リモート・社畜・ファンタジー (『異世界社畜』改題)
前河涼介
第1話 降下〜異世界
125連勤目、僕は折りたたみ傘を片手に羽田空港の吹き抜けから飛び降りた。
何のことはなかった。エスカレーターとエレベーターがまるで牧羊犬に追われたみたいにぎゅうぎゅうで、それなら飛び降りた方が早いじゃないかと思ったからだった。
まず傘があっけなく裏返ったところで想定と違う展開になっていることに気づいた。
当然遅すぎる気づきだった。
死を意識したのは加速度的に近づく床が視界いっぱいに広がったあたりだった。
自殺なんかではなかった。睡眠不足によってぶっ飛んだ判断力が近道と生命の危険とを天秤にかけるのを忘れていただけのことだった。
脚の骨が砕け、額が割れる。そんな想像をした。でもいくら待っても痛みはやってこなかった。
しばらくして僕は自分が意図的に目を瞑っていることに気づいた。
そして靴の下に地面の感触。
間違いない。
僕は目を開けた。
僕は草地の上に立っていた。目の前にはぽっかりといった感じで池が広がり、雑木林がその周りを囲んでいた。対岸の木々の枝ぶりまではっきりと見て取れる程度の池だ。空は晴れていた。
とりあえず、時間が巻き戻ったんじゃないかと思った。あるいは走馬灯の中に囚われているのか。昨日までいたドイツ西部の景色に似た印象だった。
ひとまず危険はなさそうだ。状況の把握を進めよう。
僕は傘を畳み、桟橋のように池の上に伸びた石に乗って水面を覗き込んだ。水は澄んでいた。泉か。沈んだ倒木に藻がつき、小魚が泳いでいるのが自分の影の中に見えた。
匂いは――都会の人混みとは明らかに違っていた。強いて言えば、露の匂い、だろうか。いずれにしても目に見えているものとミスマッチという感じはしない。
鳥たちの鳴き声は聞き覚えがなかった。ただ異国ならそんなものだろうとも思えた。
これが夢や彼岸ではなく現実だとしたら、空港の中でないのは確かだ。
①僕が墜落した直後の世界の別の場所
②僕が生きていた世界の別の場所、別の時代
③空間的時間的に全くつながりのない異世界のどこか
僕はとりあえず3通りの説を立てた。でも決め手がない。
……?
覗き込んでいた水面が震えた。波紋で水底が見通せなくなった。
魚が跳ねたのか?
でも波紋の中心は池の上にはなかった。
じゃあ、地鳴り?
いや、違う。空震だ。空から飛んできた衝撃波が水面を揺らしたのだ。
僕は岸に立っている岩の陰に飛び込んで姿勢を低くした。
その判断は正解だった。
木々の陰から空に向かって何か黒いものが飛び出し、大きな翼を何度か羽ばたかせた。一瞬距離感と大きさが不明瞭だったが、翼のバサバサという音が若干遅れてきたのでかなり距離があるのがわかった。300mくらいか。少なくとも森の上スレスレではない。もっと上空だ。
姿はコウモリに似ていた。皮膜型の翼で、尾がなく、キツネのような顔つきだった。いや、つまり、300mでそれがわかるくらいデカいのだ。
真っ黒な巨大コウモリはそこで後方を振り返った。
何かに追われているのか?
その通りだった。
ドラゴンの首に跨った弓兵が10騎あまり整然と戦列を組んで一斉に矢を放った。
矢は空中で炎のような赤い光を纏い、そこからさらに加速して巨大コウモリの翼膜を次々に射抜いた。
巨大コウモリは痛みに咆哮を上げた。それはなんとなく遠くから聞こえる船の汽笛を思わせた。
その隙を突くように戦列から1騎が突出し、ドラゴンの背を蹴った騎士が剣を抜いて巨大コウモリに切りかかった。
剣の刀身が黄緑色に光の尾を引いて空を切り、放電の稲光を散らしながら相手の首を切り落とした。
巨大コウモリに比べればドラゴンでもまだ小さい。人間なんて手乗りサイズだったが、いとも
巨大コウモリの首と体はタールのようなドス黒い血を滴らせながら落ちていく。ドラゴンの戦列もまたそれを追って降下していった。
水平距離もかなりあったようで、どこに落下したのか僕の位置からはわからなかった。森が騒いだような感じもない。騎士がこちらに気づいて向かってくることもなかった。静かだ。
僕は圧倒されていた。それからだんだんバカバカしくなってきた。ここがどこか? 異世界に決まっているじゃないか。地球上のどこにドラゴンに跨って巨大コウモリを狩る文化圏があるというのか。
これはもう仮説③に違いない。異世界だ。僕は確信した。そして極度の緊張状態から解き放たれた勢いのままスーツが汚れるのも厭わずに草の上に仰向けになった。
呼吸、沈黙。
空が青い。雲が流れている。日差しは柔らかい。露の匂い。
傘にカバーをかけ、リュックサックを抱えてサイドポケットに差し込んだ。
リュックサックには方々の得意先・開拓先向けの資料が詰まっている。
確かに、今抱えている案件を放り出すのは職責に反する。でもここは異世界。僕の蒸発によって迷惑を被る先方も弊社も存在しないのだ。現世と一緒に消滅したも同然だ。
――先方も弊社も存在しない?
僕はもう仕事をしなくてもいいんだ。
違うか? いや、違わない。
実感とともにじわじわと感情が湧き上がってきた。何か背徳感の壁のようなものを突き破り、抑えがたい笑いになって口から溢れ出た。それは喜びだった。
卓球選手みたいに吠えてもいいくらいだった。
仕事をしなくてもいい、だって?
僕は体を起こし、リュックサックを開けて中に詰め込まれた資料のファイルに手をかけた。
いやいやいや、そんなものより真っ先に捨てるべきは――
僕は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、首紐を外してピッチャーよろしく大きく振りかぶった。バットがあればノックしていただろうけど、あいにく傘じゃ強度が心配だ。折りたたみだしな。
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