第5話

「ふー……ハイライトなんて久々に吸ったがなかなか美味いね」

「そう、ですか」

「貰い煙草ともなれば格別だ」

 まるで遠き日を懐かしむかのような満ち足りた顔で、彼女は煙草を味わう。饒舌なのは酒のせいか、それとも元からか。

 目を合わせないように背を向ける。すると隣から聞こえてきたのはビニール袋が擦れる音。


「座りなよ」

 そう言って向こうが取り出したのは一本の缶ビール。対面に静かに置いて、俺を手招く。

「いや、いいですよ、煙草一本ですし」

「まぁまぁ、そう言わず。借りはなるべく多くにして返すがモットーでね。施しを受けたままなのが許せない質なんだ」

 にこやかな表情だが、その目の鋭さはこちらに有無を言わせない強さを感じる。他人からの評価は二の次、三の次と言った具合でも、案外こういう類いの人間は、己斯くあるべしという矜持が強い気がする。

 差し出したビールに自分のビールをコツンとぶつけ、彼女は乾杯と呟いた。コマーシャルと見紛うばかりの至福の顔を一瞥して、俺は堪忍して口を付けた。ややぬるくなったビールは泡が滑らかで、麦の丸い味わいをより濃く感じさせる。


「ぬるくても美味いねぇ」

「まぁ、はい」

「タダ酒となれば格別だろう?貰い煙草、奢られる飯、タダ酒。独断と偏見に基づく、この世の美味いもの三選だ」

 たかが二百円もしないビールに大仰な、というツッコミがおもわず漏れそうになる。気を許して馴れ合うと、その飄々とした口ぶりと反論を許さぬ眼光で、次は何を要求されるか分からない。

 貰い煙草に始まり、徐々に要求が大きくなり、最終的には宗教勧誘だとか壺を買わせようとする未来も想像に難くない。そんな馬鹿馬鹿しい妄想をしてしまうのも、先程から肌に感じる得体の知れなさ、こちらを見透かすような目のせいだ。


「……君、そんなに私が怖いかい?」

「ぶっ!」

「あーあー、もったいない」

 突然の発言に、ビールが気管に入ってむせる。向こうは至って冷静に、煙草の煙を吐いている。

「げほっ、な、何を……」

「何も言わんでいいよ。そんな様子じゃ、弁明されたところでね」

 気まずい、沈黙が流れる。煙草がチリチリと燃える音すら聞こえてくる。俺はビールを一息に飲んで、ややあって溜息の後に言葉を続けた。


「すいません……その、怖いです。別におねーさんだけじゃない。誰と話すのも怖い。もう、ずっと……」

 言葉が溢れそうになるのが分かる。

「息が、苦しくなる。仕事が楽しかった時の自分と、今の自分を比べて……なんで、なんでこうなったんだって……守れなかった部下の顔が、電話越しの母の声が、苦しい。全部苦しい……」

 もう限界だった。酒浸りの毎日も、人の目を気にするのも、部下が夢に出てくるのも、自尊心を守る為に吐く嘘も、怒鳴られる人を見るのも、罪悪感に責められるのも、救われたいと願うのも、何もかももう限界だった。もう保たない、心も体も。

 初対面の人間に小突かれた程度で決壊してしまう程、もう脆くなっていたんだ。雫がテーブルに落ちるのを見た途端、もう涙が溢れるのを止められなかった。


「なん、でっ、こんな、ことに……」

 彼女、きっとびっくりしているだろうな。いきなり大の男が過呼吸気味に泣き始めるんだから。もしあの店員がこの一部始終を見たら、何て言うだろう。いや、何も言わずに通報かな、テラス席で男が泣いてます、って。何だよそれ。

 意外と感情が荒く波立っていながらも、頭の中は至極客観的で冷静だったりする。

 すると、机に伏して泣き喚く俺の頬に、自分とは違う体温と柔らかい感触があった。視線を上げると、そこには驚きに塗り潰された顔がこちらを覗いていた。

「そんな、君……」

 レンズの奥、その瞳が揺れていた。その目を、なんだか綺麗だな、とか考えながら、見つめていた。ふと意識が現実に引き戻され、彼女の手を払って、頭を下げる。


「すいません、取り乱しました……少ししたら落ち着きますから……」

「いや……私の方こそ、すまない」

 肩で息をする俺に、彼女はこう言った。

「……ねぇ、私が君を救いたいと言ったら、どうする?」

「え……」

 突飛な言葉に思わず聞き返すと、彼女は自信有りげに口角を持ち上げた。


「言っただろう?借りはなるべく多くして返す、って」

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