第一章:決意の種は王都の夜空に
「――タネも仕掛けもございません」
手品の決まり文句を述べながら、リィリアは目の前の客の男へと赤いアマリリスの描かれたカードを手渡した。ほう、と男は封筒ほどの大きさのカードに視線を落とす。男の連れらしい女も食事の手を止め、カードを覗き込んでいる。
「それではよく見ていてくださいね。今からカードの中の花が、お客様の手の中に現れます」
いち、に、さん、と右手の指を立ててリィリアはカウントを刻む。彼女の左手が淡い金色の光を帯びるが、店内で揺れるシャンデリアの光に紛れて、二人の客は気づいた様子はない。
リィリアが左手でそっとカードに触れると、一瞬カードが金色に光った。はらりと男の手からカードが滑り落ち、代わりにカードに描かれていた一輪の花が現れる。
「おお……!」
「わあ……!」
男女二人の客は小さく歓声を上げる。リィリアは床に落ちたカードを拾い上げると、
「その花――アマリリスの花言葉は『輝くほどの美しさ』です。よろしければ、お連れ様に差し上げてくださいね」
「あ、ああ……」
リィリアに勧められるまま、男性客は連れの女性へとアマリリスの花を渡してやる。花を受け取った女性はもう、と照れたような顔をしていたが、満更でもなさそうだった。
男はリィリアに向き直ると、ポケットから銀貨を取り出して、
「ありがとう。面白いものを見せてもらったよ」
恐縮です、とリィリアは男から銀貨を受け取ると、
「ありがとうございました。お食事やお飲み物のご注文についても承っておりますので、何かあればお声がけくださいね」
黒いスカートの裾をつまみ、軽く礼をすると、リィリアはその場を後にした。
リィリアが働いているのは、ゼレンディア王国の王都ゼランにある酒場≪銀匙亭≫である。五年前、十二歳のときに両親と死別した彼女は、母方の叔父で、この銀匙亭のマスターであるフィーゴを頼って南方のティリス村から王都へと移り住んでいた。
酒の匂いと喧騒に包まれた店の中にさりげなく目を配りながら、リィリアはテーブルの間を歩いていく。顔を真っ赤にした中年の男性客からビールの追加の注文を受けたリィリアは、ついでに動線上の席から空いた料理の皿を回収して、マスターのいるカウンターへと戻っていった。
「マスター、ビールの追加をお願い」
口元に髭を蓄えた壮年の銀髪の男性へとリィリアが声をかけると、ああ、と彼――この店のマスターにしてリィリアの叔父であるフィーゴは頷いた。桶からよく冷えたビールの瓶を取り出すと彼はカウンターにそれを置いた。フィーゴはクリームチーズとハムが挟まれたサンドウィッチの皿をビールと一緒にリィリアのほうへと押しやりながら、
「それをついでに持っていってくれ。窓際の席のお客様のところだ。あと、奥の席の二人連れのお客様から”手品”のご注文があったぞ。軍人さんのようだから、粗相のないようにな」
「わかったわ」
慣れたふうにビールと皿を持つと、リィリアはカウンターのそばを離れた。ちらりと店の奥のほうへと視線をやると、うなじで緩く結わえた亜麻色の髪に透き通るようなアイスブルーの目の青年と、彼と同じくらいの年齢に見える茶褐色の髪に灰色の目の愛想に欠ける面差しの青年がワインの入ったグラスを手に談笑しているのが目に入った。仕立てのいい軍服を身に纏っていることから、二人ともおそらくは年齢の割には高い地位にある軍人なのだろうと思われた。
この店に地位が低い末端の兵士たちが訪れることは多いが、士官が来るとは珍しいこともあるものだと思いながら、リィリアは目の前の仕事に意識を引き戻す。ビールとサンドウィッチをそれぞれのテーブルに運んでいき、酔っ払って絡んできた客を適当にあしらうと、リィリアは自分の”手品”を所望したという軍人二人組のテーブルへと足を向けた。
「お待たせいたしました」
リィリアは軍人たちのテーブルの前へ立つと、黒地のスカートの裾を広げて一礼した。黒いカマーベストのポケットから青い蝶が描かれたカードを取り出すと、リィリアは手前にいた茶褐色の髪の青年へと渡した。茶褐色の髪の青年は、何か仕掛けが施されているとでも思っているのか、カードを矯めつ眇めつ眺めている。カードを具に観察する灰の双眸は険しく鋭く、リィリアはやりにくさを感じた。
「ディエス。そんなことをしていたら、彼女がやりづらいだろう? 私は彼女の手品を純粋に楽しみたい」
ディエスと呼ばれた茶褐色の髪の青年は、奥に座っていた亜麻色の髪の青年に嗜められ小さく頭を下げる。
「申し訳ありません、ウェル様」
続けてディエスはリィリアに視線をやると、すまない、と非礼を詫びた。
「とんでもありません」
リィリアは首を小さく横に振る。どうやら奥に座っているウェル様というのはこのディエスという男の上官かなにかのようだ、とリィリアは一瞬のうちに二人の力関係を理解した。そして、リィリアは仕切り直すようにこほん、と小さく咳払いをすると、
「さて、お客様がお持ちになっているこちらのカード。このカードにはタネも仕掛けもございません」
リィリアはいつものお決まりの述べ口上を口にしながら、ディエスの持つカードに左手を翳した。不審な点がないか探るように、ディエスの灰色の視線がちらちらとリィリアの手元を撫でていく。纏わりついてくる視線をリィリアは少し気持ち悪く思ったが、客商売に慣れた彼女はそれを表情に出しはしない。変な客は極力相手にせず、さっさと仕事を済ませてしまうに限る。
「これからそのカードから蝶が出てきます。よく見ていてくださいね。――いち、に、さん」
嫌な緊張感に数の分だけ伸ばした右手の指先が震えた。左手にまとわりついた光の粒子が小刻みに揺れる。早くこの場から逃げたい、と内心で思いながら、リィリアはディエスの持ったカードに触れる。
カードが金色の光を帯び、リィリアの指の間をふわりと軽い感触がすり抜けていった。
「……いかがでしたでしょうか」
そう言ったリィリアの視界では、青いアゲハチョウがひらひらと舞っていた。上へ下へとでたらめに飛び回る、危なっかしくも美しい蝶の舞を目にしたウェルは品の良い顔に興味深そうな表情を浮かべ、感嘆の声を漏らしている。
「……ふむ」
対するディエスは片眉を微かに上げはしたものの、表情を変えることなく、真っ白になったカードと頭上を舞う蝶を見比べている。
「いいものを見せてもらったよ。素敵な手品だった」
育ちがいいのか、貴公子然とした穏やかで柔らかい笑みを浮かべながら、ウェルは今しがたの手品についての感想をリィリアへ伝えてくる。カードに不審な点を見つけられなかったらしいディエスが舐めるような不躾な視線をぶつけてくるのを嫌だなと思いながらも、リィリアはありがとうございますとウェルに微笑み返す。
「ディエス、駄目だろう? 女性をそんなふうに見ては失礼だ」
ディエスがリィリアに向ける視線に気づいたらしく、ウェルが彼を咎める。申し訳ない、とウェルはディエスの代わりにリィリアに頭を下げながら、
「私の部下が失礼をした。後できっちり言い聞かせておくので、私に免じて許していただけないだろうか」
「は、はあ……」
ウェルの真摯な態度にリィリアは毒気を抜かれた。リィリアがぽかんとしていると、ウェルは軍服のポケットから金貨を何枚か取り出し、彼女の手に握らせた。
リィリアが手のひらを開くと、金貨が五枚も乗っていた。驚愕のあまり、リィリアは思わず声を上げた。
「えっ……こんなにいただけません!」
リィリアは金貨をウェルに返そうとした。しかし、ウェルはリィリアをやんわりと押し留めると、
「素敵な手品を見せてもらったんだから、その対価は必要だ。それにこれはディエスがあなたに嫌な思いをさせたことに対するお詫びも含まれている。どうか、気にせず受け取ってくれると嬉しいな」
言い返す言葉を見つけられずに、う、とリィリアは言葉を詰まらせた。それでもリィリアはこれだけの金額を受け取る気になれなくて、そっと金貨をウェルの手へと押し戻した。
「お心遣いいただき恐縮です。それでも、こんなに受け取るわけにはいきません。申し訳ありません」
それでは失礼いたします、とリィリアは早口に会話を切り上げる。黒いスカートの裾を摘み、片膝を折ると、リィリアは踵を返した。
ウェルたちのテーブルの上を舞っていたはずの青い蝶はいつの間にか姿を消していた。
「ウェル様。先ほどの娘の手品、どう思われますか?」
リィリアが立ち去った後、ディエスはリエットの乗ったバケットに手を伸ばすふりをしながら、向かいに座るウェルへと話しかけた。ウェルは薄紅色のワインの香りを優雅に嗅覚で味わいながら、
「そうだね。私は素晴らしいと思ったよ」
「そういうことではなく……」
ディエスははあ、と溜息をついた。ウェルはワインを一口口に含み、「ん……」口の中で転がして堪能すると、
「まあ、ディエスの言う通り、十中八九あれは手品などではないだろうね」
「はい。こうして間近で確認しましたが、タネなど存在しないように見えました。それに、ウェル様はお気づきですか? あの娘の手が微かに光っていたことに」
「ああ。彼女の手によって、一時的とはいえ、カードの中の蝶が実体を持ったように私には見えた。なんというか……かの女神フリティラリアの御業をこの目で見てしまったのかと思ったよ」
「建国神話の、ですか。言い得て妙ではありますが、おそらくあの娘にはそこまでの力はないでしょう。先ほどの蝶も、あの娘がいなくなったときには消えていましたし」
「消えた?」
ウェルは驚いたように目の前のディエスを見た。
「どこかに飛んでいってしまったわけではないのか?」
いえ、とディエスは首を横に振ると、ウェルの言葉を否定する。
「俺は、あの蝶が金色の粒子となって消えていくのをこの目で見ました。いなくなったのではなく、消えたのです。理由はわかりませんが、あの娘の力には何か制限があるのでしょう」
ウェルはワイングラスをテーブルの上に置くと、指を組む。穏やかで人の良さそうな顔がどこか険しい。
「そこまで予想がついていて、君はどうするつもりだ、ディエス」
「俺の意見は変わりません。此度の戦、我が国はこのままではジリ貧です。あの娘の力を上手いこと軍事転用できれば、ウィザル帝国側の意表を突くこともできるのではないかと」
「……具体的な策があって言っているのだろうね?」
それは、とディエスは気まずげに灰色の目を伏せる。
「具体的な点はまだ。どのみち、彼女の力の持つ可能性については、ルーヴァ辺りにでも詳しいことを調べさせなければ、何とも言えません。それに、そういったことを考えるのは俺のような一介の将ではなく、総司令官殿の仕事では?」
苦々しげにウェルは溜息をつく。彼は皿の上に放射状に広げて置いていたフォークとナイフを揃えて置き直すと、
「話にならない。そのような状態で、ただの一般人である彼女を巻き込むべきではないだろう。私は反対だ」
「しかし……」
「この話はこれで終わりだ」
なおも言い募ろうとするディエスの言葉を遮り、少し強引にウェルは話を終わらせた。ウェルは軍服のポケットから金貨を取り出すと、テーブルの隅に置き、席を立つ。
「帰ろう、ディエス」
「……承知しました」
ウェルに促されて、ディエスも席を立った。ディエスはウェルの後について、出口へ向かってテーブルの間を歩きながら、店の中で忙しそうに立ち働く少女へと視線を向ける。ディエスはウェルとこの国のために、どうしても彼女を諦める気になれなかった。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
マスターらしき中年の男の声が背後から追いかけてくる。がちゃり、と銀のスプーンを模したドア飾りのついたドアが閉まると、店の中の喧騒からディエスの聴覚は切り離された。
幾望の月が南東の空の高い位置に達しかけている。おそらくはこの酒場の閉店時間も間もなくだろう。
「ディエス? どうかしたのか?」
少し先を歩いていたウェルが、ディエスがついてきていないことに気づいて訝しむように振り返った。
「何でもありません。今行きます、ウェル様」
リィリアのことを諦めきれないことを押し隠し、ディエスはウェルの背を追って素知らぬ顔で歩き始めた。
月明かりを浴びて、ドア飾りの二本の匙が清らかで控えめな輝きを放っていた。
「リィリア、ちょっと」
閉店時間を過ぎ、酔い潰れた客を追い出してテーブルの後片付けをしていたとき、リィリアはフィーゴに声をかけられた。はい、と返事をすると、リィリアは木のテーブルを布巾で拭く手を止める。
「フィーゴおじさん、どうしたんですか?」
リィリアが首を傾げると、フィーゴはカウンターの奥の厨房の中へと彼女を誘った。もう客はいないとはいえ、万が一にも人に聞かれたくない話のようだった。
「何か、わたしに関して苦情でもありましたか? わたしとしては、お客様に粗相を働くような真似はした覚えはありませんけど……」
そうじゃない、とフィーゴは顔の前でぱたぱたと手を振って、リィリアの言葉を否定する。それよりも、とその後にフィーゴが切り出した内容は、斜め上なようでもあり、予想の範疇でもあるようなものだった。
「お前の”手品”を所望された軍人のお客様を覚えているか?」
「ええ、まあ……」
リィリアは曖昧に頷く。ウェルという男の方は紳士的な好人物だったが、もう一人のディエスというほうは何だか嫌な感じのする人物だった。
「それが、何か……?」
不審げにリィリアが尋ねると、フィーゴはごほんと思わせぶりに咳払いをした。
「その、なんだ。お前のことを先ほどの軍人のお客様がいたく気に入られてな。折りいってお前と話がしたいと仰っておられる」
「わたしと、話……?」
リィリアは顔に乗せた不審の色を深める。話といっても、内容が皆目見当がつかない。それにウェルはともかくディエスはできれば関わり合いになりたくない人種だ。何か角の立たない言葉でやんわりと断ろうとリィリアが口を開きかけたとき、すっとフィーゴの言葉が差し込まれた。
「ちなみにお客様はそこの勝手口の外でお待ちだ。男性に恥をかかせるものではない。どういったご用向きかは知らないが、話くらいは伺ってきなさい」
暗に拒否権はないとフィーゴに告げられ、リィリアは肩をすくめた。腰に巻いたダイナーエプロンの紐を解くと、リィリアは汚れた布巾と一緒にフィーゴに押し付ける。
「……わかったわ。行ってくる」
「ああ。大丈夫だとは思うが、もし乱暴なことでもされそうになったら俺を呼ぶんだぞ」
うん、と頷くと、リィリアは滑らないように足元に注意を払いながら、油でぎとぎとに汚れた厨房を抜けていく。彼女は裏口の扉を開くと、外へ出た。
小望月がほとんど真上に達しかけていた。夏の夜空を彩る涼やかな星の光を浴びながら、店の外壁にもたれかかるようにして、茶褐色の髪の男が両腕を組んで立っていた。ディエスだった。
「来たか。リィリア・ユーティスだな?」
ディエスは裏口から出てきたリィリアの姿を認めるとそう言った。彼は品定めをするかのようにリィリアへ冷厳な灰の視線を向ける。顔、首筋、胸元、腕、腰回り――頭の天辺から下へと下りていくその視線にぞっとして、リィリアは腕で自分の体を抱く。「……そうですけれど」叔父を呼んできたほうがいいだろうかと警戒しながらも、リィリアは、ディエスの問いに頷いた。
「……失礼ですが、どこでわたしの名前を?」
「あなたの名前については、マスターから伺った。申し遅れたが、俺は北東方面軍ゲーニウス師団所属のディエス・モーフェルトという」
リィリアが暮らすゼレンディア王国は現在、北東の国境を接するウィザル帝国と戦火を交えている。この戦争でウィザル帝国の軍隊を相手取って戦っているのが北東方面軍だった。
戦況は芳しくない。国境近くのエディタント城砦がウィザル帝国の手に落ち、北東方面軍はイハーヴ
そんな状況下で、一体自分なんかに軍人が何の用なのだろうと訝しみながらも、リィリアは本題を切り出した。
「それで、ディエスさんから、何かお話があるとマスターから伺っておりますが、どういったご用件でしょうか?」
「単刀直入に言う。我が軍とともに来て、皆を支える力となってくれないか? あなたのような
「なっ……!」
ディエスの言葉にリィリアは鼻白んだ。顔や体を値踏みするように見ていた意味を理解し、顔が赤くなり、眦が吊り上がっていくのを感じる。
迂遠な言い回しを選んでこそいるが、つまるところ、ディエスが言っているのは従軍して兵士たちの欲望の捌け口として慰み者になれということである。若い娘であるリィリアにとって、それはこの上なく屈辱的な話だった。
「そういったお話でしたら、他を当たっていただけますか!? 軍人の方々の公娼なんて、お断りさせていただきます!」
リィリアは怒りで唇を戦慄かせながらも毅然として言い返す。え、とリィリアの反応が意外だったのか、ディエスは驚いたように感情の薄い灰色の双眸を瞬かせる。
そのとき、銀匙亭の前の路地に足音が響いた。空から降り注ぐ白い月の光が、二人のすぐそばに人間のシルエットを浮かび上がらせる。
「……見つけた。やっぱりここだったね」
その声は先程、ディエスとともに居たウェルのものだった。彼を振り返ったディエスの顔に、うっすらと焦りの色が浮かぶ。
「ウェル様……何故ここに。先にお戻りになられたはずでは?」
ウェルはやれやれと肩を竦める。穏やかそうなアイスブルーの双眸には、己の部下の勝手な行動に対する辟易が滲んでいる。
「店に忘れ物をしたなどと言うから、何だか妙だと思ってね。それで、ディエスの後を追って戻ってきてみれば、やっぱりこんなことになっているじゃないか」
「……俺は相変わらず、ウェル様には隠しごとができないようですね」
「当たり前だろう。一体、何年の付き合いになると思っているんだ」
ウェルは呆れたように言うと、リィリアへ向き直り、頭を深く下げた。「ウェル様が、平民の娘相手に何もそこまでなさらなくても……」ディエスから不満の声が漏れるが、ウェルは彼を手で制して黙らせる。
「先程に引き続き、私の部下が不快な思いをさせてしまったようで、本当に申し訳ない。
ただ、弁解をさせていただけるのなら、ディエスは決して、あなたに軍の公娼になってほしくてあのようなことを言ったわけではないんだ。彼の言葉が足りずに申し訳なかったが、私たちが必要としているのはあなたのその”手品”の力なんだ」
「は……?」
リィリアは顔をこわばらせた。己の早とちりに気づき、顔色がすっと引いていく。ああ、と補足をしてくれたウェルの言葉に肯定の意を示すと、ディエスはリィリアの様子を特に気に留めた様子もなく、話を続けていく。
「先ほどの”手品”。随分と見事な手際だった。職業柄、相手の攻撃や間合いを読むことには慣れているが、あなたの”手品”は俺の目をもってしても、まったく仕掛けがわからなかった」
「それは……どうも……」
先ほどの勘違いもあり、気まずさでリィリアの語尾が尻すぼみになる。ディエスの言葉も純粋に自分の”手品”を讃美するだけのものには聞こえず、リィリアは己の腰が引けていくのを感じた。
「……ディエス」
警戒されてしまっているじゃないか、とウェルは連れの青年へとため息をつく。ごめんねとウェルは苦笑をおどおどとするリィリアへと向けると、彼女の”手品”の核心へと触れてきた。
「ところで、リィリア嬢。あなたのそれは”手品”ではないよね? おそらくは”手品”とは違うある種の異能ではないかと、私とディエスは思っているのだけれど」
「なんで……」
動揺で声が掠れた。自分の”手品”の正体を見破れた人など、今までにいなかった。この人たちは”手品”についての真相を見抜いた上でどうするつもりなのだろう。
リィリアはなけなしの勇気をかき集め、高い位置にあるアイスブルーと灰の四つの瞳へ順に視線を巡らせると、
「それを知ってどうするつもりなんですか? 手品と称して不正行為を行なっている店として、王国法で裁きますか? それとも、この事実を盾に無理矢理わたしを戦場に連れていくつもりなんですか?」
そんなつもりはないよ、とウェルはリィリアの言葉を否定した。
「そのような王国軍人の名に恥じるような真似をするつもりは私にはないよ。ただ……まずは、私たちの話を聞いてはくれないだろうか?」
「……はい」
渋々リィリアは頷いた。ライラックの瞳にはまだ動揺と警戒の色が滲んでいる。そんなことを気にしたふうもなく、ディエスは口を開いた。
「あなたには合意の上で我が軍と一緒に来ていただきたいと思っている。
此度のウィザル帝国との戦争、戦況が芳しくないことは一市民のあなたでも知っているだろう? あなたの力を軍事転用できれば、この戦争を我が国に有利な形で早期に終結させることもできるかもしれない。俺たちに力を貸してくれないだろうか?」
リィリアを見るディエスの目はひどく真摯だった。リィリアからしてみればディエスは少し嫌な感じのする失礼な人ではあったが、国や戦争の行く末を真剣に案じているのだということだけは理解できた。ふぅ、と仕方なげにリィリアは溜息を吐くと、
「……それで、お二人はわたしに何をして欲しいんですか? わたしは武器を持って戦えるわけじゃないですし、かといって前線まで行って兵士の皆さんに”手品”を見せて欲しいというわけでもなさそうですし」
「今、イハーヴ
国のための実験動物になれということだろうか、とディエスの言葉にリィリアは困惑する。しかし、今はこうして普通に暮らせてはいても、ウェザル帝国による侵攻が進めば、この王都だっていつ戦火に包まれるかわかったものではない。
国と国の問題だとか、そういう大それたことはわからないけれど、リィリアとて自分たちの今の暮らしを守りたい気持ちはある。けれど、少し変わった力を持つだけの一介の街酒場の店員で手品師の自分に何ができるとも思えなかった。
「ディエス、やはり彼女は困っているだろう? だから、私はただの平民の女の子である彼女を巻き込むのは反対だったんだ。今からでも、この話はなかったことに……」
いえ、とウェルの言葉を遮ったのはリィリアの声だった。
「少し、考えさせてください」
どう返事をするにしろ、今は考える時間が欲しかった。このような話、即断即決できるものではない。
リィリアの反応が意外なものだったのか、ウェルはアイスブルーの目を見開いた。
「考えるだけです。まだ、お二人と一緒に行くとは言っていません」
リィリアはそう言ったが、構わないよ、とウェルはかぶりを振った。すうっと、夜風に雲が流されていく。ふわりと月明かりが照らし出した彼の顔にはリィリアのことを案じる気持ちとわずかな期待が綯い交ぜになって浮かんでいた。
「それでも、考えてくれるというだけで、私たちとしてはありがたい」
ああ、とウェルの言葉にディエスは同意を示す。そして、彼はリィリアへ向かってこう言った。
「三日後の朝にもう一度来る。それまでに今の話の返事を考えておいてほしい」
色よい返事を期待している、と言い添えるとディエスは踵を返した。こつこつという軍靴の音が次第に遠ざかっていく。
「無理なことを言ってしまって申し訳ない。できることなら、あなたから今の暮らしを取り上げるようなことはしたくないけれど、私だってもしかしたらとは思わないわけではないんだ。嫌だったら嫌だと言ってくれて構わない。だけど、今の話、一度考えてみてほしいんだ」
「わかり、ました」
そう言った自分の声がどこか現実のものではないようにリィリアには感じられた。自分の力が戦争を終結させるための役に立つかもしれないなどと言われ、軍に誘われるなど、どう考えても現実の出来事だとは信じがたい。
それでは私も失礼するよ、とウェルは踵を巡らせた。ディエスの後を追いかける靴音がだんだんと小さくなっていく。
どうしよう、とリィリアは長い黒髪を掻き毟った。懊悩する彼女を白い月の光が照らしている。
多くの人々が寝静まった王都の空で、宵っ張りの鳥たちが透き通った声でキョキョと穏やかな子守唄を奏でていた。
◆◆◆
ウェルとディエスが銀匙亭を訪れてから二日が経っていた。翌朝にはディエスが先日の答えを聞きにくるというのに、リィリアは未だにどうするべきか答えを出せずにいた。
ドレスのように花びらが艶やかな赤いスイートピーを見つめながら、リィリアは溜息をついた。息抜きと翌日の手品の仕込みを兼ねて、店に飾ってあったこれをもらってきたのだが、どうにも筆が進まない。
ぽた、ぽた、と紙の上に赤い雫が滴り落ちた。「あ」貴重な紙を駄目にしてしまったことに自己嫌悪を覚えつつ、リィリアはパレットの上に筆を置いた。今夜は絵を描こうにも、どうにも集中できそうになかった。
はあ、と溜息をつくと、リィリアは立ち上がって窓を開けた。眼下では街灯の小さな炎が揺れ、ふんわりと王都の街並みを照らしている。
(わたし……どうしたらいいんだろう。どうしたいんだろう)
軍に誘われた事情については、叔父のフィーゴには話をしてある。フィーゴは後悔しないように自分の納得がいくまでよく考えるようにとリィリアを諭した。
戦争は怖い。大切なものが何もかも壊され、なくなってしまう。リィリアはそのことを身をもってよく知っていた。
リィリアはあの日の出来事に思いを馳せ、眠りの静寂が降りた真下の路地へと視線を落とした。
◆◆◆
リィリアが生まれ育ったティリス村がルフナ軍に攻め込まれたのは、彼女が十二歳の秋の初めのことだった。農作業をするにはまだ少し暑いが、秋声を運ぶ風が爽やかな日のことだった。
秋は麦の種まきの季節だ。夏の間は野菜を育てていた畑に石灰を撒いて土を馴染ませたり、麦が病気にならないように種を湯で消毒したりとこの時期にはやることがたくさんある。その日のリィリアは村の大人たちを手伝って、石灰を撒いた後の畑を耕していた。
リィリアが額に汗を滲ませ、同じ村に住む友人と他愛もない話に花を咲かせながらスコップで畝を立てていると、どこからともなく風切り音が響いた。
「……え?」
畑から視線を上げると、村の家々に火矢が突き立っていた。一体なぜ、そんな思いが頭を走り抜けていく。早く火を消さないと、と思うのに、目の前の非日常の出来事に身体が動かなかった。
すぐ隣でどん、という重い音が響いた。ばたんと何かが倒れる音がする。からん、とスコップが転がり落ちる音がする。
「ミュレ……?」
つい数秒前まで一緒に話をしながら作業をしていた少女の身体から矢が飛び出し、背後から地面に縫い留められていた。心臓を貫かれて絶命しているのか、血溜まりの中に倒れる少女の身体はぴくりとも動かない。
村の入り口の方からドドドという複数の馬の足音がした。鞍上には弓や槍、剣など思い思いの武器を携えた兵士が乗っていた。
鞍上の兵士の鎧に刻まれた紋章に気がつくと、リィリアは愕然として紫色の目を見開いた。飛ぶ鳥と蛮刀のこの意匠は、現在戦火を交えている南隣のルフナ国のものだった。
海に面したルフナ国の港を欲したゼレンディア王国が彼の国に戦争を仕掛けたということはまだ子供のリィリアも知ってはいた。最初はゼレンディア王国側が善戦していたものの、次第にルフナ国側によって戦線を押し返されてきているらしいことも大人たちから聞かされてはいた。
しかし、ティリス村は国境から近いとはいえ、戦争をしているという実感は薄く、リィリアにとっては他人事のように遠い出来事でしかなかった。まさか自分が暮らしている村が戦場になるなど、リィリアは思ってもいなかった。
「女子供は隠れろ! 男はなんでもいいから武器を持て! ルフナの奴らを村から追い出すんだ!」
ルフナ軍を迎え討つべく指揮を取る村長の声が響く。応、と男たちは返事をすると、農作業に使用していた鍬やスコップを手に駆け出していく。
たった今まで一緒に畑仕事をしていた村の女たちは我先にと逃げ出していく。必死の形相で次々とリィリアの脇を走り抜けていく女たちの姿が、呆然と見開かれた彼女の視界を横切っていった。
「馬に踏み潰されたらひとたまりもない! 馬から引き摺り下ろして、二人か三人で囲んで戦うんだ!」
村長は自身も鍬を構えながら、男たちへと指示を出す。現実感なく、男たちが戦い始める様子をリィリアがぼんやりと眺めていると、土で汚れた女の手が彼女の腕を引いた。
「リィリア! 早くこっちに来るのよ!」
銀髪をうなじで結えた中年の女が必死な目でリィリアを見ていた。彼女の母親のシテナだった。
「お母さん……ミュレが……っ」
同い年の少女の亡骸を指差すリィリアの肩をシテナはきつく抱くと、半ば連行するようにして歩き出す。
「諦めなさい。諦めるしかないの。今は自分の身を守ることを第一に考えなさい。それが……戦争だから」
「でも……っ!」
聞き分け悪く嫌々をする娘の頬をシテナは平手で打った。呆然として、リィリアは母親と同じ紫の目で彼女の顔を見上げた。シテナの眦には辛さと涙が滲んでいる。
「聞き分けて……! お願いだから……! 女は捕まれば、娼館に売り飛ばされるか、この場で犯されて殺されるかのどちらかなのよ! お母さんはリィリアをそんな目に遭わせたくはない!」
シテナの必死な形相と言葉に、目の前の状況にまだ現実感を持てないながらもリィリアはわかったと頷いた。リィリアはシテナに肩を抱かれ、急ぎ足でその場を後にした。
村の家々には次々と火が放たれていて、隠れるには危険だった。そのため、リィリアとシテナは、戦争が始まったころに村の男衆が申し訳程度に作った塹壕へと向かっていた。
炎に巻かれた家と家の間を抜け、たまに飛んでくる矢をどうにか躱しながら、二人は村の中を逃げる。這々の体で二人が塹壕の中へと辿り着くと、そこには地獄絵図が広がっていた。
「なん、で……」
そう呟いた声がリィリアには自分の声ではないように聞こえた。あまりの光景に、受け入れることを脳が拒否している。
村の女たちはリィリアとシテナと同じように考えて、この塹壕に逃げ込んだのだろう。しかし、それを読み切っていた敵がここで待ち構えていて、彼女たちを蹂躙し、嬲り殺したのだと思われた。その推測の正しさを着衣の乱れた血まみれの女たちの屍が物語っている。
「リィリア! 逃げなさい! 村の外に逃げるのよ!」
そう叫ぶとシテナはリィリアの身体を突き飛ばす。「え、ちょっと、お母さん!」リィリアは地面に強かに身体を打ちつける。
リィリアが身体を起こすと、ルフナ国の紋章のついた鎧に身を包んだ二人の男にシテナの身体は組み敷かれていた。
びりり、と音を立ててシテナの服の襟元が乱暴に破られ、白い双丘が露わになる。男はシテナの柔肌に手を伸ばし、胸を、腰を、秘部をめちゃくちゃに弄んでいく。
もう一人の男はかちゃかちゃとベルトを外すと、自分のズボンを膝まで下ろしていく。リィリアの知らない男の局部が露出され、母の下の肌着が乱暴に剥ぎ取られる。これまで抽象的にしか理解していなかった、戦争における女の命運についての理解が唐突に克明になっていくのをリィリアは感じた。あまりの恐ろしさにリィリアは自分の身体を掻き抱いた。
「リィリア! 早く!」
悍ましいものを下腹部に押し当てられ、屈辱に顔を歪めながらもシテナはリィリアに早く逃げるように促す。
「ちっ、うるせえババアだな。萎える」
今まさにその行為を致そうとしていた男は舌打ちすると、槍をシテナの口へと突き入れた。
「うぐあっ……」
そうえずいたのを最後にシテナは絶命した。硬口蓋と上顎、脳を突き破り、槍の刃先が後頭部から顔を出している。
「いっ……いやっ……」
リィリアは喉の奥で引き攣った悲鳴を上げた。あまりにあっさりと人が死ぬのを短時間で見せられ続けて、感情がおかしくなってしまいそうだった。
「あーあ、楽しむ前に殺しやがって」
「別にこんなババア、生きてても死んでても同じだろ。文句があるならそっちのガキでヤっとけよ」
「俺、ガキは好みじゃねえんだよなあ。出るとこ出てないとそそらねえ」
シテナの屍を犯しながら、品性の欠片もない会話を交わし合って二人の男はげらげらと笑う。シテナの体をまさぐっていた男の手が自分の方に伸びてくると、リィリアはその手を思い切り払いのける。
自分の手元で響いたパンという乾いた擦過音に我に返ると、リィリアはその場を逃げ出した。
村の中には村人と敵兵が折り重なって倒れていた。むっとした臭いを放つ血の色が地面を、燃え盛る炎の色が大気を赤々と染め上げていた。
リィリアが見知った村の男たちは皆絶命していた。どうしてこんなことに、とでも言いたげな目は皆一様に虚空へと向けられ、命の光が失われていた。
物資の
髪や服、皮膚が焦げるのを感じながら、リィリアは必死で村を囲む外壁へと向かって走った。門はルフナ兵に押さえられているだろうから、それ以外の場所から逃げるほかない。
住み慣れた景色が炎に巻かれて灰へと変わっていく。日常を営んできた土壌に流れた血が染み込んでいく。人々の暮らしが営まれていた家々が、ルフナ兵たちによって壊されていく。
焼けた建物から漂ってくる煙が目に染みる。涙で滲む視界の端、リィリアは折り重なった死体の山の下に父親が着ていた服の布地を見た。
(ああ……お父さんも、殺されちゃったんだ……。お母さんも、ミュレも、村長さんも、みんなみんな、ルフナの人たちに殺されちゃった……)
今までリィリアにとって当たり前だったものたちはもうここにはない。人も、物も、景色も何一つとして昨日までと同じものなど残されていなかった。
村の隅にある燃え盛る礼拝堂まで来ると、リィリアは建物の裏手へと回った。秋風に煽られた熱気に喉が灼かれ、痛みと渇きを訴えた。
リィリアは石でできた外壁の隙間に指を立てると、体を持ち上げる。ジュッと音を立てて、指先が焼け爛れ、べろりと皮が剥ける。外壁に触れた手のひらには一瞬のうちに大きな白い水ぶくれができていた。
手の痛みにも構わずに、リィリアは外壁の上へとよじ登った。最後に見た炎煙に包まれた村の景色は普段の呑気さなど見る影もなく、リィリアは焦げと土で汚れた服の袖で目元を拭った。
熱風が焼けこげたリィリアの長い黒髪を靡かせる。リィリアは最後に村に一瞥をくれると、外壁の向こう側へと飛び降りた。
いつの間にか西の空が黄昏の色に染まっていた。その赤さは血や炎の色に似ていると思いながら、リィリアは村を背に足早に歩き出した。
◆◆◆
(もう……あんな思いはしたくないな)
リィリアはライラックの瞳を伏せた。このままでは、この王都でまた同じような思いをするかもしれない。誰かが、五年前の自分と同じような思いをするかもしれない。
五年前の自分は、ただ何もできずに逃げることしかできなかった。しかし、もし、自分の生まれ持ったこの力で、あのような未来を回避できるとしたらどうだろうか。
(戦場は怖いけど……わたしが行く意味はあるのかもしれない)
脳裏をよぎった思考に、リィリアははっとして顔を上げた。今のは紛れもない自分の本心だった。
(……決めた。わたしはあの人たちと一緒に行く)
リィリアは、机の引き出しから白の便箋と封筒、ペンとインクを取り出すと、椅子に腰掛けた。ペン先をブルーブラックのインクの壺に浸すと、机の上に広げた便箋へとペンを走らせ始めた。
形式張った時候の挨拶に始まり、リィリアは整った読みやすい文字で、先日の話を引き受け、従軍する旨を書き綴っていった。ペン先からは、自分の過去の経験と同じことを繰り返させたくないという決意と熱意が紡がれていく。
文末に結語を書き記すと、リィリアはペンを机に置いた。便箋を四つ折りにし、封筒に入れると、白い百合のあしらわれた封蝋で封筒を閉じた。
リィリアはペンとインクを机の引き出しにしまうと立ち上がった。この気持ちが冷めやらぬうちに、ディエスの訪問に先立って、明日の朝一番に王国軍の詰所へとこの手紙を届けに行こうとリィリアは思った。
従軍するとなれば、必要なものをまとめなくてはならない。それよりも先に自分の決意を叔父のフィーゴに話さねばならないと、リィリアは自分の部屋を出た。
机の上では彼女の門出を見守るように、夏咲きの赤いスイートピーがその背を見送っている。開けたままの窓からは既望の月の涼やかな光が差し込んできていた。
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