ある小説家の話 3人用台本

ちぃねぇ

第1話 ある小説家の話

林:初めまして先生、僕今度から先生の編集を担当させていただきます、林と申します。どうぞよろしくお願いします

朽木:ああ、林くんね、覚えましたよ。どうぞよろしくね

林:先生、今回も素晴らしい作品でした。先生の作品にはいつも胸を締め付けられるような感覚を覚えます

朽木:そうかい、どうもありがとう

林:特に僕はその湖でのシーンが印象的でした

朽木:ああ、そう

林:親の都合で無理やりに引き裂かれる男女のあの別れのセリフ!ああもう、今思い出しただけでも胸が苦しくなります

朽木:そう…


0:妻登場。


妻:あなた、お電話

朽木:誰から?

妻:沖田さんよ

朽木:ああそう、今行くね。…すまないね、林くん、少しの間待っていてください

林:もちろんです


0:朽木退場。


妻:あなたが新しい担当さんね

林:林と申します、どうぞよろしくお願いします

妻:こちらこそ、よろしくお願いします。…ええと、林さんは前任の堺さんから何か、主人のことについて引継ぎを受けているかしら

林:あー…すみません…その、奥様もご存じの通り、堺は脳卒中で…急な事でしたので引継ぎがほとんどできておらず

妻:…でしょうね

林:あの、僕…なにか至らない点がありましたでしょうか。その、何か先生の気に障るようなことを…

妻:あなたは決して悪くはないわ。……でも…あの人はね…過去の作品を褒められるのが好きじゃないの

林:え?

妻:これは堺さんだけにお話ししていたお話で、出版社の方には秘密にしておいて欲しいと頼んでいたことだから…引き継がれていないのも当然なのだけど

林:ええと…先生は、ご自分の書いた作品の感想を聞くのがお好きじゃないんですか?自分の作品に対する評価はあまり気にされない方なのでしょうか

妻:そうね…売れ行きベースなら気になるみたいよ。「僕はまだまだ干されないだろうか」って時々ぼやいているわ

林:そんな!先生を干すだなんてありえません!

妻:ふふっ。ありがとうね。…でもあの人は、心配しいだから。それに、あの人は自分が周りからどう評価されているかを、上手く感じられない性質(タチ)だから

林:どういうことでしょうか

妻:…自分の忘れてしまった物語についてのあれこれを聞いても、苦笑いしか出来ないみたい

林:忘れてしまった話?

妻:……林さんは、主人の書く物語がすべて、あの人の実体験を基にした話だと言うことはご存じ?

林:あ、はい。先生は恋愛小説のノンフィクション作家として有名ですから。あの話が全て先生ご自身の物語だと考えると…正直、僕なんかは学生時代ずっと教室の隅でうずくまっていた口ですので…非常に羨ましくもあり、妬(ねた)ましくも思ってしまいます

妻:そうねぇ…あの人、思うがままにいろんな方を愛してきたらしいから

林:でも、物語が全てノンフィクションなら、全ての方に大変真摯な愛情を傾けていらっしゃいますよね

妻:そうね。多少は脚色して書いているかもしれないけれど

林:先生が感想を聞くのがお嫌いなのは、その、実体験ベースの物語だからただ単に気恥ずかしい、ということでしょうか?

妻:いいえ…あの人はね、書いたら全てを忘れてしまうのよ

林:全てを…忘れる?

妻:記憶から抜け落ちる…あー…表現が正しくないわね。ええと…自分の記憶じゃないように感じてしまう、と言った方が正しいのかしら

林:それはどういう

妻:あの人、心血(しんけつ)を注いで物語を書くのよ。一度作業に取り掛かったら、自分から食事にも来やしないの。おにぎりなんかを無理に持たせてなんとか食べさせて…

林:大変ですね

妻:そう、大変。でもあの人の方がもっと大変。自分の記憶の断片を綺麗に拾い上げて繋ぎ合わせて…そうしてようやく作品を完成させた頃には…自分の記憶が全て、作品に移ってしまうの

林:作品に…移る

妻:記憶が記録に成り代わる、って言えばいいかしら…あの人の当時の心の動きとか、感じた匂いとか…そういう体感したこと全てが外に出て行って、映像写真みたいに鮮明に作品に成るの

林:それは…わかります。先生の情景の表現にはいつも真実味があって…本当に読み手がそれを体感したのかと錯覚させる力がありますよね

妻:ありがとうね。…でもその代わり、あの人からは切り離されて抜け落ちてしまうの

林:抜け落ちる…

妻:過去にそういうことあったなぁ、ってまるで歴史の教科書に書かれた事のように捉えてしまうの。確かに体感したはずの記憶が、他所の人の…ただの記録のように感じてしまうらしいわ

林:それは…なんだか僕にはわからない感覚ですね

妻:ええ。私も理解はできても共感はできないの。でも、あの人が作品を生み出す度…大切な心の何かを吐き出しているのは知っているわ

林:先生が、ご自分の作品について聞きたくないのは

妻:忘れてしまっているから。…事実として覚えてはいても、自分事のように捉えられなくなっているから。「こんな話になぜ涙を流してくれるんだろうね」って、あの人よく言ってるわ

妻:物語を吐き出してしまった時点で、あの人にとって全てがどうでもいいものに変わってしまっているの

林:そんな

妻:だからどうか、あの人に作品のあれこれを言わないでやって。…ああもちろん、完成までは何度でも赤を入れて頂戴

林:先生の作品に直す箇所なんて、誤字脱字くらいしかない…と堺から聞いたことがありますが

妻:まあ、実体験ベースだものね

林:完成したら…先生は全てを忘れてしまうのですね

妻:そう。…だから、あの人は評価は気にするけれど何でどう評価されたかは聞きたくないらしいの。そのようにしてくださる?

林:かしこまりました。教えてくださってありがとうございます

妻:ふふっ。これからも主人をどうぞ、よろしくね

林:はいっ!


0:2年後。


林:先生、今回もお疲れさまでした。原稿、確かにお預かりいたします

朽木:はい、どうも

林:今日は奥様はどちらにおでかけでしょうか?お暇する前にご挨拶させていただきたいのですが

朽木:ああ…うん、家内はちょっと、体調を崩していて……今入院中なんだ

林:え、そうだったんですか。知らずに申し訳ございません

朽木:ああいや、私が何も伝えていないのだから当然だよ

林:体調はいかがですか

朽木:うん、まあ…ぼちぼちと言ったとこかな

林:そうですか

朽木:心配してくれてありがとうね

林:いえ…今度お見舞いに行かせていただいてもよろしいでしょうか

朽木:ああ、それは喜ぶと思うよ。ぜひ行ってやってくれ

林:はい


0:3か月後。


朽木:林くん、その、お願いがあるのだが

林:なんでしょう

朽木:こんなこと相談されても困るということは承知の上なんだが…原稿料を、少し上げることはできないだろうか

林:原稿料ですか

朽木:今の額に不満があるわけじゃない。だけれど、できればもう少し頂くことはできないだろうか

林:一度編集長に相談させてください

朽木:すまないね、わがままを言って

林:いえいえ、そんな

朽木:私がもっと、書けたらいいのだけれど

林:え?

朽木:……そろそろね、私のストックも尽きそうなのだよ

林:えっとそれは

朽木:稼げるうちに稼いでおかないとね

林:それは、実体験のストックが付きつつある、と言うことでしょうか

朽木:うん。…今まで、たくさん書いてきたからね

林:ではいっそのこと、フィクションにも手を出されてみませんか?あれだけの恋愛をされてきた先生ならきっと、創作でも素晴らしい物語が書けるはずです

朽木:そうだと…よかったんだけどね…何度か試してみたが、全然だめだった。どうやら私は、自分の見たもの聞いたもの、感じたものでしか話を紡げないらしい

林:先生…

朽木:あと書けて3本…いや、ほんとは最後の話は書きたくないんだ

林:え?

朽木:編集長には原稿料の話と、あと2本しか書けないことを伝えてくれないか。…長い間、大変世話になってきた

林:2本……わかりました、後日諸々含めまた、ご連絡いたします

朽木:うん、ありがとう


0:病院にて。


朽木:体調はどうだい

妻:変わらずですよ

朽木:そうか

妻:…ごめんなさいね

朽木:なにがだい?

妻:こんな厄介な病気に掛かってしまって。…どうせなら癌とか、もっとわかりやすいものに掛かりたかったわ

朽木:何を言ってるんだ

妻:あと何年、生きられるかもわからない…完治するのかしないのか…ただただ長い時間のかかる病なんて、お財布にも悪いでしょう

朽木:君がそんな心配をする必要は無いんだよ

妻:いっそ、さっさと……そうしたら保険金だって入るし、あなただって毎日毎日お見舞いにくる必要もなくなるのに

朽木:おや、そんなに悲しいことを言って僕を泣かせるのかい?…君がいなくなったら、僕は何を糧(かて)に生きればいい

妻:だって

朽木:君がいない人生なんて考えられないよ。毎日君の顔を見ることだけが生きがいの僕から、その生きがいを取り上げる気かな?

妻:あら、こんな皺(しわ)くちゃのおばあちゃんをまだ愛してくれるの?

朽木:君はいつまで経っても綺麗だよ

妻:プレイボーイのあなたからそんな風に言ってもらえるなんて…ふふ、嬉しいわね

朽木:愛しているよ。…だから、消えることを願ったりしないで。治る見込みが1%でもあるなら、縋(すが)ってくれ。僕の為に、明日を望んでくれ

妻:あらあら、そんなに甘いことばかり。どうしましょう。…嬉しくて、泣けてしまうわ

朽木:好きなだけ泣きなさい。君は泣き顔まで可愛いのだから


0:1か月後。


林:先生、その…編集長とも協議したのですが…こちらの額が今うちが出せる精一杯の金額です

朽木:そうか…うん、どうもありがとう

林:すみません…ホントはもっと出したかったのですが…今書籍の市場(しじょう)は芳(かんば)しくなく、大半(たいはん)がミステリーに押されている状況で

朽木:知っているよ。すまないね、色々悩ませてしまって

林:本当に、あと2本しか書かれないのですか

朽木:うん。僕にはそれしか書けない。あー…細々(ほそぼそ)としたコラムなどは書けるから、回してくれると助かる

林:わかりました

朽木:……本当は3本目があるにはあるんだが

林:え?

朽木:妻の話だけは、書きたくないんだ

林:奥様の

朽木:……林くん、君だから正直に話そう。今、妻は厄介な病にかかっている

林:え

朽木:いわゆる難病指定を受けたやつで…治るかもわからない。治療費も入っている保険ではカバーできない病気だ

林:それは、その…何と言ったらいいか

朽木:今までの貯えはあるが、この先闘病生活がいつまで続くかはわからない。こんなことになるなら、僕はもっと色々と遊び惚けてくればよかったよ

林:え?

朽木:どうして僕はノンフィクションしか書けないんだろうね。…僕がまだ書いていない女性は3人。最後は妻だ

林:奥様…

朽木:うん。……林くんは僕の体質を知っているよね?

林:はい。初めてご挨拶させていただいたときに、奥様から伺いました

朽木:僕はどうも、思い出を残したまま作品を作ることが出来ないようだ。今まであんなに愛したはずの女性たちを、ただの記録に変えてしまった冷血漢(れいけつかん)だ

林:そんな

朽木:妻だけは…忘れたくないなぁ…彼女だけは…愛していたいなぁ…

林:先生…

朽木:それでも、彼女を生かすためならきっと僕は…彼女を忘れてしまうことを選ぶのだろうな…


0:1年後。


林:原稿、確かに受け取りました

朽木:うん、いつも世話になるね

林:奥様の容態は

朽木:変わらずだよ

林:そうですか

朽木:情けないかな、妻が入院した途端、庭の草木(くさき)も枯れだした。今はこの通り荒れ放題だ…いかんね、男やもめは。こんなことでは妻が帰って来た時に叱られてしまうよ

林:………先生

朽木:なんだい

林:今から、とても失礼なことを申し上げてもよろしいでしょうか

朽木:構わない

林:先生がノンフィクションでしか書けないのであれば…今から、新しい恋をするのは無理でしょうか

朽木:…林くん

林:失礼を承知の上です。大変なことを申し上げている自覚はあります。…けれど、奥様を忘れないよう、奥様を支えるため稼ぐには、この方法しか

朽木:…ありがとうね。僕の為に、嫌なことを口にさせてしまって申し訳ない

林:そんな

朽木:女遊びは芸の肥やしなんて、よく言ったものだ。僕がもっと器用な人間で、妄想でも空想でも浮かべられる人間だったなら…いやはや、不器用は辛いね


0:病院にて。


朽木:今日、最期の作品を林くんに渡したよ

妻:そうですか

朽木:いつも通り、彼女の記憶も記録になってしまった

妻:覚えていないのですか

朽木:覚えてはいるよ。…でも、実感は伴わないね。もう僕の感覚からは切り離されてしまったようだ

妻:そうですか

朽木:あと書けるのは1本だけだ。残っているのは君だけ。…君の話だけは、書きたくないのにな

妻:書くつもりですか

朽木:まだ貯えがあるよ

妻:尽きたら書くつもりですか

朽木:…いよいよとなれば

妻:…書かないで。お願いあなた、書かないで。私を切り離さないで頂戴

朽木:こんなことならもっと貯金をしておくんだった。保険だって見直しておけば

妻:過ぎたことを嘆くなんて、あなたらしくないですよ。それとも、お台所を担っていた私への意地悪ですか?

朽木:まさか。こんなことで君に心配をかけるなんて、情けないね僕は。…生涯、何不自由ない暮らしをさせると、君に誓ったのに

妻:不自由なんて感じていませんよ。あなたはちゃんと、約束を守ってくれているわ

朽木:…君の話を書かないで済む方法が、一つだけある

妻:それは、私以外の人を愛するということ?

朽木:君には全てばれてしまうな

妻:それは…私のことを忘れてしまうよりも、よほど酷いことよ。…お願い、お願いだから。私が生きている間は私だけを愛していて。死ぬまでずっと愛していて。傍にいて

朽木:…死なないでくれ。僕の前から消えてしまわないでくれ

妻:あなた…愛していますよ

朽木:ああ、ああ。愛している

妻:私だけを、生涯愛してください。…そうして、私が死んだら、最期の最期にあなたの生涯で一番の傑作を書いて

朽木:そんなことをしたら、君が消えてしまう

妻:いいの。…悲しみも辛さも全て書いて、そうして記録に変えてしまって

朽木:君はなんて意地悪なんだ

妻:ふふっ…私意地悪だったんですよ

朽木:君の話は書かない。死んだって書かない。…僕から君を、消さないでくれ

妻:……あなた…愛していますよ

朽木:愛している


0:2年後。


朽木:今日はありがとうね。…久しく付き合いが無かったのに、妻の葬儀にまで来てもらって申し訳ない

林:いえ、とんでもない

朽木:妻も最期に君に見送られて、あっちで喜んでいるだろう

林:先生

朽木:先生だなんてよしてくれ。僕はもう、何も書いていないのだから

林:それでも、僕にとって先生は先生です

朽木:そうか。……彼女は強情な人だったよ

林:奥様がですか

朽木:いよいよどうしようもなくなって、彼女の話を書こうと決めた日…あっさりと逝ってしまった。よほど僕に忘れられたくないらしい

林:先生…

朽木:本当に強情で、こうと決めたらてこでも変えてくれない。…芯の強い人だったよ

林:…先生はもう、書かれないのですね

朽木:ああ。新作はない。永遠にだ。…妻の話なんて絶対、書いてやるものか。書く理由もなくなったしな。彼女の意地悪には乗ってやらないつもりだ

林:意地悪?

朽木:なんでもないよ。…それに、新しい恋もしない。…なぁに、僕一人なら年金で食っていけるからな

林:僕は…本当に先生の作品が大好きでした。先生の作品に携われたこと、誇りに思います

朽木:ありがとう。ああ……もし、林くんさえよければ、時々茶を飲みに顔を出してくれんか?無理にとは言わないから。…家内の話を聞いてくれ

林:奥様の話を

朽木:ああ

林:僕なんかが聞き手でいいのでしょうか

朽木:ああ、君に聞いてもらいたい。…たくさん話すよ。家内と僕の話を。書くことはできないけど、たくさん聞いてくれ。君だけが、僕の最後の読者だ

林:わかりました。…先生の最後の作品、しかと拝聴いたします

朽木:うん、ありがとう

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