室。今日のラトナは比較的かっちりした格好だ。ペルシャ風のジャケットを着ていた。いささか歯痒い。僕だって気持ちを上げるためにネクタイくらい締めてきたかったけど、それ以上に珍しい格好をして人目につくのは避けたかった。

「甲は同等技術の開発についてはこれを阻害しない、というのは」僕は訊いた。契約書の中で一番気になる文言だった。

「革新的な装置だからね。自力で同じようなものを作れるならその方がいい。なにせスマホには限りがある。ありすぎると言ってもいい」とラトナ。

「見込みが?」

「実はもう目処がついてる」

「え?」

 僕は天を仰いだ。実際にはそこには天井があるだけだった。

 儚い天下だったな。

「義理は通すさ」とラトナは仕組みを説明してくれた。確かに電話に着想を得たものだが、技術的には全く別のものだし――というかそもそも電波ではなく魔法だし――僕のスマホの機能を勝手に使うものでもないし、回線に相乗りしているわけでもなかった。文句のつけようがない。法的には向こうの世界の基準に照らしてもクリアだ。キャッチーなサービスとかゲームが流行した時に似たような後続がぽこぽこ出てくることがあるけど、ちょうどそんな感じだった。 

 どだい僕が必要としているのは最低限の生活費とシスターへの返済であって、儲け話を持っていかれたところで不都合はない。会社のために動いているわけではないのだ。それに通信特性からしてスマホ式の電話にもまだアドバンテージはある。

 僕は契約書にサインした。ラトナのサインは契約書の本文とほぼ同じ筆致だった。そうか、彼女が手書きしたのか。


「ものは相談なんだが、その、騎士団方式の電話の絡みで頼みたいことがあるんだ」

「というと」

「どうも魔水晶の結晶が大きい方が信号が遠くまで届くみたいでね」

「はい」

「隣町までデカい魔水晶を運びたいんだけど、そこそこの山道だから陸路だと時間がかかる。空路を使いたい」

「龍ですか」

「ゲートを使えば重さと嵩は気にしなくていい。確実に飛べる。傭兵テツヤに対するクエストだ」

「所要時間は。あと、そう、報酬も聞いておきましょう」

「1時間で支度できるか」

「はい」

「それなら明日の朝まで。今日の日中向こうで作業して、一泊して戻ってくる。飛ぶのは明るい時間の方がいい。報酬は金貨5枚」

「了解です」


 仕事道具をまとめて戻るとラトナは僕を基地の地下に連れて行った。

「これだ」とラトナが地下室で見せた魔水晶は想像の倍は大きかった。大きさといい形といい吸血鬼の棺桶みたいだ。一体どんなモディを倒したらこんなものが出てくるのか……。

「これをバーゼンの塔に設置して通信テストをやる」

 僕はゲートを広げて足を踏ん張る。それでも魔水晶が吸い込まれると1,2歩前につんのめった。この吸引力にはまだ慣れない。

 

 厩舎は基地南側の柵で囲われた一角にあって、数人の騎士が檻から引き出した自分の龍に鞍をつけて訓練していた。鞍はどれも1人用だが、中には後ろにクレーンジブのような櫓を立てているものもあった。妙な形だ。旗を引くためのものだろうか。

「龍は初めてか」

 僕は頷いた。

 もちろん触ったことも乗ったこともない。近くで見るのも初めてだ。前脚と飛膜が一体になったいわゆるワイバーン型で、頭から尻尾の先までだいたい10m、4足立ちで背中の高さが2m、首を伸ばした頭の高さが5m、翼を広げて端から端まで15mといったサイズ感だ。寸法的には翼開長はともかく10トンウイング車でこのくらいだろうか。飛翔するのだから見かけよりは軽いのだろうけど、目の前に立って受ける圧力には近いものがある。

 体は鱗と羽毛の間の子のようなもので覆われていて、色は焦げ茶から黄土色まで様々。赤っぽいのや青っぽいのもいるが、総じて環境から浮かないくすんだ・・・・色味をしている。

 顔立ちは現世の恐竜のラプトル類に近い感じで、小顔で鼻が長く、短い牙が生え揃い、ただ、耳の後ろにはねじれた角が伸びていた。


 ラトナの龍は予想通り赤みの強い体色だった。

「新入りのテツヤだよ。今日は私と一緒に乗せて飛んでもらう。――テツヤ、手を出して挨拶してみな」

 ラトナの龍は鼻先を僕の手に近づけ、それから額に近づけて何度か匂いを嗅いだ。フンッと軽く息を吐いて顎を引いた。目がパチパチしている。なんだか人見知りみたいな反応だ。とりあえず噛まれたり舐められたりしなくて僕は安堵した。

 ラトナは例の櫓付きの鞍を龍の背中に載せ、柵を開いて厩舎の外へ手綱を引いていく。

 1人の騎士が龍に飛び乗り、肩を叩いて走らせる。

 厩舎から通りの方に向かって長いストレートが伸びている。基本的に地面剥き出しの前庭にあって、そこだけ丸太を埋め込んで舗装した区画になっていた。龍が助走に使うためのものだったのだ。体が大きいからさすがに垂直離着陸とは行かないが、1歩が大きいのもあって5歩くらいで悠々と浮かび上がった。大通りの上に出る頃には高度20mは堅い。家々の屋根に影を落として飛んでいく。


「伏せ、伏せ。乗るよ」ラトナは助走区画まで龍を引いてきて指示を出した。

 これで1人用なのか、鞍はかなり前後に長く、2人なら余裕、3人くらいなら想定内といった感じだ。跨った感覚はビッグスクーターに近い。不慣れな僕を前にしてラトナが後ろから手綱を引いた。一瞬だけ甘美なツーリングのシーンを思い浮かべたけど、腰をホールドというより脇腹を締め上げられているし、気を抜くとアキレス腱を蹴られそうだ。

「行くよ。――走れ、走れ。飛べ、飛べ」

 ラトナの龍は丸太に足をかけて踏み出す。最初の2歩が一番揺れた。

 掴まって耐えているうちに進空、あとは羽ばたきの反動、単調な縦揺れだけだ。

 家々の屋根の黒いスレートが足元を流れる。


 龍は低空を維持して城壁を西に抜けたところで高度を下げた。

「降りるんですか」

 隣町まで飛ぶという話だったが?

「見てみな」ラトナは眼下を流れる川を指差した。平原に流れる緩やかな川だ。川幅の5倍くらいある広い河川敷を従えている。

 そう、その河川敷が問題だった。

 僕は妙なものを見た。どう見ても飛行機だった。クランク状に掘り込まれた川岸に飛行機が並んでいるのだ。

「グライダーだよ」ラトナが言った。

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