戦乙女は絵筆を執る
七森香歌
プロローグ:クチナシの花が咲く春に
早い春が過ぎ、風が若葉の香りを運ぶ季節が村を訪れていた。夏の片鱗を見せ始めた青陽が、収穫を控えた麦畑を力強く照らしている。
小高い丘の上で、国境の向こうから流れてくる南の風で風車の大きな羽が回っていた。その音の間を縫うようにして、春の使いたちの軽やかな歌声が響く。
ラベンダー色のリボンで結えた黒の髪を風に靡かせながら、村一帯を見渡せる丘を一人の幼い少女が登っていた。左手には大きなスケッチブックを、右手にはクレヨンの入った箱を抱えている。
今日は少女の父親の誕生日だった。少女は父親への贈り物を用意するために、夕方まで絵を描いて過ごすつもりだった。
少女は風車小屋の脇にクチナシの茂みを見つけると、その前に座り込み、クレヨンの箱を地面に置く。つき始めたばかりの蕾はまだ青く固く、まだ花が咲く様子はない。
少女は小さな花の意匠があしらわれた薄桃色のワンピースの膝の上にスケッチブックを広げた。脇に置いた小さな紙箱の蓋を開くと、この花の少し未来の姿を脳裏に思い描きながら、クレヨンを空白のページに走らせ始めた。
少女は絵が好きだった。その筆致はまだ五歳の子供とは思えないほど巧みで、既にその才能の片鱗が垣間見えていた。
少女の家はさして裕福ではない。しかし、まだ幼い愛娘の特技を伸ばすため、両親はどうにか金を工面して、ことあるごとに彼女に画材を贈ってくれた。今、彼女が使っているクレヨンもそうして両親が贈ってくれたものの一つだった。
数多の清楚な白色の花びらがひしめき合う花冠。裏へとそり返った葉は青く瑞々しく、茎はすっと真っ直ぐに伸びている。スケッチブックに描かれたその花からは今にも甘く濃厚な匂いが香ってきそうだった。
少女は左手に持ったクレヨンを動かし続け、何本ものクチナシを描いていく。スケッチブックのページが白い花に埋め尽くされると、少女は手を止める。少し考える素振りをみせると、少女は茎を束ねるリボンを描き足した。そのリボンの色はこの季節を思わせる爽やかな蒼穹と同じ色で、少女の父親の目と同じ色だった。
少女はライラックの瞳で描き上がった絵を満足げに眺めると、スケッチブックを閉じた。クレヨンを紙箱の中に片付けると、少女は立ち上がった。
丘の上から空を降り仰ぐと、東の地平線がうっすらと朱に染まり始めていた。少女はスケッチブックとクレヨンの箱を抱え持つと、西へと傾き始めた暮春の日差しを背に丘を降り始めた。
少女の母親が腕によりをかけて作ったその日の夕飯はいつもより少しだけ豪華だった。
よく煮込んだ肉がほろほろとして美味しいシチュー。そら豆やアスパラガスの入った春野菜のキッシュ。春の野に咲くミモザを思わせる華やかなサラダ。茹でた腸詰や芋の上に溶けたチーズがたっぷりとかけられたラクレット。
ささやかなご馳走を平らげ、テーブルの上に空の皿が並ぶようになったころ、少女は席を立ち、寝室の奥からスケッチブックを引っ張り出してきた。
クチナシの花束が描かれたページを開くと、少女は紙の上に左手を翳した。
少女の手が金色の粒子を纏って光を放ち始める。少女が指先で絵に手を触れると、花の輪郭が光と同じ色を帯びて輝き始めた。
花の絵を取り巻く金色の光が宙へと浮かび上がる。パァン、と光が弾けた直後、少女の手の中には絵と同じ大きさのままの白いクチナシの花束が現れていた。スケッチブックのページからは花の絵が消え、筆跡ひとつ残されていなかった。
少女の左手には、生まれつき不思議な能力が備わっていた。この国の建国神話に登場する創造の女神フリティラリアのように、絵画に描かれた物に実体を与えることができる力を少女は行使することが出来た。その稀有な能力を少女の両親は気味悪がることなく、絵の才能と同様に良い方向に伸ばしていけるようにと、優しく見守っていた。
少女はダイニングへと取って返すと、腕の中の花束を父親へと差し出した。少女ははにかんだような笑みを浮かべると、
「おとうさん、おたんじょうびおめでとう」
「ありがとう。リィリアのおかげで、今日のお父さんは世界一幸せだよ」
少女から白い花束を受け取った父親は青い目を細めた。父親は低いところにある娘の頭を愛おしそうに撫でてやりながら、
「リィリア、いいかい? その力はとても素晴らしいものだよ。女神フリティラリアからの贈り物だ。
だけど、力というのは使い方を間違えれば、誰かを傷つけ、不幸にしてしまうこともある。だから、その力は誰かを傷つけるためじゃなく、幸せにするために使うんだ」
約束できるかい、と父親は幼い娘に小指を差し出した。うん、とリィリアは無邪気に頷くと父親の指に自分の小さな小指を絡めた。
「おとうさんだいすき!」
リィリアは父親の膝によじ登ると、胸へと顔を埋める。父親の手の中に確かに実体を持って存在していたはずのクチナシの花束が金色の光の粒子となってほどけていく。
きらきらとした光の残滓を残して、白い花束の姿は温かなランプの炎が揺れる食卓の空気の中へと溶けていった。ほのかに漂う甘い残り香だけが、少し前まで確かに花束がそこに存在していたことを物語っていた。
こうして、日常の中のほんの少し特別な夜は、親子三人の笑い合う声に包まれながら、穏やかに過ぎていった。
窓の外の春宵の空では、朧月がふんわりと優しげな光を放っていた。
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