第三章:葉蔭の現実は赤く染まりて
「ねえ、リィリアー! 昼食ってまだ残ってるー?」
昼食の配給が一段落し、画材を手にリィリアがルーヴァの元へと向かおうとしていると、赤毛をシニヨンにしたくたびれた様子の少女が半ば泣きつくように声をかけてきた。
「あれ、メリーゼはお昼まだだったの? イリーゼはお昼ご飯受け取りに来てたの見かけたけれど」
リィリアは髪型がシニヨンか三つ編みかということ以外は非常によく似た風貌の少女が昼食の黒パンのサンドウィッチを取りに来ていたのを見た覚えがあった。ええー、とメリーゼはこの場にいない要領のいい双子の妹へと憤慨する。
「あの子ったら、私に回診押し付けてふらっとどこか行ったと思ったら、またそういうことを! ねえリィリア、腹立つから夜の配給、イリーゼの分ちょっと減らしといて!」
「ええ……それはちょっと……。そもそもわたし、これからルーヴァさんに呼ばれているから、夜の配給はお手伝いできないし……」
そっか、と白衣の肩をメリーゼは竦めた。そういえば、とリィリアは思い出したことがあって、メリーゼを手招きする。リィリアは彼女を先導して、糧食の仕込みをしていたテントへと向かった。補給部隊の面々がまだ食事の後片付けで忙しくしていて、近くに人気がないことを確認すると、リィリアはテントの中へと入っていく。
「あ、よかった、残ってた」
廃棄用の木箱にサンドウィッチに使った炙った黒パンの切れ端を見つけると、リィリアは持っていたスケッチブックを一枚破って、袋を折った。
画用紙で折られた袋の中にまだ暖かいパンの切れ端をいくつかちぎって手早く突っ込んでいく。
紙袋の蓋を閉じようとして、なんとはなしに手元から視線を上げると、砂糖の入った壺と目が合った。リィリアはそっと壺の蓋を開けると、手のひらに一掬い分の砂糖を紙袋の中に滑り込ませた。
何事もなかったかのようにリィリアは砂糖の壺を閉じると、テントを出た。紙袋の口を折ってシャカシャカと振ると、テントの外で待っていたメリーゼへとそれを手渡した。
「はい、これ良かったら。大したものではないんだけれど」
「リィリア、ありがと」
嬉しそうに表情を綻ばせながら、メリーゼは紙袋の口を開ける。そして、砂糖のまぶされたパンの切れ端を取り出すと、メリーゼはわあっと小さく歓声を上げる。
「え、何これすごーい! ラスクみたい!」
「手抜きなんだけどね。でも、喜んでもらえたみたいでよかった」
「もう、本当リィリアには感謝だよー! おかげでどうにか夜まで耐えられそう! せっかくだし、イリーゼに自慢してやらなきゃ!」
じゃあね、とリィリアと赤毛のシニヨンの少女は白衣と軍服のスカートの裾をはためかせながら走り去っていった。あんまり言いふらして欲しくないんだけどなあ、と思いながら一つ年上の少女の背をリィリアは見送った。
さて、とリィリアは画材を腕に抱き直した。思いがけないことに時間を使ってしまったが、いい加減ルーヴァの元へ向かわねばならない刻限のはずだった。
びっしりと立ち並ぶ白いテントの群れが南の高い空から降り注ぐ夏の強い日差しを反射している。リィリアは眩しさに紫の目を細めながら、ルーヴァの待つテントへと向かって歩き出した。
◆◆◆
「すみません、ルーヴァさん。遅くなりました」
詫びの言葉を述べながらリィリアは、ルーヴァが仕事に使っているテントの入り口をくぐった。
構わないよ、とリィリアの遅刻を咎めるでもなく、ルーヴァは朗らかな調子で彼女を迎え入れると、
「ワタシもこの子たちと語り合っていたところだからね。そう待ったという気もしないさ」
この子たち、と言うルーヴァの声に恍惚とした響きが混ざる。彼が指で示す先には、人毛や爪にはじまり、果てには指や眼球などといったもので作られたホルマリン漬けの瓶詰めがずらりと並んでいる。
「そ、そうですか……」
アンジェリカ。ジュリアーナ。エイリーン。ヴェロニカ。異様さに表情筋を引き攣らせているリィリアをよそに、女性の名前を呼びながら、ルーヴァはモノクルの奥の金眼を蕩けさせてホルマリン漬けの入った瓶に頬ずりしていく。シェスカから聞かされた話だが、ルーヴァには過去に振られた女性の身体の一部でホルマリン漬けを作り、それを愛でるという猟奇的な性癖があるらしい。
(え……この人……、話には聞いていたけれど、気持ち悪い……)
実際の様子を目にし、リィリアは自分の肌が粟立つのを感じた。彼に好意を持たれることがないように、この場に毛の一本すら残さないように、細心の注意を払うようリィリアは肝に銘じた。リィリアはルーヴァの様子に顔を引き攣らせながらも本題を切り出す。
「ところで、今日はどうするんですか? 言われた通り、いつも使っている画材を持ってきましたけど」
そうだったね、と人の歯らしきものが入った瓶に舌を這わせていたルーヴァはリィリアを振り返る。表情から恍惚とした色が消えていき、彼本来の怜悧さを取り戻していく。
「この前は、キミの口からその異能について説明してもらったが、今日は実際に見せてもらおうと思っている」
「は、はい……」
今見た異様な光景を極力思い出さないように努めながら、リィリアは頷いた。リィリアは近くにあった机と椅子を借り、スケッチブックを広げると、
「それでわたしは何を描けばいいですか?」
「そうだな……まずはキミの能力が発動する条件を見たい。これはその辺りで適当に摘んできたものなんだが、とりあえず、色をつけずにこの花を描いてみてもらえるか?」
ルーヴァはワインの空き瓶に活けられたツユクサを持ってくると、机の上に置いた。はい、と返事をすると、リィリアは画材を机の上に置くと鉛筆を一本取り出す。リィリアは鉛筆を手に、目の前の青く可憐な小さな花を画用紙の上に再現していく。
「これ、陰影はつけますか?」
つけなくていい、とルーヴァは首を横に振った。わかりました、と頷くと、リィリアはさらさらとスケッチブックの上に鉛筆を走らせ、花の形を線で浮かび上がらせていく。
「できました」
三分ほどして、リィリアは鉛筆を動かす手を止めた。輪郭だけではあるが、それなりに雰囲気は再現できているはずだった。
「では、早速この絵に対して力を使ってみてもらえるか?」
リィリアは左手をスケッチブックに描かれたツユクサの線画へと翳す。しかし、リィリアの手にも絵にも変化が起こる様子はない。
駄目か、と横から様子を覗き込んでいたルーヴァは小さく呟く。しかし、その横顔は淡々としていて落胆した様子はない。
「それじゃあ、次はこれに陰影を足してみますね」
リィリアは再びスケッチブックへと鉛筆を走らせ始める。画用紙の上の花に影が書き足され、奥行きと存在感が増すと、リィリアは再び絵の上に手を翳した。
「……駄目みたいですね」
リィリアは再び花の絵に働きかけたが、変化が起こる様子はない。ふむ、とルーヴァは興味深げにモノクルへと手をやると、
「限りなく本物に近くなければ、キミの異能の対象とならないということか? 次はそれに色を塗ってみてくれ」
「はい」
リィリアはパレットの上に絵の具を絞り出すと、絵筆の先でそれをしごく。
花びらの青。葉の緑。雄蕊の黄色。それ以外にも目には見えない光や影の色をリィリアはスケッチブックの上へと乗せていく。
出来上がったツユクサの絵を見て、ほう、とルーヴァは感嘆の息を漏らした。上手いものだな、と彼は独りごちた。
「それじゃあやってみてくれ」
促されてリィリアは鮮やかに存在を主張するツユクサの手の上に左手を乗せる。左手が金色の光を帯び始め、触れたツユクサの絵の輪郭が光の粒子へと変わり始める。
一瞬の後、リィリアの手の中にはワインボトルに活けられているのと同じ一輪の花があった。どうぞ、とリィリアはそれをルーヴァへと渡した。
「すごいな。手触りまですっかり再現されている」
ルーヴァは矯めつ眇めつ、具現化されたツユクサを眺めながら、
「ところで、このツユクサというのは食することができる種だったとワタシは記憶しているが、これも本物と同じように食べられるものなのか?」
ルーヴァの問いにリィリアは何ともいえない難しい表情を浮かべながら、
「食べられることは食べられるんですけど……食べた時点でわたしの視界から消えてしまうので、食べたことにはならないというか……」
「これを食べたところで栄養価として体内に吸収されないということか。つまり、キミのその能力は、糧食の増産には使えない」
そういうことになります、とリィリアの言いたいことをわかりやすくまとめてくれたルーヴァに彼女は頷いた。ちなみにだが、とルーヴァはぐちゃぐちゃに積まれた書類の山の中から、一枚の紙を引っ張り出すとリィリアの元へと持ってきた。
「りんごの絵、ですか」
ルーヴァが持ってきた紙にはなかなかに上手いりんごの水彩画が描かれていた。
「これはこの師団でもまあまあ絵の上手い者に描かせたものだ。キミ自身が描いたものでなくても、その力は有効なのか確認したい」
「わたし以外が描いたものですか……そういえばやってみたことがありませんでしたね」
絵の精緻さだけを見れば、先ほど検証したリィリアの能力の発動条件に合致しているように見える。どうなるだろう、と思いながらリィリアは温かみを感じる筆致で描かれたりんごの絵へと手を伸ばす。
「どうやら、キミ自身の描いたもので、なおかつある程度の再現度がないと、キミの能力は発動しないようだな」
変化の起きないりんごの絵を見ながら、ルーヴァは自身の見解を述べた。そうみたいですね、とリィリアは彼の言葉を肯定する。ところで、とルーヴァは続けて疑問を口にしていく。
「紙に描いたキミの絵が君の力の対象になることはこれで実証された。なら、画材を変えた場合どうなる?」
「画材を変える?」
どういうことだろうと思いながら、リィリアは聞き返した。
「今は紙に鉛筆と絵の具で絵を描いてもらっただろう? たとえば使う道具をクレヨンやペン、チョークに変えた場合どうなるか、描く場所を紙でなく布や木の板に変えた場合にどうなるのかを検証したい」
「なるほど……前者でしたら、何を使って描いたとしてもわたしが描いたものであれば可能です。ただ……紙以外に描くというのはやったことがないですね」
「そうか」
ルーヴァはよれよれの白衣のポケットを漁って、ぐしゃぐしゃに丸められた布切れを引っ張り出すとリィリアへと向けて放り投げた。それを受け止めたリィリアはうわ、と顔を顰めた。
「……ルーヴァさん、何ですかこれ……」
「ワタシのハンカチだ。これで構わないので、そこのペンを使ってそれに先ほどと同じものを描いてみて欲しい」
「それはいいですけど……」
手の中の布切れを広げ、リィリアは露骨に嫌そうな顔をした。本来は白かったのであろうハンカチは黒や茶色のシミにまみれ、一体何日か洗っていなかったのか、長時間放置された雑巾のような匂いがしている。いっそ雑巾の方がまだ清潔かもしれないと思いながら、リィリアは仕方なく机の上に皺だらけの汚いハンカチを置く。机の上に備え付けられたペンと色とりどりのインクを使いながら、リィリアはハンカチの上にツユクサを描き始めた。
リィリアはツユクサを描き終えると、嫌そうに左手でハンカチに触れた。ハンカチの表面は湿ってごわごわとしていて、ぞわりと鳥肌が立つのをリィリアは感じた。
スケッチブックのときと同じように、リィリアの手が光を帯びた。ハンカチに描かれたツユクサの輪郭が金色の粒子へと変わっていき、リィリアの手の中に実像を結んでいく。
「……できましたね」
そう言いながら、リィリアはハンカチを指先で摘むとルーヴァへと押し付ける。何がそんなに嫌なのかわからないとでも言いたげな顔でルーヴァはハンカチを受け取るとぐしゃっと白衣のポケットへとつっこみ直した。
「布とペン、この取り合わせは問題ないようだね。他にはどのような組み合わせがよくて、どのような組み合わせが駄目なのか、色々と検証してみよう」
そう言うと、ルーヴァは思いつく限りの画材の組み合わせを書き連ねたリストをリィリアへと手渡した。リィリアはリストに視線を落とすと、げんなりとした顔をした。
「念のために聞きますけど……これ、全部やるんですか?」
「もちろんだ。キミの能力で何が出来て何が出来ないのかきちんと把握することが、この戦況に変化をもたらすための第一歩なのだから」
「そうですか……」
これはなかなか解放してもらえそうにないな、とリィリアはテントの天井を仰ぐ。彼女の手に握られたままだったツユクサの花が金色の粒子となってほどけ、わずかな煌めきの残滓を残して消えていった。
テントの入り口から差し込む光はほのかに夕方の色を帯び始めている。これは今日の夕飯は食べられないかもしれないな、と覚悟を決めると、リィリアは再び絵筆へと手を伸ばした。
リィリアがルーヴァから解放されたのは、月が高く上ってからだった。心身ともにどっと疲れたリィリアは女性兵士用のテントに戻るべく、基地内を横断しようとしていた。
(それにしてもお腹減ったなあ……)
案の定、ルーヴァのせいで夕飯を摂り損ねてしまった。昼間ならいざ知らず、食べるものを探してこんな夜更けに食糧が保管されているテントに忍び込もうものなら不審者として見張りの兵に捕まってしまう。そんなことになろうものなら、上官であるシェスカにも迷惑が掛かってしまうし、朝の配給までこのまま空腹を耐え忍ぶほかなさそうだった。
雲ひとつない夜空からは繊月がささやかな光を地上へと届けている。夜の静けさの中、リィリアはイハーヴ川に沿ってのろのろと歩を進めていく。
(そういえば……毎晩いるってオーウェル様は仰ってたけど、今夜はいらっしゃるのかな)
この基地に着任した日の夜にオーウェルと出会った場所が近づいてきて、リィリアはふとそんなことを思った。疲れているからか、あの穏やかで優しい声が聞きたいような気がして、リィリアは川岸のその場所へと足を向けた。
「あ……」
月前に亜麻色の髪をうなじで束ねた青年の姿があった。川辺に腰を下ろしたオーウェルのアイスブルーの双眸は何かを祈るように閉じられていて、声をかけるのは躊躇われた。
(今日はこのままテントに帰ろう。オーウェル様のお邪魔をしてもよくないし)
後ろ髪を引かれる気持ちに蓋をして、自分にそう言い聞かせると、リィリアは踵を返そうとする。「きゃっ」踏み出した足が暗がりに潜んでいた石に蹴躓き、リィリアは思わず悲鳴を上げた。ばさりと音を立てて、彼女の腕の中からスケッチブックが滑り落ちる。
「リィリア?」
物音に気づいたのか、オーウェルが立ち上がり、リィリアへと近づいてくる。オーウェルは地面に落ちたスケッチブックを拾い上げて、リィリアへと返しながら、
「リィリア、こんばんは。また会ったね」
「こ、こんばんは……」
柔らかく微笑むオーウェルにリィリアは少しどぎまぎとしながら挨拶を返す。あわよくば声が聞ければと思ってここに足を向けはしたものの、実際にこうして話しかけられると何だか緊張してしまう。
「もしかしてルーヴァのところからの帰り、なのかな?」
「ええまあ……」
もじもじとしながら、リィリアはオーウェルの問いへと答える。なぜかオーウェルの顔を真っ直ぐに見られなくて、不自然に視線が泳ぐ。
「リィリア、ごめんね。ルーヴァは根っからの研究者気質というか、気になったことはとことん突き詰めないと気が済まない性質だから、大変だよね?」
「それはその……」
ルーヴァがオーウェルのかつての学友だと知っている手前、そうともそうじゃないとも言えずにリィリアは曖昧に言葉を濁した。
ふいに、くう、とリィリアの腹が空腹を訴えた。「あっ」よりにもよって一国の王子に腹の音を聞かれてしまった恥ずかしさでリィリアは顔から火が出そうだった。顔面の温度が急激に上昇していくのを感じる。
「リィリア、もしかして夕飯食べてない?」
オーウェルにそう尋ねられて、リィリアは顔を真っ赤にしたまま小さく頷いた。オーウェルは軍服の上から羽織った黒のマントの中をまさぐると、りんごを取り出し、リィリアへと差し出した。
「これ、良かったら食べて。今朝、ルーヴァが私のところに置いていったものなのだけれど」
「ルーヴァさんがですか?」
先ほど彼にりんごの絵を見せられたな、などということを思い出しながら、リィリアはりんごを受け取る。手の中の丸く赤い果実からはほのかに甘い匂いがした。
リィリアはその場に座ると、鉛筆を削るために持ち歩いている小刀を取り出し、りんごの皮を剥き始める。軍服のポケットから清潔なハンカチを取り出して地面に広げると、八つに切り分けたそれを置いた。
「オーウェル様もよろしければどうぞ」
リィリアがオーウェルにりんごを勧めると、彼は首を横に振って、
「私はいいよ。リィリアが食べて」
「わたしだけいただくのも何だか申し訳ないので」
「そう? それなら一つだけいただこうかな」
オーウェルはハンカチを挟んでリィリアの隣に腰を下ろすと、甘い芳香を放つ瑞々しい果実へと手を伸ばした。オーウェルがりんごを口にするのを見届けると、リィリアもりんごを手に取り、しゃこしゃこと齧り始める。
並んでりんごを食べながら、リィリアは今日の出来事をオーウェルに話した。話がりんごの絵の件に差し掛かると、オーウェルは苦笑を漏らした。
「早朝からルーヴァが私のところに押しかけてきて、りんごの絵を描けというから何事かと思っていたんだけれど、そういうことだったのか」
「あのりんごの絵……オーウェル様が描かれたんですか?」
リィリアが驚いて尋ねると、そうだよとオーウェルは頷いた。
「下手の横好きであまり上手くはないのだけれどね」
「そんなことないですよ! 温かみを感じる素敵な絵だとわたしは思いました。オーウェル様は絵がお好きなんですね」
ありがとう、とオーウェルは少しくすぐったそうな顔をすると、
「絵に限らず、私は美しいものが好きなんだ。そんなことを言っていると父上には女々しい、男らしくないと叱られてしまうのだけれどね。
そうだ、リィリア。この戦争が終わったら、城に絵を見に来るといいよ。城の回廊には古今東西の美しい絵がたくさんあるんだ。よければ、私が案内する」
オーウェルの提案に、リィリアは素敵、と目を輝かせた。きらきらと光るその双眸は最北を示す星のようだった。
「絶対に見せてくださいね。約束ですよ」
約束する、とオーウェルの小指がリィリアの小指を攫っていった。食べかけのりんごがリィリアの手からぽとりと落ちていく。地面に着く前にもう一方のオーウェルの手がりんごを受け止める。
はい、とオーウェルがりんごを持った手をリィリアの口元へ持ってくる。
「ちょっと、オーウェル様……! やめてください、恥ずかしいですっ……」
リィリアが嫌々をするように首を振ると、透明感のある美しい目が顔を覗き込んできて、
「大丈夫。私しか見ていないから」
「もう……」
オーウェルが見ているから恥ずかしいのだという言葉を飲み込んで、リィリアは遠慮がちにりんごを齧る。その様子を見ていたオーウェルはふふ、と小さく笑い声を漏らした。
「な、何で笑うんですかっ!」
「何だか、リィリアはかわいいなと思ってしまって」
「なっ……」
予想外の言葉にリィリアは絶句した。そんなリィリアの様子に構うことなく、オーウェルは彼女の耳元に口を寄せると、
「本当のことだよ。リィリアはとてもかわいい。けれど、誰にでもこんなふうに隙を見せているんじゃないかと思うと、私は少し心配だな」
間近で甘い言葉を囁かれ、リィリアは心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。恋人めいたその言動に、オーウェルが自分に好意を抱いているのではないかとありえない錯覚をしてしまいそうになる。
「リィリア。そんな顔を見せるのは私の前だけにしてくれほしい。約束だ」
「えっ……それって、どういう……?」
動揺するリィリアをよそに、オーウェルは絡めたままだった小指を解いた。積み重ねられていく約束にリィリアは蚊の鳴くような声ではい、と返事をすることしかできなかった。
二人は微妙な距離を残したまま、しばらく川面に揺れる空明を眺めていた。白鳥の姿を象る星々が、いつの間にか天の頂へと位置を移していた。
◆◆◆
翌日もリィリアはルーヴァに研究のために呼び出されていた。
ルーヴァの元に向かう前に、リィリアは朝食を取りに配給所へと立ち寄っていた。近くにあったテーブルに腰を下ろし、昨夜のオーウェルの甘い言葉に思いを馳せながら、ぼんやりと朝食の豆のスープを啜っていた。
「あれって、どういう意味だったんだろう……」
スプーンの上の豆を見つめながら、リィリアは呟いた。うーん、とリィリアが一人で唸っていると、とん、と背後から頭を硬いもので突かれた。「ふぇっ?」我に返ったリィリアが背後を振り返ると、赤毛を三つ編みにした少女が朝食の乗った盆を左手に持って立っていた。彼女の右手にはスプーンが握られており、リィリアはどうやら自分は彼女にスプーンの柄で小突かれたらしいと悟った。
「イリーゼ」
リィリアが少女の名を呼ぶと、彼女は姉と同じトルマリンブルーの双眸をにっと細め、快活な笑みを浮かべた。
「リィリア、おはよ。ご飯、一緒していい?」
「いいけど……メリーゼは?」
「メリーゼなら、フレーネさんにご飯持ってってる。容態が急変した人がいるからって、昨夜からずっと救護用のテントに詰めてて戻ってこれてなくってさ」
こともなげにイリーゼはそう言いながら、リィリアの隣に腰を下ろした。
昨夜、テントに戻ったのは夜もかなり遅くなってからだったが、同じテントで起居しているはずのフレーネの姿がなかったことをリィリアは思い出す。今朝目覚めたときもテントの中に彼女の姿はなかったが、一晩中彼女は戻ってきていなかったというのか。
「衛生部隊って大変なんだね……」
まあねえ、とイリーゼは行儀悪くテーブルの上に頬杖をつきながら相槌を打つ。彼女はスプーンを口に運びながら、
「まあ、あたしたちはこんなの慣れっこなんだけどね。怪我人なんていつ運び込まれてくるかわかったもんじゃないし、こっちで様子見てる人たちの容態だっていつ変わるかわからないしね。
とはいえ、あたしやメリーゼみたいなただの兵士はまだ楽な方だよ。フレーネさんは責任者だから、何かあったときに呼び出されることも多いけど」
「そうなんだ」
「あたしたちのことはともかくとして、リィリアも随分大変そうじゃない? 昨日帰ってきたの真夜中だったじゃん。さっき何か考え込んでたみたいだけど、あの変人少佐に何かされた?」
「そんなことはないんだけど……」
「ないんだけど……何? ほら、きりきり吐け吐け」
食事中だよ、とリィリアは困ったように眉尻を下げた。ごめーん、と微塵も反省が感じられない声色でイリーゼは軽い謝罪の言葉を口にした。
「それで、どうしたの? 言いたくない話なら無理には聞かないけどさ」
トマト味の液体を飲み下すと、リィリアは口を開いた。たとえばなんだけど、と彼女はイリーゼへと話を切り出した。
「男の人って簡単にかわいいって言えちゃうものなの? びっくりしてたら、そんな顔を他の人の前では見せるなみたいなことを言われたりとかって普通によくあること?」
お、とイリーゼはリィリアの言葉に意外とでも言いたげな反応を見せる。明るい色の瞳は、露骨な好奇心で満たされている。
「え、なになに、リィリアはあの変人少佐に迫られてるわけ? 困ってるならさっさとシェスカさんに相談したほうがいいよ。放っておくと、あの人、リィリアの髪かなんかでホルマリン漬け作りかねないし。何ならこの後一緒にシェスカさんのところに行ってあげようか?」
ううん、とリィリアはスプーンを盆に置くと、かぶりを振った。
「大丈夫、ルーヴァさんがどうとかっていう話じゃないから。それに、これはたとえばの話って言ったでしょ? イリーゼはどう思う?」
イリーゼは皿の底に残った豆をスプーンでかき集めながら、
「まあ、普通に考えてそういうこと言う男は、大抵その女の子のこと好きだよね。……で、少佐じゃないなら誰に言われたのさ? リィリアのことが気になってる男なんて、この師団じゃ心当たりがありすぎて全然絞れないんだけど」
「ほら、あくまでたとえばの話だから……別にわたしの話とも言ってないし!」
どうだかなあ、と疑いの色の乗った水色の視線をイリーゼはリィリアへと向ける。食事を終えたイリーゼは席から立ち上がりながら、
「まあ、いいや、詳しいことは今夜また聞かせてもらうから」
それじゃあね、と中身が空になった食器を手に、三つ編みのおさげを揺らしながらイリーゼは去っていった。その背を見送りながら、リィリアは今しがたイリーゼに言われた言葉を頭の中で反芻する。
(好き……? オーウェル様がわたしのことを? そんなわけないわ)
オーウェルは王子だ。その立場上、女性と関わることも多いだろう。
彼のように身分の高い男性は、女性を褒めることを当たり前のように知っているものだ。昨夜の可愛いという言葉も、甘やかな囁きも、きっと彼からすればただの社交辞令に過ぎないものだろう。
(昨日のわたしは……あれが自分だけに向けられる特別なものだと勘違いしていただけよ)
あれは夜という時間が作り出した幻想で、自分はその雰囲気に酔ってしまっていただけだ。いきなり違う環境に飛び込むことになった自分を気遣ってくれたあの言葉がなまじ嬉しいものであっただけに、リィリアはそのことを残念に思った。
(今はもう朝よ。いつまでも昨日のことにばかり気を取られている場合じゃない)
切り替えないと、と己に言い聞かせながら、リィリアは空になった食器を持って立ち上がる。
食器の返却場所へと向かってリィリアは歩き出した。今日も昨日の実験の続きがあるし、やらねばならないことはいくらでもある。
終わりかけた夏の力強さを残した朝日が、彼女を背後から射抜くように照らしている。気温が上がり始める前の爽涼な風が、彼女の黒髪を一房攫って吹き過ぎていった。
◆◆◆
イハーヴ川の水面が空の色を映し、赤く染まっていた。西の空の太陽はラナトメラの森とイハーヴ
珍しく日のある時間にルーヴァの実験から解放されたリィリアが配給の手伝いへと向かおうと救護所のテントの辺りを通り過ぎようとしたときのことだった。
イハーヴ川の方角から見知った顔の少女が歩いてくることに気づき、リィリアは足を止めた。赤い髪を三つ編みのおさげにした彼女は、同じテントで起居するイリーゼだった。普段はマイペースな振る舞いが多い彼女だが、西日に照らされて浮かび上がる顔は何かに耐えるかのように歪められている。姉と同じトルマリンブルーの双眸は険しく、今の彼女は触れれば切れてしまいそうな鋭さを帯びていた。
「イリーゼ……?」
今朝とは別人のような彼女の様子に異様なものを覚え、リィリアは恐る恐る声をかけた。名前を呼ばれた少女ははっとしたように、ほんの少し表情を緩めた。
「ああ、なんだ、リィリアか。お疲れ、そっちは今日はもう終わったんだ? こんなに早いの珍しいね」
そうなの、と応じかけたリィリアはイリーゼの軍服が血液で真っ赤に染まっていることに気づいた。え、とリィリアは血相を変えると、
「イリーゼ……! 何で、そんなに血まみれになって……! どこか怪我してるの!?」
違う違う、とイリーゼは顎先で自分の背中をしゃくってみせる。リィリアはイリーゼに示されたほうへと視線をやり、はっとして目を見開いた。「え……?」思わずリィリアは口元を手で押さえた。
下半身がちぎれた藍色の髪の青年がイリーゼの背で目を閉じていた。体が二つに分断されているだけで充分だろうに、何かで左胸を貫かれたと思しき致命打があった。
青年は、ルーヴァの麾下にある工兵小隊の兵士だった。配給の際に何度か言葉を交わしたことがある。
(なんて、むごい……)
けれど、リィリアはそれが戦争なのだということを幼少期の経験から知っていた。男は徹底的に殺され、女は凌辱の上に命を奪われる。リィリアの母に至っては、死んでなおその尊厳を辱められた。
「リィリア、あんまり見ない方がいいよ。この後夕飯でしょ? あたしは慣れてるからいいけど、ご飯食べられなくなるよ」
リィリアを案じるイリーゼの言葉に、ううん大丈夫、と彼女は答えた。
「ねえ、イリーゼ。戦場で亡くなった人は……どうなるの?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「わたしの村が、昔ルフナ軍に襲われたときは、たぶん誰も村の人を弔ってなんてくれなかったから。きっと、燃え残った骨だけがそのまま風化していったんだろうと思うから」
「リィリア……」
彼女の凄惨な過去に同情するような声を漏らすと、イリーゼはため息混じりに言った。
「見る? あまり気分のいいものだとは思えないけど」
イリーゼに聞かれて、リィリアは頷いた。ついてきて、と促され、リィリアはイリーゼの横を歩き出した。
イリーゼに連れてこられたのは救護所のテントの脇だった。地面に敷かれた布の上には、物言わぬ遺体が数え切れないほど並べられていた。五体満足の遺体は少なく、どこかが潰れていたり、千切れていたりするものが多かった。原形がわからないくらいに顔がぐちゃぐちゃに潰れてしまっているものすらある。
「あ、イリーゼ。……と、リィリア?」
兵士の屍の首元を探っていた赤毛をシニヨンにまとめた少女――イリーゼの双子の姉のメリーゼが二人の存在に気づくと顔を上げた。彼女もまた、金茶の軍服を血で汚している。
「メリーゼ。メリーゼは今、何をしていたの?」
血で汚れたメリーゼの手の中に鈍色に光る小さなものを認め、リィリアは尋ねた。ああこれ、とメリーゼは手の中のそれへと視線をやると、
「これはドッグタグ。この人がどこに所属する誰なのかを見分けるためのものだよ」
そう言われて、リィリアはドッグタグに刻まれた小さな文字を見て、息を呑んだ。そこに記された名前と所属は、今朝リィリアがルーヴァの元に向かう際に立ち話をした人のものだった。
「あたしたちの仕事は怪我をした兵の治療をすること。だけど、全部を全部救えるわけじゃない。戦況によってはあたしたちの仕事はこうやって、死体の後処理に変わったりもする。
今日みたいな日は特にそうだね。今日の戦闘は痛み分けに終わったけれど、その分損耗も激しかったみたいだから」
イリーゼは背負っていた青年の遺体を敷き布の上に下ろしながらそう言った。後処理、とリィリアが怪訝そうに眉根を寄せると、イリーゼは青年の遺体からドッグタグを回収しながら、
「あたしたちはね、遺品代わりにこうやってドッグタグを回収して、王都に物資調達に帰る輸送部隊に託すんだ。輸送部隊によって王都の軍務局にドッグタグは届けられる。殉職者の除籍処理が済んだ後に、ドッグタグは軍務局から戦死者の家族へと送られる。
ここに今いる人たちはマシな方だよ。自分の死を家族に伝えてもらえるんだから。場合によっては、遺体を回収できないことだってある。その場合、軍務局は彼らを行方不明者扱いすることしかできない。残された家族は、帰ることのないはずの人の帰宅を一縷の望みを持って永遠に待ち続けるんだ」
残酷だよね、とイリーゼは呟く。リィリアは何も言えずに唇を噛んだ。
「ここにいる人たちは、こうやって遺品の回収が済んだ後、燃やされる。遺体をそのままにしておけば腐ってしまうし、虫が集まってきてしまうと防疫の観点でよくないから。虫を媒介とした疫病の発生を防ぐためにも、私たちは迅速に彼らに対応しないといけないんだよ」
メリーゼはドッグタグを回収し終えた遺体の顔に布を被せてやりながらそう言った。
この場所には当たり前に死がある。知り合いの誰かが、今朝すれ違ったばかりの誰かが、その日の夜にはいなくなっているかもしれない。そんな儚く残酷な常識がこの場所の日常を作り上げていた。
リィリアは双子が感情の消えた静かな顔で、死者たちの対応をしているのをその場でじっと見つめていた。やはり戦争は残酷だ。そう思わずにはいられなかった。戦争が嫌いだと言ったオーウェルのあの夜の言葉が改めて胸に重く響いた。
西の地平線で残照が夜の訪れを告げている。もう二度と朝を迎えることのない者たちのために、リィリアはそっと冥福を祈った。
リィリアはシェスカへ提出する一日の報告書をまとめた後、眠る気になれなくて、基地の中を歩いていた。
夕方、メリーゼとイリーゼの元で見た光景が目に焼き付いて離れなかった。人のいない練兵場の中央で大きく炎が上がっているのが見えた。この基地では比較的皆が生活上の影響を受けにくいこの場所で、毎晩遺体を焼いているのだとメリーゼが先ほど言っていた。
リィリアは死者を送る火へ向かって両手を合わせると、目を伏せた。何のゆかりもないこの地に骨を埋め、家族のもとに帰れない彼らのことを思って、彼女は祈った。
明日は一体誰かいなくなってしまうのだろうと思うと、心細かった。こうやって戦場にいる限り、いつ誰にその順番が回ってきてしまったとしてもおかしくなかった。
練兵場のそばを通り過ぎ、リィリアはイハーヴ川の方角へと向かって歩いていった。
「こんばんは、リィリア」
川岸にはいつもの通り、夜空の下で白く静かな光の波を浴びるオーウェルの姿があった。リィリアが何だか沈んだ様子であることに気づいた彼は、どうしたの、と彼女を案じる言葉をかける。
「今日は何だか暗い顔をしているね。何かあった?」
リィリアは川岸に座るオーウェルの横へと腰を下ろすと、
「衛生兵の人たちが、今日の戦闘で亡くなった人たちの対応をするのを見たんです。わたしが知っている人たちも何人か亡くなっていて……」
ぽつぽつと平板な声で言葉を紡ぎ始めたリィリアに寄り添い、オーウェルはうん、と相槌を打つ。
「わたし……ルフナ国との戦争のときに、戦争がどんなものか知ったつもりでいました。昨日まで一緒にいたはずの人が死んでしまう、そういうものだと知ったつもりでいたんです。
けれど、それは戦争の一面性に過ぎなくて……戦場で死んだ人たちは、家族のもとに帰ることはないんだって知らなかったんです。残された家族も、ドッグタグ一つで大切な人の死を知らされる……それは彼らを送る衛生兵の人たちにとっても、知らせを受け取る家族にとってもとても重いことだなって思いました。それなのに……そんなことが日常に溢れかえっているなんて、わたし……知らなくて……。これが戦場なんだって、ただただ圧倒されてしまって」
胸の奥から溢れ出してくる感情を、リィリアは拙い言葉で紡いでいく。わかるよ、と頷いたオーウェルの顔が何故かリィリアにはいくつも重なって見えた。
「きっと、リィリアは怖いって思ったんだよね? 私も学生のときに、実習の一環で戦場の後方支援をやったけれど、少し前まで生きていた人が燃やされるのを見て、恐ろしくて眠れなくなったことがあるよ。次は親しい誰かの番かもしれないし、もしかしたら自分かもしれない、って」
「オーウェル様も……?」
恥ずかしながらね、とオーウェルは軟弱な己を
こんな話ができているのも、生きているからこそだ。戦場にいる以上、明日もこうして彼と顔を合わせられる保証などどこにもない。不安の波が心の奥から押し寄せてきて、自分を支えていた足元がほろほろと砂になって崩れていってしまうような心もとなさを感じる。
あの、とリィリアは躊躇いがちに口を開いた。目頭が熱い。涙が溢れないように、ぱちぱちとリィリア早い瞬きを繰り返す。しかし、その甲斐なく涙はリィリアの眼窩をこぼれ落ち、軍服のスカートに点々と模様を描いていく。
「どうしたの?」
「オーウェル様は……いなくならない、ですよね……? 死んだりなんて、しないですよね……?」
基本的には後方で全軍の指揮を執るのがオーウェルの仕事だ。彼に万が一が起こる可能性は低いとはいえ、もしかしたらという思いがリィリアの心細さを掻き立てる。
涙に濡れた声でそんなことを聞いてくるリィリアがいじらしくて、オーウェルは思わず細い背中を抱きしめた。
「大丈夫だよ、私は絶対にいなくなったりしないよ。リィリア、泣かないで」
リィリアにはその言葉は嘘だとわかった。戦場において、絶対と形容できるものは死以外に存在しない。それでも、リィリアはその言葉に縋りたくて、喉の奥から声を絞り出す。
「オーウェル、さま……、約束、してくれますか……?」
「約束するよ」
そう言ったオーウェルの声は優しく、リィリアは戦場というものに圧倒されていた自分の心が少しずつ溶けていくのを感じた。
(何でかな……オーウェル様がそばにいると安心する。心が温かくなって、大丈夫って思えるようになるの……)
自分の心を満たすものの正体が一体何なのか、リィリアにはわからない。それでも、抱きしめられた腕の感触と温もりが心地よくて、リィリアはオーウェルに自分の体を委ね続けた。
死者たちを悼むように夜の虫たちが、耳に心地よい微かな音で挽歌を奏でていた。
◆◆◆
「先日の実験のとき、キミは気になることを言っていたね。確か、キミの力で実体を持ったものは食べることはできても、栄養価として体に吸収されることはない、と」
リィリアがルーヴァの研究用のテントへ赴くと、挨拶もそこそこにそんなことを言われた。ええまあ、とリィリアはルーヴァの言葉を肯定する。
「キミのその異能――便宜上
「
どういう意味かとリィリアは首を捻る。たとえば、とルーヴァは指を立てると、具体的な例を説明し始めた。
「先日はツユクサの花を対象に力を使ってもらったと思う。結果、食べても意味はないものの、問題なく
それなら、剣などの武装のような人工物はどうか? 鳥などのような生き物はどうか? 物語の中に出てくるようなもののような架空の事物はどうか? そういった内容を今日は検証していきたい」
「わかりました」
やらなくてはならない項目をまとめたリストをルーヴァに手渡され、今日も大変そうだとリィリアは遠い目でテントの天井を仰ぎ見た。
「それはそうと、今日はキミの実験に手伝ってくれる助っ人を呼んである」
「助っ人、ですか?」
絵を描くことも
「入りたまえ」
ルーヴァがテントの入り口に向かって声をかけると、リィリアと同じくらいの歳の青年が入り口の布をめくって中へと入ってきた。
黒地に金茶の刺繍の軍服。黒の短髪に人懐っこそうな琥珀の瞳。その姿に見覚えがあるような気がして、リィリアはあれ、と思う。
「あの……もしかして、初日にテントまでいらっしゃっていた……?」
「覚えていてもらえて光栄っす! 俺はヴァレット・ドルーグ少尉っす!」
ヴァレットはリィリアに向かって敬礼すると、爽やかに挨拶した。今日はお願いします、とリィリアは気後れしながらも小さく頭を下げる。
「ちなみにドルーグ少尉はディエスの部下だ。暇そうにその辺りを彷徨いていたので連れてきた。心置きなくこき使ってやるといい」
さらりとそんなことを宣うルーヴァにリィリアは小さく肩をすくめた。ヴァレットの琥珀の半眼が栗色の髪が無造作に波打つルーヴァの側頭部を射抜いている。
物言いたげなヴァレットの視線を意に介したふうもなく、ルーヴァはパンパンと両手をはたく。ほぼ灰色に近い汚れた白衣の袖口から大きめの埃が落ちた。
「それでは今日も実験を始めようか。少尉、彼女に見えるように剣をそこの机の上に置いてもらえるか?」
「構わないっすけど……アヴェルス少佐、ご自分の剣はどうなさったんすか……?」
制式装備のロングソードを鞘から外して机の上に置きながら、ヴァレットはルーヴァにそう聞いた。ルーヴァはなぜか誇らしげに胸を張ると、
「ワタシは基本的に戦闘員ではないからね。軍から支給された剣は王都の家の屋根裏で眠っているよ。念のためにダガーは持ち歩いているが、しばらく使っていないから完全にナマクラになってしまっているだろうね」
「少佐……よくそんなことを堂々と言えるっすね……。モーフェルト大佐にでも知れたらどやされるっすよ」
「あいつの小言など、学生時代から聞き飽きているからね。今更どうということはない」
「「……」」
リィリアとヴァレットは顔を見合わせた。いくら相手の階級が上だとはいえ、ルーヴァの戯言などは無視して今日の分の実験にさっさととりかかったほうが身のためのようだった。ルーヴァに付き合っていては、また今日もとんでもない時間まで彼に拘束されることになってしまう。
「えーと、わたしはこの剣を描いて
リィリアはこれからやることについて、ルーヴァへとは確認しながら、スケッチブックを開いた。パレットの上へと絵の具を絞りだすと、筆先で複数の色を混ぜ合わせ、刀身の色を作り出していく。
「ああ。その剣を描いて、それを
ヴァレットのロングソードを具に観察しながら、リィリアはルーヴァに言われた通り、それを紙の上に描き出していった。リィリアの迷いない筆運びを横で眺めながら、すごいっす、とヴァレットは感動していた。
リィリアは筆を置くと、本物より少し小さいそれの上に左手を翳した。リィリアの手と紙の上の剣が金色の光を帯びる。
「う、うわあっ」
手の中に現れたロングソードの重みにリィリアはたたらを踏んだ。
「大丈夫すか?」
ヴァレットはリィリアの背を支えると、彼女の華奢な手に握られたロングソードを引き取った。ヴァレットは片手で軽くロングソードを素振りしながら、
「絵と同じサイズ感なのか、少し小ぶりですけど、持った感じはちゃんと剣って感じっすね。少佐、何か試し切りに使っていいものないっすか?」
ヴァレットの要望にルーヴァは少し面倒くさそうな色をモノクルの奥の眸に浮かべると、
「そこの入り口にある空樽でも使ってくれ。どうせ廃棄する予定だったからな。手間が省けてちょうどいい」
「……そうっすか」
ヴァレットは呆れたような様子を見せながらも、リィリアが
ほう、と感心したようにルーヴァは切り口を調べていく。リィリアは自分の描いたものがきちんと殺傷能力を持っているという事実に薄ら寒いものを覚えた。
「ちゃんと、切れるんですね……」
幼いころ、リィリアは自分のこの能力を人を傷つけるために使ってはならないと両親に言い聞かせられて育った。自分の能力がこうも危ういものであると改めて突きつけられると、背筋がひやりとする。
「ふむ……武器を無尽蔵に出せるとなれば、我が軍の戦法に影響を及ぼすこともありそうだな……」
少し待っていてくれ、と言い置くと、ルーヴァはおもむろにテントを出ていった。一体どうしたのだろう、とリィリアは汚れた白衣の背を見送る。リィリアの視界がヴァレットから外れ、彼が握っていたロングソードは光の粒子となって解け、消えていった。
「消えたっす……」
ヴァレットは驚いたように琥珀の目で自分の手とリィリアを見比べている。
「わたしの
リィリアが説明してやると、ヴァレットはなるほどと得心したように頷いた。
二人がそんな会話を交わしていると、程なくしてルーヴァが戻ってきた。その手には小ぶりな人形のようなものが握られている。
「アヴェルス少佐、それ何すか?」
「確か、北の方の国の民芸品ですよね。どうしてそんなものを?」
ヴァレットとリィリアは口々に疑問を口にする。ことん、とルーヴァはリィリアの前に人形を置くと、
「シェスカの私物なんだが、思うところがあって借りてきた。キミ、これを
「は、はあ……」
ルーヴァに促され、リィリアはわけもわからないまま筆を手に取った。
ころんと丸みを帯びたフォルム。素朴で愛らしい少女の相貌。髪を覆い隠す赤い頭巾。細緻ながらも華のある模様の民族衣装。
色とりどりの絵の具を巧みに使い分けながら、リィリアは目の前の人形をスケッチブックの上に描き起こしていく。
絵を描き上げると、リィリアは筆を置き、左手を翳す。金色の光の粒子が手に纏わりつく。絵に触れた指先から、光が絵へと広がっていき、人形の丸っこい輪郭が浮かび上がらる。光が弾けると、その場にシェスカのものと瓜二つの人形が実体を伴って像を結んだ。
「できました」
リィリアがそう言うと、ルーヴァはシェスカから借りてきた人形の頭部を指で外した。「お」人形の中から一回り小ぶりなよく似た人形が現れ、ヴァレットは息を漏らした。
「キミが
見せてみろ、と言われ、リィリアはルーヴァと同じように自分が
「あれ……?」
先ほどとは異なり、人形の頭の下には空洞が広がっていた。ううむと小さく唸りながら、ルーヴァは両腕を組む。
「そうなるか……まあいい。それでは次は、生き物の
ルーヴァは二冊の書物を書類の山の中から発掘してくると、リィリアの前へと置いた。一冊は鳥の図鑑、もう一冊は建国神話の伝承が書かれた本だった。
「
「俺……っすか?」
「人間を
「だからって、どうして俺なんすか? 少佐でも構わないような」
「ワタシはもう一人自分がいたらと思うと、嫌悪感で魂がぞわぞわするのでね」
「……」
身勝手なルーヴァの物言いにヴァレットは押し黙った。リィリアはルーヴァに呆れを覚えながらも、図鑑に載っていたコマドリをスケッチブックへと再現していった。
こちらを見る愛らしい小鳥の絵の上にリィリアは手を翳した。彼女の手と絵が金色の粒子を帯びた次の瞬間には、ピュイイイイイという可愛らしい鳴き声がテントの中に響いていた。
リィリアが画用紙の上から手を退けると、小鳥は宙へと舞い上がった。コマドリはテントの中をあちらこちらへとでたらめに飛び回ると、リィリアの視界を外れ、金色の光となって解けていった。
うーん、といつになく真剣な顔でルーヴァはコマドリが消えていった後の宙を見つめていた。「……ルーヴァさん?」リィリアが声をかけると、彼は何事もなかったかのように、次の実験に進もうと言った。
「次はフリティラリアの御使、でしたよね?」
リィリアは伝承の本を開くと、精霊の姿が描かれているページを探る。蝶のような羽を生やし、眩い光に包まれた少女の挿絵を見つけると、リィリアはそれを自分の絵筆でスケッチブックへと映し取っていく。
どこまでも透き通った四枚の羽根。人形のように愛らしい相貌。光を纏った美しい薄衣。
自然の中に宿る光の精霊リュミエールが女神に忠誠を誓った伝承上の美しい一幕に思いを馳せながら、リィリアは丁寧に筆を重ねていく。
美しい少女の姿をした精霊を描き上げると、リィリアは左手をその上に置いた。しかし、リィリアの能力は発動する様子を見せない。
「駄目、みたいですね」
「架空の生き物には
冷静なルーヴァの言葉に、ええーとヴァレットは残念そうな声を上げる。
「せっかくだから、この目で精霊リュミエール、見たかったっす」
そう言って口を尖らせるヴァレットへリィリアは苦笑を返すことしかできなかった。
これで実在のもの以外には
これをやる意味はあるのだろうか、と思いながら再び筆を執ると、リィリアはヴァレットへと声をかける。
「そこに立ってもらっていいですか? 変に力まずに、自然体で」
指示された通り、ヴァレットはリィリアの前へと立った。彼女は目の前に立つ彼をスケッチブックの上に描き出していった。
「おお、これは完全に俺っすね」
リィリアが描いた黒髪の軍服姿の青年を見て、ヴァレットは感嘆した。すごいっす、という手放しの賞賛に頬が緩むのを感じながらも、リィリアは絵の中のヴァレットの頭へと左手で触れる。
「俺自身がリィリアちゃんに撫でられてるみたいで何か照れるっす」
そう言って照れくさそうに頬を掻くヴァレットが何だかおかしくて、リィリアは小さく笑った。
リィリアの手が金色の光を浴びていく。金色の粒子が絵の中へと伝播していき、輪郭を光の色に染め上げる。
光の束が実物の三分の一程度の青年の姿へと置き換わっていく。ほどなくして、ヴァレットに瓜二つの小さな背丈の青年がその場に
「……あれ?」
その様子はまるで怪談話に出てくる死霊のようだとリィリアは思った。それを伝えると、ルーヴァも同意を示した。
「死霊、というのは言い得て妙だ。こいつには魂――自意識というものがないのだろう。それはつまり、生きながら死んでいるようなものだ。
君の能力では魂などといった目に見えないものは再現できないのだろう」
「なるほど……」
ルーヴァの仮説にリィリアは納得して頷いた。モデルとなった張本人に、自分が
「今までで検証できたことから鑑みるに、キミの能力では生きた兵士や神話の生物のような未知の脅威を新たに作り出すことはできない。ただ、武器の消耗の激しい最前線で武器を作り続ける、などといったことは可能かも知れない、といったところだろうな」
「武器を作り続ける……」
自分が戦場で最前線に立たねばならないということは恐ろしかったが、何より自分が生きた武器工房となって誰かを殺めるための武器を作らねばならなくなるかもしれないということが恐ろしかった。具体性を帯びてきた自分の力の用途が怖くなってきて、リィリアは左の掌をじっと見つめた。
「そういうことだから、残りの項目は二人で頼むよ」
手と薄汚れた白衣をひらひらさせると、ルーヴァはシェスカから借りてきた人形をポケットへと突っ込み、再びテントを出て行こうとする。
「そういうことってどういうことっすか? っていうか、少佐はどこに行くつもりなんすか?」
「これから、オーウェル様やディエスの奴と会議でね」
それじゃああとよろしく、とルーヴァは残りの作業をリィリアとヴァレットに丸投げして去っていった。
続きをやりましょうか、と言った自分の声がなぜか他人のもののようにリィリアの聴覚に響く。今、自分が”普通”を取り繕えているかどうかわからなくて、リィリアはヴァレットの顔を直視できなかった。
その日の夜、ヴァレットともにルーヴァの元での夥しい量の実験を終え、リィリアがテントに帰ろうとしていると、オーウェルに声をかけられた。
「あ……オーウェル様……。その、お疲れ様です」
考えごとをしながら歩いているうちに、気がつけばいつもの川原へときてしまっていた。お疲れ様、とオーウェルはリィリアへ労りの言葉を投げかけると、透明感のあるアイスブルーの瞳で彼女の顔を覗き込む。
「なぜか、私が会うときはリィリアはいつも悩んだ顔をしている気がするね。今日はどうしたの?」
そんなことはない、という言葉が喉元まで出かかった。しかし、オーウェルの目はひどく真剣にリィリアのことを案じていて、そんな言葉で煙に巻く気にはならなかった。
「わたし……この力で人を殺すんでしょうか?」
一日中、抱えていた不安がぽろりとリィリアの口をついて出る。ごめんね、とオーウェルは呟いた。普通の少女に過ぎないはずの彼女にこんなことを口にさせてしまう自分が不甲斐ない。
「私たちがリィリアをこんなところへ連れてきてしまわなければ、リィリアはこんなことで悩まずに済んだんだよね」
「そんなことは……!」
リィリアはオーウェルの言葉を否定する。
「ここに来るのはわたしが選んだことです! わたしの意志なんです!」
「わたし……今日、ルーヴァさんに言われて、剣の絵を描いて
「リィリアの力にはそういう一面性もある。それは紛れもない事実として受け止めないといけない」
オーウェルはそう言うとリィリアの左手へと手を伸ばす。そっと、彼女の華奢で清らかな手を握ると、オーウェルは言葉を続けていく。
「けれど、リィリアの力は使い方次第では人を笑顔にすることのできる、素晴らしいものでもある。――それだけは忘れないで」
その力は誰かを幸せにするために使うんだ、と言ったかつての父親の言葉とオーウェルの今しがたの言葉がリィリアの脳裏で重なった。あ、とリィリアは声を漏らす。
「あまり悲観的になって、大切なことを見失わないで。それはきっと、今のリィリアを形作り、支えている大切なことのはずだから」
そうだった、とリィリアは思った。小さいころから、リィリアが力を
下を向いていた気持ちが上向いていくのをリィリアは感じた。オーウェルはいつだって自分にこうやって前を向くきっかけをくれる。沈み込んでいた気持ちに
ありがとうございます、とリィリアははにかんだように微笑んだ。
「少しでもリィリアの心が晴れたなら何よりだよ」
オーウェルはリィリアへ柔らかな笑みを返す。アイスブルーとライラックの視線が空中で交わり、絡まり合う。
ふふ、とリィリアの口から小さな笑い声が漏れた。少し焦ったくて、くすぐったいやりとりが何だか愛おしくてたまらなかった。こそばゆくてたまらないのに、どうしてか、オーウェルとだといつまでだってこうしていたいような気分に駆られてしまう。
紺碧の夜空を一筋の星がこぼれ落ちていった。リィリアはあともう少しだけこうしていられるようにと星に祈りながら、オーウェルの手を握り返した。
◆◆◆
「――さて、今日はキミの力の範囲についての調査をしたい」
それから数日して、リィリアがルーヴァを訪ねていくと、開口一番にそう言われた。範囲というざっくりとした単語にリィリアは首を傾げる。
「範囲って……
「そうではなくてだね」
ルーヴァは爪に黒い汚れが詰まった人さし指を立てるとちっちと顔の前で振ってみせる。じゃあ何ですか、とリィリアはあの指には絶対触られたくないなあと思いながら話の続きを促した。
「範囲というのは数的な意味だ。キミは今まで、最大で何枚の絵を同時に
「そういえば、一枚しかやったことがないですね。同時に何枚も
ルーヴァはモノクル越しにどうせそんなことだろうと思ったとでも言いたげな視線を向けると、
「キミなあ、宝の持ち腐れもいいところだろう! なぜそれだけの力を持ちながら、それを試そうとしない! 普通、キミのような能力があれば、一度は自分の限界に挑戦してみるものだろう!?」
「ルーヴァさんの普通ってなんなんですか……」
唾を飛ばしながら興奮して捲し立ててくるルーヴァにリィリアはげんなりとしながら突っ込んだ。そもそも変人と名高い少佐殿に普通を論じられたくはない。
リィリアは自分の頬を濡らしたルーヴァの唾液を嫌そうに軍服の袖口で拭う。何だか臭いし、ぬちゃあっとする。最悪だ。
「それで、わたしはどうしたらいいですか? どれだけの数の
そうだな、とルーヴァは机の上に積み上げられた紙の山を指差した。
「これらすべてに何かしらの絵を描き、キミの能力が数値的な限界を迎えるまで
ざっくりとしたルーヴァの要望にリィリアは溜息をついた。とりあえず、この紙の山は何枚あるのだろう。これらすべてに絵を描いていくのだけでも大仕事だ。
(とりあえず……前に描いたのと同じツユクサでいいかな。散々描いたからまだ手が覚えてるし、描くのにそんなに時間が掛からないから)
そんなことを思いながら、リィリアは紙の山のてっぺんから画用紙を一枚取る。青、紫、黄、緑と絵の具をパレットに絞り出すと筆先でほぐしていく。
「それじゃあ、キミが絵を描き終わるまではワタシはマリアンナとシンディアとたっぷり語り合っているから。
そう言うと汚れた白衣のポケットの中から、ルーヴァは透明な液体と何かの肉片が入った小瓶を二つ取り出した。リィリアはさくさくと熟達した手つきでツユクサの青い花びらを描きながら、恍惚とした顔で小瓶を見つめているルーヴァへと苦言を呈した。
「わたしの作業を横で見ていてくださいとは言いませんけど、せめて仕事してください。あんまりいい加減なことばかりしていると、またディエスさんに叱られますよ」
今日のように実験をしている最中に、不備だらけの書類を手にディエスが鬼の形相でルーヴァのテントへ殴り込んできたことがあった。そのときも今のようにルーヴァはホルマリン漬けの瓶を前にだらしなく涎を垂らしていたので、生活態度から勤務態度に至るまで一通りディエスに叱られた上に、気色悪いという理由でホルマリン漬けのコレクションを全処分されかけるという事件に発展した。二人ともいい大人のくせに幼い子供のような口喧嘩が小一時間続き、辟易したリィリアが呼んできたシェスカに仲裁してもらったことで事なきを得た。あのときは本当に大変だった。
そんなくだらない出来事を思い出しながら、リィリアは筆を動かし続ける。リィリアの脇にはもう既に何枚ものツユクサの絵が描き上がり、新たな山を形成し始めていた。
リィリアがすべての紙に絵を描き終えるころには数時間が経過していた。既に昼の配給が終わって少し経つ時間帯であるにも関わらず、ルーヴァはリィリアが作業し始めてからまったく変わらない場所と表情でホルマリン漬けの瓶を愛で続けていた。
(こ、怖い……この人本当怖いし気持ち悪い……変人というよりこれはもう変態の域に入ってるわよね……。この人、研究者としては言うこともやることも的確で優秀な分、それ以外が心底残念な人だわ……)
リィリアは目の前の仕事相手に、失礼ながらも当然すぎる感想を抱いた。顔を引き攣らせながらもリィリアはルーヴァへと声をかける。
「ルーヴァさん、絵の用意、終わりました」
「ほう。それじゃあ早速本題に入ろうじゃないか」
恋人と長い別れを告げるかのようにルーヴァはホルマリン漬けの瓶とたっぷりと濃厚な口づけを交わすと名残惜しそうに椅子から立ち上がった。それについてはもう見なかったことにするとしても、人を昼抜きで作業させておいて何の気遣いもなしかとリィリアは呆れた。しかし、この男にそんなことを期待するほうがお門違いだとリィリアはすぐに思い直した。
(そんなことをこの人に期待している暇があったら、さっさと終わらせて、夜の配給には間に合うように努力したほうがいいわ)
そのほうが建設的だと自分に言い聞かせながら、どういうふうにこの後の実験を進めていくつもりなのかをリィリアはルーヴァへと問うた。
「キミの視界から外れると、せっかく
「そうですね」
それじゃあ始めよう、とルーヴァは次なる作業の開始を告げると、リィリアがツユクサを描いた紙の山から一番上のものを取って、彼女の右手へと渡した。
リィリアは左手を絵の上に翳した。左手が金色の光を帯び始める。リィリアが指先で花の絵に触れると、ツユクサの花の輪郭が金色の粒子へと変わる。
光が弾けるとともに、リィリアの右手から紙が消え、はらはらと地面へと舞い落ちていった。リィリアの手の中には紙の代わりに
リィリアは自分の視界から外れないように気をつけながら、ツユクサを机の上に置く。
「まずは一本目。これは出来て当然だな」
そう呟くと、ルーヴァは二枚目の紙を手に取り、リィリアへと渡す。
リィリアが左手を動かし、先ほどと同じことを繰り返すと、二本目のツユクサが
「複数の
「今のところ、そういうことはないですね」
なるほど、とルーヴァは頷くと、三枚目の紙をリィリアへと渡した。三枚目、四枚目、五枚目とリィリアは同じことを繰り返していったが、結果は変わらなかった。
「こうなってくると、キミの能力の限界を探るしかないな」
そう言うとルーヴァはにぃ、と口元を歪めた。しかし、その目は微塵も笑っていない。
(この人本気だ……)
研究のためなら容赦も妥協もしない研究者本来の片鱗をのぞかせ始めたルーヴァに、背筋に冷たいものが走り抜けていくのをリィリアは感じた。
この分で夜の配給までに無事解放されるのだろうか。この人は良くとも、夕飯まで抜く羽目になったら辛すぎる。そんなことを思いながら、リィリアは新たにルーヴァに手渡された紙へと、再び異能が宿る手を伸ばした。
◆◆◆
その日のリィリアは、ルーヴァに呼び出されていなかったため、夜の配給に向けての準備を手伝っていた。
夕飯のトマトシチューに入れるパプリカやナス、ズッキーニの下拵えをリィリアがしていると、俄かに辺りが騒がしくなった。
日々、川を越えた先のザナル平原で戦闘が行なわれているこの基地では、一日を通して怪我人が運び込まれてくる。しかし、ただの怪我人ならばこれほど騒がしくなることは稀だ。何かが妙だとリィリア思った。
(何でだろう……何か、嫌な予感がする)
わけもなく胸騒ぎを覚えて、リィリアは包丁を動かす手を止め、喧騒へと耳を澄ませた。
「意識がない! 急げ!」「何があった!?」「殿下が……矢で……!」
漏れ聞こえた単語を頭の中で繋ぎ合わせ、リィリアは固まった。殿下が、矢で、(おそらく射られて)、意識がない。全身の血がさーっと下がっていくのを感じる。握っていた包丁が、ぼとりとまな板の上に落ちる。刃先がリィリアの右手の甲を掠め、ぱっと血液が散る。
亜麻色の髪の青年が担架で救護所のテントへ運び込まれていくのがリィリアの視界に映った。紛れもないオーウェルの姿に、リィリアはたまらなくなって駆け出した。
リィリアが救護所のテントに駆け込むと、オーウェルは簡易ベッドの上に寝かされていた。軍服の上着とシャツを脱がされ、露わになった右の二の腕には、傷が走り、血が滲んでいる。
「メリーゼ、腕の傷は大したことはないわ。傷口から二次感染が起きないように、きっちり処置しておいてちょうだい」
軍服の上から白衣を纏い、ラベンダーグレージュの髪をハーフアップにした女性――フレーネはてきぱきと指示を出していく。「はい、少佐」赤毛のシニヨンの少女はいつになく真剣な顔で頷くと、包帯や消毒液の入った救急箱を運んできた。
ベッドの脇には、オーウェルに付き添ってきたと思われる、ディエスの部下のヴァレットが神妙な面持ちで立っていて、フレーネに聞かれたことに答えている。
「殿下はたまたま戦場に出ておられたところを矢で射られて、落馬されたのね? それで、頭を打って、意識を失われた」
間違いないっす、とヴァレットは頷く。そう、と頷くとフレーネは、オーウェルの目や耳、鼻の周りを具に確認していく。
「耳や鼻から何かが出ている様子はないわ。目や耳の周りにも変色は見られない。矢傷も浅いし、命に関わるような危険な兆候は見られない。意識が戻れば問題はないと思うわ」
フレーネがそう所見を述べると、安心したようにその場の空気がわずかに緩んだ。
「リィリア? どうかしたの?」
振り返ったフレーネがテントの入り口に立ち尽くしているリィリアの存在に気づいて声をかけた。フレーネは血で汚れたリィリアの手に気づくと、
「あら、怪我をしているの? メリーゼ、殿下の手当が終わったら、リィリアの傷も診てあげてくれないかしら?」
はい、とメリーゼは返事をする。彼女はオーウェルの傷口にガーゼを貼り付け、手早く包帯を巻いていく。そして、タライの水で一度手を清めると、彼女はリィリアを呼んだ。
「リィリア、こっち来て。傷を診るから」
うん、と頷くとリィリアはメリーゼへと近づいていく。メリーゼは、近くの空きベッドに腰を下ろすようにリィリアに言うと、傷ついた手を覗き込んだ。
「刃物で切ったって感じの傷だけど、配給の準備中に包丁でうっかり、って感じかな? それにしては顔色悪いけど、どうかした?」
そう言いながら、メリーゼはリィリアの傷口を消毒していく。リィリアは背後のベッドにちらりと視線を向けると、蚊の鳴くような声で言った。
「その……殿下が怪我をされたって、意識がないらしいって聞いて心配で……」
「心配しなくても大丈夫だよ。さっきからずっといたなら、少佐が何で言ってたか聞いてたでしょ」
安心させるように笑うメリーゼに、それでも、とリィリアは募る心配を抑えきれずに言い募る。
「だけど……本当に、殿下は目覚めるのよね……? ずっとこのままだったり、死んじゃったりすることなんて、ないわよね……?」
リィリアの軍服のスカートに透明な雫が滴り落ち、しみを作る。メリーゼは驚いたように水色の目を瞬かせると、何かを察したのか、ふうんとひとりごちた。メリーゼはリィリアの耳元に口を寄せると、早口に囁いた。
「わかった。そんなに心配なら、殿下が目覚めたらリィリアに伝えるようにイリーゼに言っておくよ。今日の夜番、イリーゼだし。ただ、あんまり勝手なことすると後で私たちがフレーネさんに怒られちゃうから内緒だよ」
「ありがと……メリーゼ……」
そう言うとリィリアは俯いた。大丈夫だと言われても不安で涙が止まらない。
リィリアは仕方ないなあ、とメリーゼは忙しいはずにも関わらず、リィリアの涙が止まるまでそばにいてくれた。
すう、すう、とオーウェルの呼吸音が、リィリアの嗚咽に混じって、夕方の救護所の中に小さく響いていた。
「リィリア!」
夜の配給の片付けを終え、リィリアがテントに戻ろうとしていると、救護所のほうから三つ編みの赤毛の少女がやってきた。
「イリーゼ!」
リィリアは少女の名を呼ぶと駆け寄っていく。
「殿下のご様子は!?」
「大丈夫、今目を覚ましたところだよ」
イリーゼにそう告げられ、リィリアは安堵で胸を撫で下ろした。ほほう、とイリーゼは姉と同じ色の目元をにやつかせる。
「なるほどねえ、メリーゼが言ってた通りだ」
「メリーゼが?」
リィリアが聞き返すと、何でもないとイリーゼは含み笑いをする。
「そんなことより、殿下と何か話したいなら今のうちだよ。フレーネさん、モーフェルト大佐のところに殿下の意識が戻ったって伝えにいってて今いないし」
早く、とイリーゼはいたずらっぽい笑みを浮かべると、リィリアを手招きする。リィリアはイリーゼの背を追って、救護所のテントへと足を向けた。
「殿下――オーウェル様っ!」
そう叫ぶと、リィリアは入り口の布を跳ね除け、救護所の中に飛び込んだ。「リィリア?」亜麻色の髪の青年が、ベッドから上体を起こし、リィリアを振り仰いだ。
「よかった……気がつかれて……!」
リィリアはオーウェルのベッドに駆け寄ると、彼の温もりが満ちる毛布に縋り付いた。夕方に次いで再び目の奥から涙が込み上げてきて、どれだけ自分が不安だったかということをリィリアは実感する。
「わたしっ……もしかしたら、オーウェル様が死んじゃうんじゃないかって……不安でっ……!」
「ごめんね、リィリア。心配……させちゃったんだよね? 私なら大丈夫、ちゃんとここにいるよ。それに、前に約束したよね。私はいなくなったりなんてしないって」
しゃくり上げるリィリアの肩をオーウェルはぽんぽんと優しく撫でる。リィリアは自分の肩に触れるこの温もりが失われずに済んでよかったと心底思った。
(わたし……オーウェル様がいなくなってしまったらと思うと気が気じゃなかった……)
この場所ではついさっきまで一緒にいたはずの人の命が当たり前のような顔をして儚くこぼれ落ちていってしまう。親しい人を失うかもしれないと思っただけで、リィリアの胸は張り裂けそうだった。
(親しい人だからってだけじゃない……オーウェル様、だからだ……。オーウェル様だから、わたしは失いたくなかった……)
気がつけば、リィリアにとって、オーウェルの存在はとても大きなものとなっていた。いつの間にかオーウェルはリィリアになってかけがえのない人となっていた。
友達に向けるものとも違えば、家族に向けるものとも違うこの感情の名前を何というのか、リィリアはまだ知らない。けれど、彼がとても大切だという感情とともにリィリアはオーウェルの胴に手を伸ばしてぎゅっと抱きしめた。
「リィリアー、そろそろフレーネさん戻ってきちゃいそうなんたけどー……ってありゃりゃ」
イリーゼはテントの外から顔を覗かせると、オーウェルに抱きついて泣くリィリアを見て、頭を押さえた。これは自分やメリーゼがフレーネに怒られるのは疑いない。
ちょっといいかな、とオーウェルはイリーゼを呼ぶ。
「ルミエリア少佐の部下の子の……確か、君はイリーゼ・フェルダン伍長だったかな? 彼女のことは私が君に呼ばせたとルミエリア少佐には説明するといい」
「でも……」
上司に虚偽の報告をすることをイリーゼが躊躇っていると、構わないよとオーウェルは畳み掛けた。
「私も彼女に会いたいと思っていたから。だから、何の問題もないよ。それに、このままだと君やお姉さんがルミエリア少佐に咎められてしまうだろう? 私の指示だと言えば、彼女も何も言えないはずだ」
「……全部、聞こえているのですけれど」
溜息混じりの女性の声がテントの外から響いた。げ、と上官の声にイリーゼはこめかみを引くつかせた。
フレーネがディエスを伴って救護所のテントの中に入ってきた。「まったく……」オーウェルとリィリアの有り様を目にしたディエスは僅かに眉根を寄せる。
「殿下、今回はそういうことにしておきますけれど、二度目はありませんからね?」
フレーネは甘い蜂蜜色の双眸に圧のある笑みを浮かべると、オーウェルを諫める。そして、彼女はオーウェルに抱きつくリィリアを引き剥がしながら、
「ほら、リィリア。殿下から離れなさい。意識が戻ったとはいえ、殿下はお怪我を召されているんだから」
「はい……」
リィリアは涙と鼻水でべとべとになった顔でフレーネを見た。白目は真っ赤に充血し、鼻も赤くなっている。
ほらほら、とフレーネは近くにあった清潔な布を手に取るとリィリアの顔を拭ってやる。リィリアは涙で枯れたがさがさの声で彼女へと礼を言った。
「フレーネさん……ありがとうございます……」
「どういたしまして。ほら、リィリア。あなたはそろそろテントに帰りなさい」
退出を促され、リィリアは立ち上がる。お騒がせしました、と恥ずかしげに呟くと、リィリアは救護所のテントを後にした。
更待月がようやく顔を出した暗い空には星屑が煌めいている。永遠に近い年月を生きる星々は、少女の中に根を張りはじめたほのかな感情を見守るように地上を見守っていた。
◆◆◆
(わたしは一体、何のために絵を描いているんだろう)
ルーヴァと
毎日のように目にする怪我をした兵士や、命を落とした兵士たち。
(わたしは、殺せと言われれば、この力で、この手で、人を殺すの……?)
先日、オーウェルを失うかもしれないと思ったあの日から、その思いは日毎に強くなっていた。リィリアにとってオーウェルが大切なように、きっとウィザル兵たちにも大切な人たちがいる。それを自分の手で奪えるのだろうか、とリィリアは自問自答を繰り返していた。
リィリアは、オーウェルと同じように戦争は嫌だと、人と人が争い、殺し合うのは嫌だと思っている。それなのに、今の自分は絵を描くことで戦争の片棒を担ぎ上げようとしている気がしてしまう。
自分の力が人を傷つける可能性を孕んだものであることは理解している。それでもリィリアは、誰かを傷つけるためではなく、幸せにするために
(こんなことばかり考えていても駄目ね……少し、気分転換しないと)
自分を取り巻くものを忘れ去り、一度原点に立ち返って、ただ絵を描くのが好きという理由だけで筆を走らせたかった。そのため、リィリアは夜の配給の手伝いが済んだ後、女性兵士用のテントの外で画材を広げ、スケッチブックに絵を描いていた。
モチーフは国章の獅子である。軍旗にもあしらわれている、悠然として猛々しい百獣の王を描くべく、リィリアは何色も絵の具を塗り重ねていた。
朝陽のように眩しい金の
国を守護するその存在の力強さを意識しながら、リィリアは筆を運んでいく。
(あ……楽しい……)
筆を動かす手が止まらない。ただ純粋に何かを描くということがこんなにも楽しいということを最近の自分は忘れていたとリィリアは思う。
(時々はこうやって、ルーヴァさんの研究とは関係なく、ただの趣味として絵を描く時間を作るべきね。そうじゃないと、自分を見失っちゃう)
そんなことを考えながら、リィリアは獅子の豊かな毛並みを、炯々と光る虹彩を細部まで描き込んでいく。この絵が描き上がったら、オーウェルへ贈るのもいいかもしれないとリィリアは思った。
(どうかこれ以上オーウェル様が怪我をしないよう、この獅子が守ってくれるように。そして、オーウェル様に力を与えてくれるように)
ほんのささやかな思いつきをきっかけに、一筆一筆にオーウェルへと向けた祈りがこもり始める。そういえば、研究のためでなく、誰かを喜ばせるために筆を執るのも久しぶりのことだとリィリアは思った。
獅子の絵が描き上がると、リィリアはスケッチブックのそのページを丁寧に切り取った。画材をテントの中に片付けにいくついでにリボンを取ってくると、絵を筒状に丸めてリボンで結んだ。即席とはいえ、贈り物としての体裁を取り繕えたことにリィリアは満足感を覚える。
(今夜もオーウェル様、いらっしゃるかな)
絵画が好きだというオーウェルは、自分が描いた絵を受け取ってくれるだろうか。オーウェルを思いながら描いたこの絵を彼が喜んでくれるといいなと淡い期待で胸が膨らんでいく。
基地の中を吹き抜けていく涼風と暗闇に浮かんだ下弦の月が夏が終わろうとしていることを教えていた。忍び寄る秋の気配を感じながら、思い悩んでいたことなど嘘のように軽快な足取りで、リィリアはいつもの場所へと足を向けた。
描き上げたばかりの絵を携えて、リィリアは基地の中を横断していた。目指すのはいつもオーウェルと会う川辺だ。
(こうやって、他の人に隠れてこっそり会うのってなんだか逢引きみたい)
逢引きという甘美な響きにリィリアの心臓はとくりと鳴る。
ほんのりと甘い面差し。優しい声。交わし合った他愛のない言葉の数々に、触れ合った手の温もり。そういったものたちが頭の中に蘇ってきて、リィリアは自然と頬が赤らむのを感じた。
オーウェルのことを考えるだけでこんなにもどきどきとする。一緒に過ごした時間を思い出すだけで、頭がふわふわとした幸せな微熱に包まれる。
(ああ、わたしは……)
オーウェルに恋をしている。彼のことを想うだけで、こんなにも心が揺れ動く。どこか幸せな甘酸っぱさも、苦しいほどの切なさも、他のことでは決して感じることのないものだ。
ほわほわと浮かれた気分のままリィリアはいつもの川岸に辿り着いたが、そこにオーウェルの姿はなかった。普段より少し時間も早いし仕方ない、少し待ってみようと思い、リィリアはその場に腰を下ろそうとした。
刹那、急速に殺気が膨れ上がった。その殺気は戦う者ではないリィリアにも感じ取れるほど濃厚なもので、抜き身の刃のように鋭く明確に彼女へと向けられていた。
(ウィザル兵……!? 何でこんなところに……!)
巨人と大槌の紋章が描かれた
すらり、と斥候兵の男がダガーを抜き放った。両手に一本ずつ構えたダガーの刀身が月明かりを受けて鈍色に光る。
リィリアは浮かれていた気持ちがすっと引いていくのを感じた。代わりに体の奥から冷たい恐怖が沸き起こってくる。手が震え、歯がガチガチと鳴る。
(やだ……死にたくないっ……殺されたくない……!)
リィリアは軍服の腰に吊るされたスティレットの柄に手を伸ばす。念のための護身用として、着任日にシェスカに渡されたものだったが、こうして本当に使う日が来るとは思ってもいなかった。
これから自分に訪れようとしている死というものが怖くて、自分がこれから人を傷つけようとしているということが恐ろしくて、手が動かない。
(こんなの、ペーパーナイフと大して変わらないでしょ……! 怖くない、怖くないからっ……! だからお願い、動いて……! 動け……!)
このまま固まっていては殺されるという焦燥から、リィリアは自分を精一杯叱咤する。それでもリィリアの手は震えるばかりで、スティレットの柄を掴むことはできなかった。
すっと手の中から絵が抜け落ちていく感触がした。地面に転がった絵からリボンが解け、紙の上に描かれた獅子の姿が露わになる。
斥候兵の男が猫を思わせる軽い身のこなしで飛び上がる。男の身体は空を切り、リィリアへと刺突を繰り出してくる。
「きゃっ……きゃああああっ」
リィリアは悲鳴をあげ、身を捩った。しかし、躱しきれずに刃が頬を傷つけ、熱が走る。一拍遅れて痛みが追いかけてくる。
「うっ……痛っ……」
ずきずきと脈動に合わせて痛みを訴える頬の傷を押さえて、リィリアはその場に蹲った。傷口から血が溢れ出し、リィリアの顔の下半分を真っ赤に染めていく。
斥候兵の男は着地と同時に再び地面を蹴る。振り翳された刃はリィリアへ止めを刺すべく、彼女の胸元へと向けられている。
獅子の絵が視界にちらりと映る。リィリアははっとした。
(これで……どうにか……! せめて、逃げるための隙を作れれば……!)
死にもの狂いで、リィリアは獅子の絵へと血で汚れた左手を伸ばす。今は、生き延びるために、これに一縷の望みを賭けるしかなかった。
左手を金色の光が包む。光の粒子が絵を包み込み、何もない空間へと小さな獅子を形作っていく。
「はん……?」
目の前のどこか幻想的な光景を訝るように斥候兵が一瞬動きを止めた。その隙をつくように、獰猛に牙を剥いた小さな獅子が男へと飛びかかっていく。
獅子のアンバーの瞳には意志はない。獅子を形作る筋肉が、関節が、骨が、腱が己の本能を記憶しているかのように、ただただ男を蹂躙していく。
獅子の鋭い牙に喉を噛み切られ、男の口から血飛沫と共に断末魔が迸った。返り血が点々とリィリアの金茶の軍服に不規則な模様を描く。獅子の爪で男がぼろぼろに引き裂かれていくのをリィリアは呆然として見ているしかできなかった。
目の前の残虐な光景と噎せ返る血の匂いに、ふいに食道を吐き気が込み上げてくるのを感じた。
「うえっ……」
リィリアは自分が
「いっ、いやっ……いやああああああああ!!」
リィリアは絶叫した。自分の身を守るためとはいえ、自分がやってしまったことが恐ろしかった。自分の力をこんなふうに使いたくはなかった。つんと塩辛いものが鼻腔を突き、目の奥から涙が込み上げてくる。
「リィリア!?」
彼女の悲鳴を聞きつけたのか、オーウェルがディエスを伴って姿を現した。他にも何人かの男性兵士を連れている。
「リィリア、どうしたの? 大丈夫?」
オーウェルは血と吐瀉物で軍服が汚れるのも構わず、リィリアのそばへとかがみ込んだ。嗚咽を漏らす彼女の背をそっと包み込むと、安心させるように髪を撫でる。
リィリアの頬に浅い切り傷ができているのを認めると、オーウェルのアイスブルーの双眸からすっと温度が消えた。オーウェルはリィリアの背を抱いたまま、背後のディエスを振り返ると指示を出す。
「彼女は怪我をしている。モーフェルト大佐、私は彼女を救護所に連れて行ってくるから、後を頼めるか?」
御意に、とディエスは敬礼した。そして、自分の部下たちへと向き直ると、
「スティルズ准尉はこのまま殿下の警護を。セルフィード准尉はアルフュール大尉の元へ向かい、救護所へ行くように伝えてきてくれ。ドルーグ少尉はここに残って、俺とこの場の検証だ」
は、とディエスの部下たちは敬礼をすると、彼の指示の通りに動き始めた。
「リィリア、傷の手当てをしてもらいに行こう。私に捕まって」
オーウェルはリィリアの背と膝の裏に手を回すと立ち上がった。抱き上げられたリィリアはオーウェルの首へと腕を回し、胸へと顔を埋めた。
「オーウェル、さま……ひくっ……わた、し……」
しゃくりあげながらも、リィリアは掠れた声を喉の奥から絞り出す。どうしたの、と聞く声はいつも通り柔らかく穏やかで、リィリアは改めてこの人が好きだと思った。
「わたし……わたし、……ひくっ……ひと、を……ひとを、ころし……たん、です……ひくっ」
「……そう」
リィリアの告白を受け止めるように優しくオーウェルは頷く。その言葉で、事切れたウィザル兵とリィリアの間に何があったのか、彼には大方想像がついた。彼女に手を汚させてしまったという事実に、オーウェルは薄い唇を噛む。
仔細を聞き出したいのはやまやまだったが、血を流し続ける彼女の心の傷口に手を突っ込んで広げるのは本意ではない。今の彼女を無闇に刺激したくなかった。
「リィリア。辛かったね。怖かったね。――だけど、リィリアが生きていてくれてよかった」
自分に寄り添ってくれようとするオーウェルの言葉の暖かさが心に染み渡り、強張っていた体に温度が戻っていくのを感じた。死への恐怖と自分がやってしまったことの悍ましさが改めて込み上げてきて、リィリアの喉を哀切な叫びが迸った。
「うあっ……うああああああああああああああ!!」
言葉にならないリィリアの思いを全て受け止めるように、胸の中で慟哭する彼女の体をオーウェルは抱きしめた。彼女が泣き疲れて眠ってしまうまで、オーウェルはずっとそうしていた。
夜半の空に浮かんだ半分の月はいつの間にか雲の中に消え、ブルーグレーの空が泣き出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます