第二章:二度目の出会いに想いは芽ぐむ

 王都を発ってから三日が経った。初めて体験する行軍というものにリィリアは辟易していた。

 北に向かっていることもあり、王都よりはましだが、夏である今はそれでも暑い。容赦のない炎陽に、分厚く丈夫な布で作られた真新しい金茶の軍服のジャケットに汗が滴り落ちる。背に流れる黒髪の間から覗くうなじは日に焼けて赤くなっていた。

 時折酸っぱいものが胃を込み上げて来るが、それが暑さによるものか、荷車の揺れによるものかわからない。気分が悪いからといってリィリア一人の都合で行軍を止めてもらうわけにはいかず、吐き気に耐えながらペパーミントの葉を噛んでいるしかなかった。

 これといって輸送部隊の役には立てないため、補給物資の詰まれた荷台の上で座っているしかできないリィリアだったが、他の兵士たちに何か言われることはなかった。前線基地のあるイハーヴ川畔かはんへ向かうこの部隊の指揮を取っているディエスが兵たちによく言い含め、睨みを利かせていたからである。

(ディエスさん、大佐なんだもんなあ……たぶん偉い人だろうとは思ってたけど、そこまでとは思ってなかった)

 輸送部隊の兵たちがきちんと指示を守っていることからも、ディエスが信頼され、慕われていることが伝わってくる。無愛想で少し無作法なところはあるが、悪い人ではないということはリィリアにも理解できた。

(だけど、あの人、言葉が足りないのよねえ……)

 出発までにもう少しディエスから今後について、詳しい話を聞かせてもらえるとばかり思っていた。しかし、出発前にリィリアが知らされたのは、前線基地のあるイハーヴ川畔かはんに向かうということと、そこで先に向かった総司令官である王子と合流するということだけだった。

 この部隊の責任者であるディエスは忙しい。休憩のときでさえ彼と話をする機会を得られず、リィリアはほとんど何も知らないままこの三日間を過ごしてきてしまった。

 配給の食事と一緒に、リィリアに不自由がないか案じるような旨の伝言を彼の部下が持ってきてくれることがあるので、存在を忘れられているわけではなさそうだ。しかし、不安でないといえば嘘になる。

 前方から吹いてきた水の匂いのする風がからっと乾いた空気を揺らした。誰も見ていないことを確認すると、リィリアは襟元の黒いリボンを緩めて、胸元へと風を取り入れる。服の中を撫でていく涼風にリィリアは少しだけ生きた心地を取り戻した。

 荷車を引いている馬の頭越しにリィリアが風の吹いてきた方角を窺い見ると、遠くにぽつぽつとテントの群れらしき影が見え始めていた。おそらく、目的地であるイハーヴ川畔かはんが近いのだろうとリィリアは思った。

 リィリアは凝り固まった体を解すべく伸びをする。いよいよだ、と自分に言い聞かせながら、リィリアは炎昼の空に目を細めた。


「着きましたよ」

 北東方面軍の前線基地に着き、荷車が止まると、リィリアはディエスの部下の青年に降りるように促された。振動を抑えるためにクッション代わりにしていた、着替えなどの荷物が入ったグレイッシュピンクの旅行鞄を手にリィリアは地面へと降り立った。久々の土の感触に、ふらりとバランスを崩して、リィリアはたたらを踏んだ。

「長旅ご苦労だった」

 黒い軍服の裾を揺らし、カツカツと金茶の軍靴を鳴らしながら、ディエスが姿を現した。常に馬で先頭を行き、休憩中も忙しそうにしていた彼とまともに顔を合わせるのは王都を出発したとき以来である。

「ディエスさんもお疲れさまです」

 リィリアはぺこりとディエスへと会釈をした。ああ、と軽く頷くと、ディエスはリィリアへと用件を切り出した。

「早速だが、一緒に来てくれ。引き合わせたい相手がいる」

 わかりました、とリィリアが返事をするのも待たずに、ディエスは踵を返して歩き始める。一方通行なやりとりに何だかなあと思いながら、リィリアは旅行鞄を抱えて、小走りに黒い軍服の背中を追った。

 ディエスに連れて行かれた先には三人の男女が待っていた。一人は軍服の上から薄汚れた白衣を羽織った、緩やかな癖を描く栗色の髪にモノクルをかけた二十代前半の男。もう一人はモノクル男と同じくらいの年齢の、顎の辺りで短く切りそろえた灰色の髪と萌黄色の双眸の快活そうな女性。そして、最後の一人にリィリアは見覚えがあった。

「あ……」

 うなじで緩く結えられた柔らかそうな亜麻色の髪。どこまでも透き通るようなアイスブルーの瞳。人の良さそうな穏やかで柔和な面差し。

 あの日、銀匙亭でウェル様と呼ばれていたディエスの上官の青年だった。先日ぶりだね、とウェルはリィリアの存在を認めると優しく微笑みかけた。

「え、えっと……」

 リィリアは戸惑った。そして、彼が大佐の地位にあるディエスの上官であるということはもしかして、と嫌な予感が頭をよぎった。よく考えれば、彼の顔を市井に出回る新聞や絵姿で目にしたことがあるような気がする。もしかして、自分は先日、途轍もなく貴い身分の相手にとんでもない失礼を働いてしまったのではないだろうか。

「ユーティス二等兵。改めて紹介する。この方はこの北東方面軍の総司令官にして、ゼレンディア王国の第二王子のオーウェル・ゼレナート殿下だ」

 ディエスの口から目の前の青年を改めて紹介され、リィリアは自分の想像が正しかったことに内心で頭を抱えた。

 ウェル。オーウェル。あの日、ディエスが呼んでいたウェルという名は、市中で身分を隠すための一応の偽名だったのだろうと遅まきながら理解した。リィリアは唇をわなわなと震えさせながら、旅行鞄を放り出すとその場へと跪く。

「せ、先日は王子殿下だとは知らずに、大変失礼いたしました……!」

 オーウェルはぱちぱちとアイスブルーの目を瞬かせると、得心したような顔をした。とんでもない、とオーウェルは首を横に振ってみせると、

「あなたの気持ちを慮ったつもりだったんだけど、逆に迷惑をかけてしまったみたいだね。こちらこそ、申し訳なかった」

 いいから立って、とオーウェルは手を差し出して、リィリアを立ち上がらせた。

 灰色の髪の女性が両腕を組み、お前たちはいったい何をやっているんだとでも言いたげな呆れたような半眼でオーウェルとディエスを見ている。こほん、とディエスが咳払いをすると、オーウェルはその場を取り繕うように、

「えーと、この話はこのくらいにしておこうか。これ以上は、そこの怖いお姉さんに私とディエスが怒られてしまうから」

 誰が怖いお姉さんだと言わんばかりの視線がオーウェルの右頬を容赦なく刺す。土のついた旅行鞄を拾い上げるリィリアははあ、と間の抜けた返事ををすることしかできなかった。

 そんなことよりも、とオーウェルは居住まいを正すと、リィリアへ向き直る。

「リィリア嬢。この度はこのような危険な場所に足を運んでくれてありがとう。そして、無理なお願いをしてしまったにもかかわらず、あなたが私たちに力を貸してくれるとのこと、この軍を束ねる者として心から嬉しく思うよ。何か不自由なことがあれば、遠慮なく言ってほしい」

 お気遣いありがとうございます、とリィリアは金茶の軍服のタイトスカートの裾を軽く摘むと、膝を折って礼をする。スカートの裾から覗いた黒いガーターストッキングの太腿からそれとなくオーウェルは視線を逸らしながら、

「リィリア嬢。ここでは淑女の礼はしなくていいよ。その……軍服のスカートでは少し無理があるだろうから」

「あ……」

 オーウェルの言いたいことを理解してリィリアは赤面した。王都で着ていた裾が長くふんわりとしたスカートのつもりでいては、肌着を見せびらかせる痴女になりかねない。

 リィリアの様子など気にしたふうもなく、ディエスは残りの二人の紹介を続けていく。

「この白衣でモノクルの男は従軍技術者のルーヴァ・アヴェルス少佐だ。力の軍事転用のための研究の都合上、お前はこの男と過ごすことが多くなるだろう。

 こちらは補給部隊の隊長であるシェスカ・アルフュール大尉。お前は表向きは彼女の部下ということになっているから、時間のあるときは補給部隊の仕事を手伝うといい」

 よろしくね、とシェスカはにっと笑うとリィリアに右手を差し出した。リィリアは恐る恐るその手を握り返した。

 ルーヴァはモノクルに手をやりながら、珍獣でも見るかのようにリィリアを見ている。その金の双眸はお気に入りのおもちゃを前にした子供のようにぎらぎらと光を放っていて、リィリアは顔が強張るのを感じた。

「それじゃあ、行きましょうか。荷物も置かないといけないし、基地の中を案内しないといけないから」

 シェスカは手を解くと、「ほら、こっち」リィリアのことを手招きする。失礼します、とリィリアはこの師団を預かる男たちへと軽く頭を下げ、踵を巡らせると、先を行くシェスカを追いかけた。視界の端でオーウェルがルーヴァを嗜めているのがちらりと見えた。

 他と比べていささか小ぶりなテントの前へ来ると、シェスカは足を止めた。

「入って。ここが今日からリィリアが寝起きするテントよ」

 入り口の布をめくって、シェスカはリィリアに中に入るように促した。テントの中は数人分の荷物が既に置かれていたが、人気はなくがらんとしていた。

「人、少ないんですね」

 テントの隅に荷物を置いたリィリアが思わずそう呟くと、シェスカは苦笑しながら、

「仕方ないよ。北東方面軍――それもこのゲーニウス師団は特に女子が少ないから。ここの師団は一万人くらい人がいるにも関わらず、女子はリィリアを含めて、このテントを使っている五人――あたしたちと衛生部隊の女の子たち三人だけだし」

 五人、とリィリアは紫の目を丸くした。軍というところは女性が少ないところだろうということは予想していたが、こんなにも少ないとは思わなかった。リィリアが正直にそれを口にすると、シェスカは木の椀にかめの水を掬ってよこしながら、

「まあ、ここに限らずどこもそんなものだと思うよ。女の身で軍に入ろうなんていう物好きはそうは多くないからね。リィリアはオーウェル様やディエスに頼み込まれてここに来たんだっけ?」

「そうですけど……えっと、その……?」

 シェスカが階級が上の二人の名を親しげに呼んだことについてリィリアが戸惑った様子を見せていると、ああ、とリィリアの疑問に対してシェスカが補足をしてくれた。

「オーウェル様とディエスとルーヴァとあたしは年齢はばらばらだけど、士官学院時代の同期なんだ。だからきちんとした場以外では、階級なんて関係なく名前で呼び合ってる」

 そうなんですか、とリィリアは相槌を打つ。先ほどの顔合わせの場の妙な気安さはそういうわけだったのかと思うと合点がいった。

「オーウェル様も言ってたけど、無茶なお願いに付き合ってもらっちゃってごめんね。まあ、どうせ、言い出しっぺはオーウェル様じゃなくディエスの奴なんだろうけどさ。

 明日から、本格的に関わることになるルーヴァも悪い奴ではないんだけど、研究馬鹿っていうかちょっと頭おかしいところがある奴だから、何かあったらちゃんと言ってね。毎日報告書は出してもらうつもりだけど、困ったことがあったら早めに直接言ってもらえたほうが上官としては安心だから」

 はい、と頷くとリィリアは水の入った椀に口をつける。甘やかな水の冷たさが暑さで渇いた体の隅々まで浸透していくのを感じる。

 一心地つくと、リィリアはテントの外が騒がしいことに気づいた。まさか来て早々に敵襲があったのでは、とリィリアは戦慄した。はあ、とシェスカは肩をすくめると、入り口の布を跳ね除け、外へと向かって一喝した。

「あんたたち、こんなところで何騒いでるの! リィリアが怖がってるでしょ!」

「へ……?」

 リィリアがきょとんとしていると、シェスカは彼女へと向き直り、

「ごめん、リィリア。女の子が入ったって聞いて、気になった奴らがリィリアのこと見に来ちゃったみたい。悪い奴らじゃないんだけど、あんまり気分のいい話じゃないでしょ?」

「い、いえ……てっきり、敵が来たのかとばかり……」

「そういうわけじゃないから大丈夫。で、どうする? 嫌じゃなかったら会ってみる? 正直、そうじゃないと収まりがつきそうにもなくって」

 わたしでいいなら、とリィリアは空になった椀を下に置くと、入り口の布の隙間から顔を覗かせた。

「わあ、本当に女の子だ!」

「すげえ、かわいい!」

 青年たちの野太い歓声がわっと上がる。たじろぎながらもリィリアは恐る恐るテントの外へと出る。

 女性兵用のテントの周りに数十人にもわたる人だかりができていた。その視線には好奇の色が濃く含まれていたが、それでもリィリアの存在に対して好意的で肯定的だった。

「えっと……リィリア・ユーティスです。この度、補給部隊でお世話になることになりました」

 よろしくお願いします、とリィリアが頭を下げると、拍手が沸き起こった。いいねえと言わんばかりの口笛も混ざっている。

「リィリアちゃん、軍服似合うねえ!」

「アルフュール大尉と違っておっかなくなさそうでいいですね」

「ティストル、聞こえてるわよ? おっかないお姉さんが新兵のときみたいにみっちりしごいてあげましょうか」

「俺、ヴァレットっす! 後で一緒に夕飯とかどうっすか?」

「あ、おい、何お前抜け駆けしようとしてんだよ!」

「ルミエリア少佐とは違って女の子は女の子でも、初々しい感じがたまらないですよねえ」

「……フレーネに伝えとくわよ、アドリック? まあ、次怪我の治療するとき、めちゃくちゃ痛くされると思うけど」

 我先にと兵士たちが話し始めて騒々しいことの上ない。合間合間で適切なツッコミを入れているシェスカの捌きっぷりが見事で、リィリアは愛想笑いをしながらそれを見ているしかできなかった。

 さすがに潮時だと判断したらしいシェスカがぱんぱんと手を叩きながら、

「ほらほら、リィリアは見せ物じゃないんだから。いつまでもこんなところで油売ってないで持ち場に戻んなさい」

 散った散った、とシェスカは虫でも相手にするかのように、テントの周りに群がっていた男性兵士たちを追い払った。「へーい」「はーい」「ほーい」やる気のなさそうな返事を背中越しによこしながら、潮が引くかのように男たちが去っていく。

 シェスカは呆れたような顔でリィリアを振り返ると、

「改めて、ゼレンディア王国北東方面軍ゲーニウス師団へようこそ、リィリア。こんなところなんだけど、上手くやってってくれると嬉しいな」

「は、はい……」

 先ほどの男性兵士たちの勢いに気圧されつつもリィリアは頷いた。男たちのあしらい方は酒場の仕事で慣れているほうではあったが、店と戦場ではなんだか人の質が違う。

 ところでさ、とシェスカは話題を転換させると、

「そろそろ夕飯の配給の準備をしないといけないんだけど、リィリアは料理はできる?」

「酒場の手伝いでたまに厨房に入ることがあったので、一通りのことはできると思います」

 それなら百人力だね、とシェスカはにぃっと口角を持ち上げた。

「毎食毎食、うちの中隊総出で準備するんだけど、いかんせん手が足りてなくって。ルーヴァの相手なんかより、こっち手伝ってくれた方が個人的には嬉しいんだけど」

 なんてね、と茶目っけたっぷりにシェスカは萌黄のひとみを片方瞑ってみせると、リィリアを手招きする。こっちこっち、とシェスカに誘われるままにリィリアは調理の手伝いをすべくその場を後にした。

 夏の昼は長く、まだ太陽が傾く兆しもなかったが、少し気温の下がった風が夕刻が近いことを知らせていた。


   ◆◆◆


 その日のリィリアは、疲れているはずなのに寝付くことができなかった。何度寝返りを打てど、一向に眠気の波が訪れる気配がない。

 ゲーニウス師団全員分の食事の用意と片付けは銀匙亭のそれとは比べ物にならないくらいの規模感で、リィリアはただただ圧倒され、疲弊した。

 どうにか夜の配給を乗り越え、テントに戻ってきて今日の報告書をまとめていると、同じテントで起居しているという衛生部隊のフレーネ、メリーゼとイリーゼが帰ってきた。彼女たちと顔合わせを済ませ、しばらく他愛もない話に興じた後、床に就いたはずだったのだが、なぜだか目が冴えて眠れなかった。

 リィリアは他の面々を起こさないように気をつけながら、体を起こした。素足を金茶の軍靴に突っ掛け、淡いラベンダー色のネグリジェの上から軍服のジャケットを羽織ると、リィリアはテントを抜け出した。

 テントの外の夏の夜半の空は、新月ということも手伝って、星が綺麗に見えた。濃紺のキャンバスに描かれた星々の命が紡ぐ物語を漫然と眺めながら、リィリアは基地の敷地内を歩き出す。

 見慣れない少女の姿を見咎めた見張り番の兵士に誰何の声をかけられることはあったが、所属を説明するとあっさりと通してくれた。

 基地の敷地を歩くうち、気がつけばイハーヴ川のほとりまで来ていた。真っ暗な水面を見つめながら、リィリアは膝を抱えて座り込んだ。

 今の戦況をどうにかするため、自分の力にオーウェルやディエスが希望を抱いていることはわかっている。しかし、自分なんかで本当に力になれるのだろうかと不安になる。

 今日の夜の配給一つとってもそうだ。シェスカは上出来だと言ってくれたが、今日の自分は部隊の皆の足を引っ張るばかりだった。

「はぁぁ……」

 溜息がリィリアの口をついて出る。こんなことでここできちんとやっていけるのだろうか。

 ざく、ざくと背後で軍靴が土を踏む音が響いた。リィリアが後ろを振り仰ぐと、黒地に金茶の刺繍が施された軍服に身を包んだ亜麻色の髪の青年が飲み物の入ったグラスを手に立っていた。

「殿下……?」

 こんばんは、とオーウェルは水のように透き通ったアイスブルーの目を優しげに細めると、リィリアの隣に腰を下ろした。

「オーウェルでいいよ。君はリィリア嬢だったね?」

「それなら、わたしのこともリィリアと……」

「それじゃあ、リィリア。こんなところで一人でどうしたの? もしかして、眠れない?」

 ええまあ、とリィリアは語尾を曖昧に濁すと俯いた。そっか、とオーウェルは暗赤色の液体が入ったグラスをリィリアに手渡しながら、

「リィリアはお酒は飲める? これ、グリューワインなんだけど、よかったら飲んで。眠れないときは身体を温めてリラックスしたほうがいいから」

 ありがとうございます、とリィリアはグラスを受け取ると口をつける。あたたかでまろやかな口当たりの中の蜂蜜の甘さや混ざり合った主張しすぎないハーブの香りにほんの少しだけ気持ちがほぐれていくのを感じる。

「おいしい……」

 リィリアが小さく呟くと、よかった、とオーウェルは微笑んだ。

「それで、どうしたの? 何か困りごとか悩みごと?」

「いえ……そんな、オーウェル様のお手を煩わせるようなことじゃない、ほんのくだらないことなので……」

 ううん、とオーウェルは首を横に振った。彼は柔和な瞳に真剣な光を宿すと、

「けれど、きっとリィリアにとってはくだらなくないことなんだろう? だったら、私はリィリアが抱えているのがどんなことだったとしても決してくだらないなんて言わない。

 誰かに話してしまえば楽になることだってあるよ。もし、リィリアが嫌でなければ、私に話してみない?」

「わたし……」

 グリューワインの残ったグラスを手にしたまま、リィリアはぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。

「わたし……不安なんです。ここで、本当にこれからやっていけるのか。今日の夕方、配給のお手伝いをしましたけど、足を引っ張るばかりで、何の役にも立てませんでしたし。それに、わたしのこの力だって、本当に戦況を変えられるほどのものなのかどうか……オーウェル様たちの期待に応えられないんじゃないかって思うと、ここにいていいのか不安なんです」

「不安、か」

 夜空を仰ぎながらオーウェルは呟いた。亜麻色の髪が涼風に揺れる。

「リィリアが不安なのも無理はないよ。私だって、不安だから」

 誰にも言ったことはないけれどね、とオーウェルは自嘲気味に笑う。オーウェルの言葉に驚いたリィリアはライラックの目を見開く。

「オーウェル様も、ですか……?」

 そうだよ、とオーウェルは頷く。オーウェルは筋張ってはいるが、滑らかで美しい手を夜空に翳す。右手の小指に嵌められたラピスラズリの指輪が星灯りを受けて微かな煌めきを放った。

「私は……戦争が嫌いだ。今こうしてここにいるのも仕方なくなんだ」

 少し長くなるんだけど、よかったら聞いてくれる、とオーウェルは問うた。リィリアはこくりと首を縦に振った。

 オーウェルは夜凪のような心地よい穏やかな声で、過去から現在へ繋がる彼自身の物語を話し始めた。


   ◆◆◆


 今から二十年前、オーウェルはゼレンディア王国の王太子であったジョセールの第二子としてこの世に生を受けた。

 オーウェルが十歳になった年の春に、前王にして祖父であったフォルティスが崩御した。その後、その年の夏の初めには諸々の儀式を終えた王太子のジョセールが正式に即位した。

 国力の安定のために内政に力を注いだフォルティスの治世に反して、ジョセールは他国に戦を仕掛け、国土を広げることを是とした。ジョセールが即位してからというもの、戦ばかりが続き、息を吐く間もなかった。

 北に希少な鉱石が取れる鉱山があると聞けば兵を派遣し、南に隣の大陸への航路を持つ港があると聞けば国境を侵犯する。戦の口実を見つけてはジョセールは開戦を繰り返す有様だった。

 オーウェルが十四歳のとき、ジョセールは南のルフナ国へと宣戦布告をした。奇襲まがいの行為を持って始まったその戦は最初は好調だったが、次第に海の傭兵を祖とするルフナ軍の粘り強い戦法に押され始めるようになった。

 ジョセールは事態を打開するために、息子二人の護衛をする近衛兵たちすら戦地に送るようになった。幼いころから側にいて、可愛がって遊んでくれた彼らを戦地に送ることをオーウェルは泣いて嫌がった。

 ルフナ国との戦は村が一つ戦火に飲み込まれたのち、早々に体制を整え直したゼレンディア王国軍によって戦線は国境まで押し返された。その間に少数精鋭の別働部隊が西の砂漠地帯を経由して主要な港町を一つ陥落させたことで、辛うじてルフナ国との戦はゼレンディア王国側の勝利に終わった。

 オーウェルの近衛兵たちは帰ってこなかった。戦況を盛り返した国境での戦闘で、皆、命を落としてしまっていた。

 知的で思慮深い祖父フォルティスを慕っていたオーウェルは、苛烈なところのある父ジョセールを元々あまり快く思っていなかった。しかし、この一件を境にオーウェルはジョセールに明確な憤りを覚えるようになり、戦争を忌避するようになった。

 ジョセールはそんなオーウェルを王家の男子らしくないとし、入学可能年齢の十五歳になるのを待って、彼を王立士官学院へと入れた。顔を合わせる度に男らしくしろ、王家の男として恥ずかしくないのかと口煩くするジョセールを厭うていたオーウェルは士官学院への入学を機に、これ幸いとばかりに学院の寮へと転がり込んだ。

 士官学院では、実技だけでなく、兵法や戦略、戦術の授業もあった。士官学院でいろいろな教師や生徒の考え方に触れたオーウェルは、次第にこれらの知識を応用して、剣を交えることなくして相手の戦意を喪失させることはできないだろうかと考えるようになった。敵でも味方でも、誰かが死ぬのは見たくはない。なるべく被害を少なく、早期に戦争を終結させられるようにしたかった。そうして、いつか父にも世界にも戦争など無意味なのだと気づかせたかった。

 そんなオーウェルの考え方を世間知らずのお坊ちゃんの甘っちょろい絵空事だとルーヴァは笑った。理想ではあるけれど現実は難しいとシェスカは眉を顰めた。たとえ夢のような話でも、叶うことならそんな世界を一緒に作らせてほしいとディエスは言った。

 ああでもないこうでもないと同期たちとこの国と世界の未来について議論することはオーウェルにとって楽しかった。そんなふうにして、オーウェルの二年間の学生生活は過ぎていった。

 オーウェルが王立士官学院を卒業してすぐのころ、南東のヴェガエニス公国と戦争になった。ジョセールが冬でも実りの多いヴェガエニスの肥沃な土地を欲してのことだった。

 ヴェガエニス公国との戦争に際して、まだ新兵だったオーウェルの学生時代の同期たちも次々と駆り出されていった。そうして出兵していった彼らのうちのほとんどは、初陣を最後に二度とオーウェルの前に顔を見せることはなかった。

 ヴェガエニス公国との戦争に際して、口を出してきたのが、彼の国の宗主国たるウィザル帝国である。

 ヴェガエニス公国との戦争は、戦争賠償金を支払った上で向こう十年間、国内で収穫された小麦の三割をゼレンディア王国に上納するという条件で講和条約を締結し、終結することとなった。しかし、ヴェガエニス公国に対する不平等条約の妥当性をウィザル帝国が大陸会議において俎上に載せたことをきっかけに、ゼレンディア王国とウィザル帝国の間に戦端が開かれることとなった。

 ウィザル帝国との戦争が始まり、程なくして母方の伯父にあたるラウベンタール公爵が戦死した。ゼレンディア王国軍を纏める元帥の地位にあった彼の代わりに、急遽、オーウェルが総司令官として前線に送られることとなった。

 しかし、それに待ったを掛けたのが、オーウェルの兄であるラセットだった。

 ラセットは母である王妃・シャローラによく似て、控えめで繊細で病弱な性質だった。とてもではないが戦に向いているとはいえない性質だったにもかかわらず、彼は戦を厭う弟の気持ちを汲んで、自分が従軍するとジョセールを説得した。

 ジョセールは最初はラセットを戦場に送ることを渋っていたが、彼の真摯な言葉に最終的には根負けした。前元帥のラウベンタール公爵も地位だけで、特に武勇に優れているわけでもなかったことも踏まえ、ジョセールはラセットへと形ばかりの少将の地位と前線基地への赴任の命を与えた。

 ラセットが総司令官として北東の国境に面したエディタント城砦へ赴いて二年弱。遅い春が終わろうとしていたある日、ウィザル帝国軍の強攻作戦により、ゼレンディア王国軍は砦を捨て、後退を余儀なくされた。

 ウィザル帝国軍は、敗走するゼレンディア王国軍を猛追した。この追撃の際に、他の兵を守ろうとして体を張り、ラセットは命を落とした。

 ラセットの死を以て、オーウェルは今度こそ、ゼレンディア王国北東方面軍の総司令官として従軍することとなった。そしてこのイハーヴ川畔かはんの前線基地に赴任したのがつい一週間前だった。

 まがりなりにも二年近く総司令官の座を頂いていたラセットのように将として、オーウェルは正しく振る舞える気がしなかった。士官学院で叩き込まれた知識も、いざ本物の戦場を前にすると、何の役にも立たないような気がした。

 オーウェルは自分が描いていた甘い理想が砂の城が崩れるように脆く揺らぎ始めるのを感じていた。何の犠牲も無しに、何かを守ることも得ることもできないのだと、兄の死が自分に教えているような気がした。

 自分がどうするべきなのか、どうあるべきなのか、オーウェルは砂漠から砂金を探し出すような気持ちで手探りを続けている。

 どうするべきなのか、という葛藤を胸に、若き勇将を演じながら、オーウェルは部下たちに遠回しに死を命じることしかできずにいた。それが本当に正しいことなのか、ただただ不安だった。

 未熟な懊悩とあのころの甘い理想の残滓が心を蝕んでいくのを感じながらも、そうじゃないと泣きたい気持ちを押し隠しながら立ち続けていることしか、彼にはできなかった。


   ◆◆◆


 オーウェルは言葉を切ると、ごめんね、と淡い笑みを浮かべた。さわさわと吹き抜けていく夜風が真っ黒な水面を揺らし、幾重にも波紋を描いていく。

「長々と変な話を聞かせてしまったね」

 そんなことありません、とリィリアはかぶりを振った。

「聞かせていただいて良かったと思いました。それに、オーウェル様ほどの方であっても不安に思うことがあるんだと思うと……変な言い方ですけど、何だか少し安心しました」

「私も一人の人間だからね。迷って、悩んで、不安になってばっかりだよ。……あ、それ、冷める前に飲んでしまいなよ」

 苦笑まじりにオーウェルに促され、リィリアは手の中のグリューワインのグラスに再び唇をつける。口の中に流れ込む赤い液体はほんの少しぬるくなっていて、体温に馴染んで溶けていくような口当たりだった。温度が下がったことでどこかもったりと間延びした味わいが何となく安心する。

「リィリア。人が傷つくのを見たくない、戦争なんてしたくない、なくなってしまえばいいと思う私の考えは、君から見ても甘くて幼いと感じるのかな? くだらないって思う?」

 オーウェルの澄んだアイスブルーの目が真っ直ぐにリィリアを見た。口調は変わらず穏やかだが、その言葉の響きはひどく真剣だった。

 リィリアは中身を飲み終わったグラスを地面に置くと、いえ、と首を横に振った。

「思いません。くだらないなんて、絶対にそんなことはありません。難しいことはよくわからないですけど、オーウェル様のお考えは、人として当然のことなんじゃないんですか? それを見失ってしまったら、人は何を目標にして戦うんですか? 何を目指して歩いていけばいいんですか?」

「そんなふうに言ってくれたのはリィリアで二人目だよ」

 一人目はディエスさんですよね、とリィリアは軽く唇を尖らせる。何となく自分がオーウェルにとっての一人目でないことを面白くないと思ってしまったのは、今しがた口にしたワインのせいかもしれなかった。

「私は、大切な人が傷つくことが、失うことが怖い。そして、他の誰かの大切な人を傷つけ、奪うことだってしたくない。

 人には心を通わすための言葉がある。それなのに、殺し合い、奪い合うことでしか、隣人との交流を図れない父上のやりかたが、世界の在り方が、私はどうしようもなく嫌なんだ。だから私は、この国から戦を無くし、叶うことならこの世界に平和をもたらしたいと思っているよ」

「とても素敵なお考えだと思います。オーウェル様はそのご理想を大事になさるべきです」

 ありがとう、とオーウェルは少し照れくさそうに口元を綻ばせた。今耳にした現王の人柄からして、このようなことを言って批判されることこそあれど、真正面から肯定されることなどなかったのだろう。

「そのためにも、まずは早くこの戦争を終わらせなければならない。毎日、漫然と今のまま戦いを続けていても、互いに疲弊し、被害が大きくなっていくだけだ。

 それなのに、私はこの戦争を終わらせるために、これといった策を打ち出せずにいる。そのせいで、本来、戦場にいるべきじゃない、リィリアのような普通の女の子にまで、奇跡を求めて縋らずにいられない自分を心底、情けなく思っている」

「大丈夫ですよ」

 リィリアの目には、オーウェルが道に迷ってしまった子供のように映った。理想と現実の狭間で己を責め、もがき苦しむオーウェルを力づけるように、リィリアは言葉を重ねていく。

「オーウェル様はお優しいからそんなふうに思ってしまうのかもしれません。けれど、ディエスさんたちのように、オーウェル様のことを支えようとしてくれる人だって、少なからずいるんだってことを忘れないでください。わたしだって、自分のこの力でどれだけオーウェル様の助けになれるかわからないですけど、それでも……少しでもオーウェル様が目指す世界を作るための支えになれればって思います。

 だから、オーウェル様。今はまだ手探りでも、少しずつ一緒に歩いていきましょう。戦のない平和な国を、世界を目指して」

「リィリア……」

 出過ぎた真似を失礼しました、とリィリアは目を伏せる。オーウェルはリィリアへと腕を伸ばすと、彼女の手を両手で包み込んだ。

「オーウェル様……?」

 リィリアは戸惑ったようにオーウェルの顔を見る。オーウェルはリィリアの手をそっと握る。皆が寝静まった夜の静寂の中、ほんのりと汗ばんだ手の感触とぬくもりがやけに生々しかった。

「リィリアのおかげで少し元気になれたような気がするよ。ごめんね、少しでも元気付けてあげられたらと思って、話しかけたつもりだったのに、私の方がリィリアから元気付けられてしまって」

「違いますよ」

 リィリアはふんわりと微笑む。春の朝焼けのように淡い色の瞳では、虹彩に映り込んだ星の光が瞬いている。宝石のようなその美しさに、オーウェルは目を奪われる。

「そういうときはありがとうって言うんです」

 そうだね、とオーウェルは頷いた。リィリアの言葉によって、日々悪化していく状況と己の無力さに追い詰められていた心が、少し救われたような気がした。思い詰めた色が浮かんでいた顔は少し力が抜け、どことなく晴れやかなものへと変わっていた。

「ありがとう、リィリア」

「いえ、とんでもないです。わたしこそ、話を聞いていただいてありがとうございました。わたしがどれだけお役に立てるかはわからないですけど、それでも、明日からもまだ頑張れそうな気がしてきました」

 ならよかった、とオーウェルは握った手を離すと、ラピスラズリの指輪が嵌った右手の小指をリィリアへと差し出しながら、

「私で良ければ、いつだってリィリアの話を聞くよ。私は毎晩ここにいるから、何かあったら……いや、何もなかったとしても、いつでもここに来てくれていい。私はリィリアを待っているから」

 二人だけの約束だよ、とオーウェルはアイスブルーの双眸を甘やかに細めると、リィリアの小指に自分の指を絡めた。はい、とリィリアははにかむと、自分の指をオーウェルの指に絡め返した。

「さて、そろそろ戻ろうか」

 オーウェルは指を解くと、自分とリィリアの間に置かれた空のグラスを拾いながら立ち上がる。昼間のように、オーウェルはごく自然な所作でリィリアに手を貸して立ち上がらせると、

「夏とはいえ、あまり風に当たりすぎると風邪を引くよ。今日はそろそろ寝たほうがいい」

 テントまで送っていくよ、とオーウェルはリィリアの手を握ったまま、川を背に兵たちが起居するテントが立ち並ぶ方角へと歩き出した。

 当然のように手を引いてくれる貴公子然とした立ち居振る舞い。人が良さそうに整った、ほんのりとした甘さを感じさせる顔立ち。

(あ……オーウェル様って、本当に王子様なんだ……)

 こうして二人で歩いていることが急に特別なことのように思えて、リィリアは何だかどきどきした。気恥ずかしくてたまらないのに、半歩先を歩く整った横顔から目が離せなかった。

「リィリア、どうかした?」

 視線を感じたのか、オーウェルは訝しげな目を向ける。たじろいだリィリアの声が自然と早く高くなる。気づかれたという事実で耳が熱くなっていくのを感じる。

「な、何でもないです! 早く戻りましょう!」

「う、うん……? 皆寝ているから、静かにね」

 慌てふためくリィリアの様子にオーウェルは不思議そうにしていたが、特に何か追及してくることはなかった。

 オーウェルはリィリアの歩幅に合わせるようにゆっくりと歩を進めていく。月のない暗く広い紺碧の夜空が、静かに星の煌めきを散らしながら二人の姿を見送っていた。

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