第3話 ブランチ〜水飲み場

 馬車は道の凸凹を踏みながらガタガタと進んだ。進路はどちらかといえば巨大コウモリが落ちていった方角だ。

「獣というのは、先ほど龍騎士たちが戦っていた黒い大きな生き物ですか。後ろの死者たちも……」

「見えましたか」

「ええ」

「あれはオオカミやトラなどの無辜むこの獣ともまた違います。ある種の呪いをかけられた獣で、騎士たちはベタ・モディと呼んでいます。『ベタ』が獣、モディが『呪われた』という意味」

「騎士の方がずいぶん圧倒していたように見えましたが」

「反撃に移ってからは、ええ、そうですね。私も本職ではないのでよくはわかりませんが、姿を隠しているところから不意に襲われるといけないようです。森の中では特にあの黒さは見えにくいですから」

 空中戦の前に地上あるいは低空であの獣を捜索するフェーズがあったのだろう。死者はその間に不意打ちを受けて命を落とした騎士たち、ということか。

「彼らは龍に乗っていましたが。車では時間がかかるでしょう?」

「ええ、生きていれば医務隊が運びます。死んでしまうと教会の扱いになります。死は霊魂と肉体を分離します。霊魂を連れ帰れるのは聖職者だけです。聖職者はドラゴンには跨がらない」

「難儀ですね」

「儀式ですから。かけるべくして時間をかけるのでしょう。そういったお役目がなければ聖職者は聖職者でいられなくなってしまいます」


「昼まであと2刻くらいでしょうか」シスターは太陽を見上げた。

「ええ、10時過ぎですね」僕は腕時計を見た。

 シスターは手綱を膝に挟んで座席の横に置いていた藤編みのバスケットの覆いを取った。

「朝食はとりました?」

「まあ、軽く」

「もし空腹でしたら」シスターは薄切りの黒パンに四角いバターを乗せた。

「いただきます」

 僕は黒パンを噛みちぎり、バターを歯で削って口に入れた。

 うッ……。

 固い。とにかく固い。ジャーキーみたいだ。酸味の強い。バターはこれ半分チーズだな。

 これが中世かァ。いや、でも、そういえば現世のドイツでもこんな朝飯があったな……。今は携帯用の簡易食と思っておこう。

「そうだ」と僕。機内食のサンドイッチを包んでおいたのを思い出したのだ。具はツナとキュウリが1つ、トマトサラダが1つだ。いくら足が早くてもまだ腐っていないだろう。匂いも問題ない。ちゃんとしたバターのいい匂いだ。

「シスターもいかがですか」

「いいんですの?」

「昼食にと思っていたんですが、今もらってしまいましたので」

「では」シスターはナプキンを剥がして、まるで準備運動みたいにごくりと喉を鳴らした。

「白い……、甘い!」

 決して嫌な食べ方ではなかったけど、ものの30秒で全てが消え去った。いや、ナプキンだけ残ったのがむしろ不思議なくらいだった。

「ご自分で作られたのですか?」

「いえ、買ったものです。残念ながら」

 シスターは余韻を噛みしめるように目を瞑った。なんだかさっきの祈りのポーズと似ているのは気のせいだろうか……。

 

「街に宿はありますか」僕は訊いた。狙ったわけじゃないが、前置きアイスブレイクの会話は十分だろう。

「宿? ええ、商会の近くに何軒か」

「個室があるといいのですが」

「でしたら、礼拝堂に来てください。巡礼の方を泊めることもあるので設備もある程度は整っています」

「宿坊ですか。大部屋のイメージですが」

「そうですか、私の知る限りでは個室ですね……」

「いえ、それならありがたく」

「ぜひ」

「相応のお返しはします」

「身の回りのことと、少し力仕事を手伝っていただければ」


 森を抜けて眺めのいい丘に出た。丘の向こうは崖になって切れ落ち、崖下の平野の真ん中に聖堂を中心とした街が見えた。かなり遠くにまた崖がある。崖に挟まれた帯状の平地なのだ。アフリカの大地溝帯を思わせる景色だった。

 崖を斜めに下る緩やかな坂に入り、エミューが足を突っ張るように進んでいく。器用なものだ。シスターは特に手綱に力を入れていない。エミューが勝手をわかってやっているのだ。


 崖下の水場で一度馬車を停めてエミューを休ませた。かけ流しの水瓶に鼻先を突っ込み、上を向いてごくごくと飲み込む。

 それから羽繕い。翼の内側や背中に嘴を突っ込んで水洗い。体を震わせると水滴が飛び散ってきらきら光った。


 電話だ。

「千手院ですー」

「お疲れ様です」

「アイボリーファームの件、先方から送られてきた添付資料あるでしょ?」

「PDFの」

「そうそう。あれパスワード知らないかな。別メールしますって書いてあるんだけどそっちが見つからなくて」

「あー、どれですかね。全部違うんですよ。ワンタイムみたいな」

「えーと、カメラ通話いける?」

「はい」

 千手院部長はカメラを切り替えてパソコンの画面を写した。メールの文面が見える。

「ああ、わかりました」僕はメールアプリを呼び出してパスワードを読み上げた。確かに宛先に千手院部長のアドレスがない。「あとで転送しときます」

「オーケイ、開いた。――あれ、洒落た背景だね」

 僕はそう言われて初めてインカメの存在を意識した。ちょうど僕の背後にエミューが映っているのだ。画面が見やすいようにスマホを立てたせいか。

「恐竜好きだったっけ?」

 セーフ!

 まだセーフな解釈だ。ドラゴンなんて言われなくてよかった。

 隠したいのは山々だけど、ここでカメラを振ったら余計に不審だ。ステイ、ステイ。

「ええ、まあ」

「ふうん。いや、まあ、助かったよ、ありがとう」

「いえ」

 通話終了。

 でも、なぜセーフなのだろう。

 つまり、なぜ異世界にいることを千手院部長に知られてはいけないのか。

 ……余計な心配をかけるからか。

 僕が仕事しにくい環境にあることを知れば回す仕事を少なくしようとするだろう。

 そういう人なんだ。人に任せる仕事の量が尋常じゃないのは事実だけど、それ以上の量を自分で処理しているのを僕は知っている。


 シスターがタンブラーを持って立っていた。僕の斜め後ろ、ぎりぎり画角に入らない位置だ。

「水を汲みましたの、いかがですか」

「ありがたく」

「水瓶の前で直接注いだので綺麗だと思います」

 水はキンキンに冷えていた。台地の上に降った雨が地面に染みていってこの高さで湧き出しているのだろう。よく濾過されているはずだ。

「ああ、美味かった」僕は空にしたタンブラーをシスターに返した。

 シスターはタンブラーを洗い、エミューをハーネスに戻して馭者席に上がった。僕が横に座ったところで黙って手綱を打った。つまりスマホや電話については何も訊かなかった。あえて避けている、我慢している、と言ってもいいくらいだった。なにせさっきはとっても珍しそうな目で見ていたんだから。

 たぶん、基本的には詮索を避ける文化圏の人なのだろう。そういう教育を受けているのが窺えた。


「転移者というのは人々に受け入れられるものなのでしょうか」

「教会は歓迎しますけど、市井の人々はどうでしょうか」

「隠しておいた方がいい?」

「そう思います。私も周りには伏せておきます」

 僕は背広を脱ぎ、ネクタイを解き、代わりに雨用のカッパを羽織った。中世なら襟のついた洋服より馴染むだろう。

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