第2話 着信〜シスター
指先がグリップを失う瞬間、バイブレーションがかかった。画面にわずかに見えた「千手院部長」の文字。
スマホは微妙に勢いを失って回転しながら池の上空へ。
僕はスカした投球の勢いのまま前につんのめって水際のラインを越え、片足を大きく池の中に踏み込んでスマホに手を伸ばした。
緑色の受話ボタンと赤色のマナーボタンが見えた。
緑だ、緑。
親指がちょうど受話ボタンにかかった。スマホは回転と自重でなおも指の間を抜けようとする。落下の軌道から引き寄せつつ右手を下に振って左耳へ。
決まった。美しく実用的なフォームだ。
「はい、
「
「お疲れ様です」
「いま時間大丈夫?」
「大丈夫です」
「さっきアイボリーファームさんから電話あって、18日のミーティングを16日に繰り上げられないかって、15時から。予定どうかな?」
「水曜、3日後」
「うん」
「だ……い丈夫です。今週はそれと成果面談1件だけだけなんで」
「資料作成大変だと思うんだけど」
「なんとか」
「じゃあそういうことで。ルームの変更も忘れないようにね」
「はい」
「はーい、よろしくお願いします」
「はい、失礼します」
通話終了。スケジュールアプリを開く。優先順位が高いのはアイボリーファーム――次の開拓先の専用資料だ。あと3日で作って事前共有しておこうと思ったのにリードタイムがゼロになった。
そうだ。資料を作るにしてもスマホとパソコンの充電はどうする? ここには電気はあるのか? いや、ないと考えた方がいい。日中ならソーラー充電器でなんとかなるかもしれないが……。
って、そこじゃない。
な、なんで知ってる人間から電話がかかってくる?
ここは異世界。上司がいるのは現世。
まさか別の世界同士が電話線でつながってるなんてことはありえないわけで……。
僕は画面の右上を恐る恐る確認した。
なん……だと?
電波強度を示すバーがきっちり5本立ってやがる。
見間違い? いや、画面の反射でもシミでもない。
こんなの現世の山の中より恵まれてるくらいじゃないか。一体どこに基地局なんか……。
確かに、基地局があるならコンセントだってあるのかもしれないが……。
とりあえず四方にスマホを向けてみたがその程度では電波強度は変化しなかった。Wi-Fiの方は全く反応がない。通じているのはあくまで電話回線だけだ。
今の電話でひとつはっきりした。
現世は存続している。僕が転移した直後から時間軸のズレもないらしい。
つまり、まだ僕の仕事を待っている人間がいる。
僕は仕事を放棄できない。
なぜ?
仕事相手に直接会えなくなったくらいの理由で放棄できる仕事ならとっくに放棄していただろう。
僕は営業職。しかもリモートで完結してしまう仕事ばかりだ。
「もし?」
「はい」僕は慌ててスマホを耳に当てた。が、それは電話越しの声ではなかった。
「手を貸しましょうか」
「あ、いえ……」僕は反射的に答えた。
声の主には池にハマった僕が自力で抜け出せなくなっているように見えたようだ。というか実際その通りだった。僕は右足の膝下までずっぽり水に
「それとも池に戻るところでしたか」
「マーメイドではないですね」
「足がお有りですからね」
「マーメイド見たことあります?」
「ああ、そういえば、一度。海へ行った時に」
「池じゃないですね」
「昔のことだったもので」
微妙なボケとツッコミのあと僕は素直に手を伸ばした。
「すみません」
僕に手を差し伸べているのは絵に描いたような修道女だった。シスターというやつだ。ヴェールのついた角帽をかぶり、白黒の長い服をまとっていた。
……あれ、言葉が通じる?
異世界に合わせて僕の言語野がローカライズされているのか。そんなことを考えながら手をとった。
シスターが後ろに重心をかけるのに合わせて僕は体を引き上げた。
「ありがとうございます」
「神の御心です」
神の御心?
この世界の「どういたしまして」的な言い回しか。
靴をひっくり返すとバケツみたいに水が出てきた。靴下を脱いで絞る。
スラックスの裾は……女性の前で脱ぐのは
「乾かしましょう」シスターは手を翳した。「天つ神、火の精霊、巫女の手に小さき恩寵を授け給え」
シスターの手のひらの上にほとんど目視できないくらいの薄い炎が生まれた。左手を上にかざしてちょうどいい高さを測り、僕が伸ばしている靴下の下に差し込んだ。
「とても縫製のいい靴下ですね」シスターは僕が靴下をひっくり返したところで言った。「もしかして、その格好、ディストピアからの転移者の方ですか」
い、一撃で見抜かれた。
しかも唐突なディストピア認定。
なんとなくそわそわした沈黙だったけど、やっぱり気にしていたのか……。
「多いのですか?」僕は訊いた。
「いいえ。目にするのも耳にするのも初めてです。ただ、古い言い伝えにあるのです。見慣れぬ格好の人が突如として森の中に現れたという。あ、ですので、耳にするというのは私の生きている間の出来事という意味で、伝承は別です」
「では僕を助けに?」
「いえ、花を供えにです」
シスターはさっきまで僕が身を隠していた石に目をやった。一見ただの自然石だけど、よく見ると一面が平たく磨かれていた。その面に文字が彫ってあるのだ。
全く見覚えのない文字だった。自分で言うのも野暮だが僕はそんなに文字文化に
「……墓?」
「珍しいでしょう? 古い祭祀のものだそうで」
「少し読みづらいですね」
「恨みに駆られた者たちにやすらぎを、です」
「ああ」
驚いた。この世界の古代文字などではないのだ。音は日本語だが文字は全く別物らしい。
シスターはポピーのような赤い花を墓石の前に供えて膝立ちで手を組んだ。違和感のない祈りのポーズだった。
「もし街まで行かれるなら乗れますが」
「あまりご厄介になるわけには行きません」
「人の足では日が暮れます。それにその装備では……何か
「……いいえ」
「あなたがここにいたのも、私が通りかかったのも、きっとご縁ですよ」
路肩に4輪の大きな馬車が停めてあった。ただ引いているのは馬ではなかった。エミューを少しがっしりさせたような二足歩行の鳥(恐竜?)で、羽は黒っぽく、角度によって紺に見えたり茶に見えたりした。
馬車の方はいわゆる荷馬車だ。簡素な造りだが車輪はきちんとした円形で、車軸に板バネがついていた。荷台には低い幌がかけられていた。
「荷台に死者を乗せています。すみませんが我慢してください」
後部の開口から覗くと何かデコボコしたものの上に麦藁で編んだ
「大丈夫です」
「では前の席に」
死者。あの巨大コウモリにやられたのだろうか。いずれにしてもそれをわざわざ載せていくということは、街にはそれなりの施設が整備されているということだ。
モンスターの脅威に対しても安全が確保されているようだし、泊まる場所や電源に関しても今よりは選択肢を広げられるはずだ。
シスターが手綱を打つとエミューが1歩踏み出して車輪が回り始めた。
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