第2話
沈んだ意識がスマホのコール音に呼び戻される。ベッドの上で体を捩らせ、枕元の端末に手を伸ばす。
画面中央にシンプルなフォントで表示されている『母さん』という文字を見て、体を起こす。咳払いをして、一拍置いて受話器アイコンを上にスワイプ。
__もしもし
ベッドから立ち上がり、寝起きだと悟られないようになるべく明朗に、ハッキリと口を動かす。
__
__うん、元気だよ、どうしたの?
こうして月に一度は母から連絡が来る。仕事を辞めてから、電話を取ることも億劫になってしまって、何度も折り返しが無い限りは無視を決め込むようになった。
それでも母からの電話は無視出来ない。以前、不在着信を放置していたら、血相を変えてすっ飛んできた。
部屋の荒れ具合、シンクに放置された弁当ガラと酒の空き缶の山。そして髪や髭がすっかり伸びっぱなしになって死にそうな顔の俺。それらを見て、母は蹲って泣いた。俺のジャージの裾を掴んで、膝から崩れ落ちた。仕事を辞めてから三ヶ月後のことだった。
両親にはあの日のことを黙っていた。仕事を辞めた、新しい仕事はまたこっちで探すとだけ伝えた。退職後に電話したのは、片手で数えられる程度だったし、俺は上手く隠したと思っていた。それでも母は俺の様子がおかしいと気づいた。
泣く母を呆然と見つめながら、なんで分かったんだろう、超能力でもあるのか、とか思いながら俺は母の手を握るしか出来なかった。
__最近はどうしてるの?ご飯、ちゃんとしたものを食べてる?
__うん
一回。
__外には出てるの?ずっと家にいちゃダメよ
__うん、最近は出るようにしてるよ
二回。
__ならいいけど……ねぇ、やっぱり帰ってこない?ずっとじゃなくてもいいの。一週間とか一ヶ月とか、期間を決めて……場所が変われば、良くなることもあると思うの
__……そうだね、でも最近、バイト始めてさ……
__あら、そうなの?でも無理はしないでいいのよ
__うん、融通の聞くところでさ、週に二回程度でもいいからって……
三回、四回。
__だから、今はちょっとタイミング的にさ、
__わかったわ、貴之。でもこれだけは覚えておいて。あなたが帰ってきても、お父さんもお母さんも、誰もあなたを悪いようには決して思わないから。だから帰ってもいいなって思ったら、いつでもいいから。お母さん、駅まで迎えに行くわ
__……うん
__うん!良い返事よ。それじゃあね、また電話するわ
通話時間、一分三十七秒。こんな短い間に、俺は四回も嘘を吐いた。
飯はもうずっとカップ麺だし、外出はそのカップ麺を買いに出る位だ。なんなら通販に切り替えてしまおうと思っていたところだった。
アルバイトなんて以ての外だ。融通が利くだとか、よくもいい加減なことを言えたものだ。
母に見抜けないわけがない、この期に及んで嘘を吐く理由を。だから最後にあんなことを言ったんだ。
__あなたが帰ってきても、お父さんもお母さんも、誰もあなたを悪いようには決して思わないから。
母の優しい声音が頭に響いて、白々しい嘘を吐いたことが恥ずかしくなって、スマホを床に投げ、布団を頭から被った。
「母さん……ゴメン、ゴメン…」
肺が痛くなる程泣いた。
仕事にだけ打ち込んできた。誰もが認めてくれるくらいに結果を出した。でも今の俺にその誇りは無い。それでも一丁前にプライドはあるから始末が悪い。
親にはこんな姿を見せるのが恥ずかしい、友人には落ちぶれたと思われたくなくて頼れない。そんなことは無いと親が言っても、それを受け入れられない。
しょうもないプライドを守る為に嘘を吐いて、その度に罪悪感に苛まれ、現状を変える決意をしても、その後一歩が踏み出せない。また同じ失敗をするんじゃないかと足が竦む。でもどうすることも出来ない、どうすればいいのか検討もつかない。
少なくとも泣いても現状は変わらない、それは分かる。それでも今は恥ずかしさと母の優しさの前にそうするしかなかった。
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