第3話

 玄関ドアを静かに締める。鍵はゆっくりと回したが、午前二時の静寂と大した物も無い廊下は、意にそぐわず小さな音の反響を許した。

 周りを見渡して、再び訪れた静寂に安堵する。自室、三〇一号室から階段まではこのフロアで最も離れている。足音が響かないように注意を払って一階へと降りる。


 外に出て感じた四月半ばの夜の空気は、昼間の陽気をどこへ隠したのかと思うほどひんやりとしていた。気だるさも少し軽くなる。

 昼間の陽気、と言っても今の俺には寝る前に窓から差し込む光の他、感じるものはないが。

 

 十分弱歩くと、いつも行くコンビニが目に入る。すると、横断歩道を渡って、残り七十メートルほどの距離で、違和感を覚えた。窓から漏れる明かりがいつもよりややぼやけている。

 向こうへ渡って、駐車場から店を伺う。自動ドアは中途半端に開きっぱなしで、内側からカーテンが下ろされていた。入り口前の黄色の立て看板に『定期清掃につき、ご利用頂けません』と印刷された紙が風になびいている。

 仕方ない別の店へ、と踵を返しかけた時、カーテンを押し上げて出てきた作業着の男と目があった。


「すいません、只今清掃中でして」

「あっ、スイマセンスイマセン、分かりました」

 口調は柔らかだが、しゃがれた声とつり上がった眉に臆して、足早に駐車場を出る。少し歩いた後、背中の方から怒声が聞こえた。


「おい!道具一個持ってくるのに、いつまで待たせんだ、コラ!」

 反射的に肩が竦む。

 振り返ると停車したハイエースの横で、先程の男が少し痩せた若い男を怒鳴りつけていた。若い男は頭を何度も下げながら、用具を抱えて駆け足で店へと入っていった。

 その光景に、鳴りを潜めていた記憶が蘇る。


 __奥山、数字いけんだろうな

 __改善します、って口だけじゃ何の意味もねーだろ。もっと具体的にどうするか言ってみろよ

 __何にも案が出てこね―なら、座ってねーでテメーの店、まわってこい

 __お前下がやる仕事やって何のつもりだ!それで給料貰ってんじゃねーよ!


 心臓が跳ねる。かつての上司の怒声が頭に響く。

 仕事が楽しくなくなったのは、上司が怒鳴ってきたのも理由の一つだ。でも怒鳴られるのは俺が結果を出していないからで、責任は俺にあった。

 月に一度の上司と俺、各店の店長を交えてのミーティングが本当に辛かった。上司は店舗の実績をまとめたエクセルシートを持って、店長達を名指しで怒鳴った。

 怒りの矛先が部下に向くのは、自分が怒鳴られるより心を抉られた。この状況を生み出したのは他でもない俺だ。店長達の苦悶の様がありありと思い出せる。

 何度も夢にうなされた。守れなくて申し訳ない。全部俺の責任だ。飛び起きる度に泣いてそう呟いた。

 忘れようとしていた己の薄情さを呪う。

 __忘れて言い訳が無いだろ、目を背けるな。

 __でも苦しいんだ。

 自責の念と許しを乞う気持ちがもみくちゃになる。

 __おい、もしも忘れようとか、責任から逃れようとすればな、そん時はな、死ん……。

 罪悪感が発した『それ』に、脳内議論の幕が下りた。

 自分を責める気持ちも、解放を願うのも全部本心だ。故にその矛盾に苦しんでいる。頭を過った『それ』はある意味で救いだ。そうすればもう苦しむことも、悩むこともない。

 でも、とんでもない親不孝だ。まだ何の恩も返せていない。せめて、それを返してから、と思ったところで俺はぎこちなく笑う。


「ハハハ……無職が?どうやって?」

 そう呟いて、来た道を戻る。深夜とはいえ、こんな道の上で、頭を抱えても仕方がない。

 俺はジャージに手を突っ込んだ。小さな町で、周辺にコンビニはそう多くない。でも確か、少し歩いた距離にコンビニがあったはず。

 ジャージのポケットから取り出した端末のマップを起動する。メニューから『周辺のコンビニ』を選択する。画面に何本か立ったピンの中で、現在地に近いものを選ぶ。


 ハートタイム倉田店、現在地から残り九○○メートル。マップで大まかな位置を確認し、また歩き始めた。

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