恋愛と夢
「どうぞ、粗茶ですが」
「粗茶っていうか水ですよねコレ」
悩みを聞くと言われ氷星さんの家に上がった後、久しぶりのお客さんだ、なんて言われながら僕の目の前に出されたのは紛れもない東京の蛇口から出る水道水だった。
「ごめんごめん、冗談だってー。今ちゃんとしたの用意するから、何がいいかな?」
「まあ別に水でもいいですけど僕は……それじゃあジュースとかあります? なかったらお茶でもいいです」
okと返事をした後、氷星さんは冷蔵庫の方へと向かっていき、中を物色し始めた。
その様子を横目に、僕は氷星さんの部屋を見渡す。間取りとしては──同じアパートだから当たり前なのだが──僕の部屋と同じであるのに、氷星さんの部屋は僕のと随分違って見えた。
投げ捨てられた発泡酒の空き缶に、放り出された下着、大量に積み重なっている書類の束。一応本棚はあるのだが、漫画や小説から雑誌まで様々なものが混雑しており、というかまともに縦に並べられてすらいない。
正直これは本好きとして見過ごす訳には行かないよなあ……
そう思って若干の面倒臭さを感じている重い腰を上げて、本棚の方へと向かって整理を始めていく。取り敢えず、シリーズものだったり同じ作者の本のとのだけはまとめて置いて、後は漫画、小説、雑誌の分類さえすれば良いだろう。
「日向くーん、カルピスとオレンジジュースならあったけど、どっちが……って、いつの間にか本棚の整理始めてるぅ!?」
「あ、しちゃ不味かったですか?」
「いや別にしちゃダメってことはないけど、お客さんにそんな雑用みたいなことやらせられないよ」
「なら縦に並べて置くぐらいのことはしておいて欲しいんですけれども」
氷星さんと話しながら本の整理を続けていると、軽く2桁は行ったであろう、何十冊目かの本を手に取った時、奇妙な違和感を覚えた。
一見乱雑に積まれていた本達にはある共通点がある様に思える。
ここにある本は全て、『恋愛』というものと関わりを持ったものだ。小説で言えば、『世界一美しい恋愛』なんてキャッチコピーと共に売り出されていだものもあるし、漫画は全てラブコメで統一されているし、雑誌に関しても『恋人を作る方法100』なんてのがある。
本を整理する手が止まった。湧き出てきたのは、前に感じたのと同じく様な奇妙なもどかしさ。何かを見落としている様な感覚。
それが何なのか頭の中を探っているうちに、背後から氷星さんの少し拗ねた様な声が聞こえてきた。
「ほら、もういいだろう? 取り敢えず本題に入ろうじゃないか。君の悩みとやらを聞かせてくれよ」
「……分かりました」
胸に渦巻いてた黒い何かを振り払って、氷星さんの方へと振り返る。氷星さんの正面の椅子へと腰を下ろして、口を開いた。
「別に悩みってほどじゃないんですけど、今合コンに誘われていて、それに行くかどうか迷ってるんです」
「行ったらいいんじゃないかな?」
「即答ですね……」
「だって行かない理由が無くないかい?」
氷星さんは曇りない目で、まるでそれがこの世の摂理であるかの様に宣う。……いやあるわ。何だこの人合コン過激派か?
「別に、合コンなんて何が起きたとしても損する様なことは基本ないと思うよ。女の子側がうんともすんとも言わなかったとしても、今回はご縁がなかったんだなーで終わりだよ」
「まあそもそも彼女を作りにいく気はあんまないですけど」
「そりゃそうだろうね。でも、合コンなんて大学生のうちくらいしか出来ないし、それも経験だと思うよ。特に君なんて、この機会を逃したら二度と合コンに参加しようなんてならないんじゃないかなぁ」
「……まあ、確かにそうですね」
「それに、やらずに後悔するより、やって後悔した方がいいっていうしね〜」
個人的にそれは納得しかねるところがあるが、合コンに行ったところで後悔する様な羽目に遭う可能性は低いことは確かだ。
……どうしようか。
腕を組んでうーんと唸りながら悩んでいると、僕へ氷星さんがとある疑問を投げかけてきた。
「そう言えば、君中高時代はぼっち……いわゆる陰キャだったと言っていたじゃないか」
「確かに言いましたけど、それがどうかしましたか?」
氷星さんはそこで一旦を口をつぐみ、顎に指を当てながら思案げな表情になった。そしてそのまま恐る恐るといった様子で言葉を紡ぎ始めた。
「いやさぁ、日向君さ、極端にコミュ力が無いってわけでもないし、そんなに人と関わるのが嫌いって感じでもないでしょ? むしろお節介なぐらいだし。性格が悪いとかでもないし……なんで中学と高校はそんなに一人でいたのかなって」
……思いがけぬ所を氷星さんに突かれて、僕は思わず目を見開いた。湯川にすら指摘されたことが無かったことを、まさか氷星さんに指摘されるとは。
妙な所で鋭いなこの人。
「あ、嫌なら別に全然答えなくてもいいよ!? 僕個人のちょっとした疑問だから」
あまり触れられたくない部分に踏み込んでしまったと思ったのか、氷星さんは慌てたように手を振りながら言った。
「……特に大した理由は何もないですよ。強いて言えば、中学に入ってから読書にハマったからですかね」
「へぇ〜そうなんだ。やっぱり好きなんだ? 本」
「まあ、そうですね。もっとも最近はあんまり読んでないですけど」
読書にハマったから、これは本当のことだ。他の理由は……無いわけではないが、先の言葉の通り大したものでは無い。ただ、どこにでも良くある、ありふれたものだ。
「そう言えば、3人目の彼氏が本が好きでよくあの作家がどうこうとか言ってたなぁ。僕は本なんて大して詳しくないから全然分からなかったけど」
「へぇ、そうなんです……ちょっと待ってください。今なんて言いました?」
氷星さんの口から飛び出した衝撃的というか、おかしな言葉に思わず聞き返す。僕の聞き間違いだよな?
「えっ、僕は本なんて全然詳しくないから……」
「そこじゃ無くてその前です」
「3人目の彼氏が……」
「……聞き間違いじゃ無くてマジですか」
氷星さんは僕の言葉こそむしろ意味がわからないというように、首を傾げる。……もしかして僕の感覚が世間の感覚とずれていらのだろうか? いや流石にそんなはずはない。
「もしかして……。氷星さん、つかぬことをお聞きしますが、今までに彼氏って何人作りましたか?」
「え? えーっと、13、あれ14だっけ? いや15だった気もするような……」
「マジで言ってんのかこの人……」
僕の口から深いため息が漏れて、空気へと溶けていった。
──────────
「さーて、どうなるかなぁ?」
夜遅くなってきたということもあり、彼はなんだか逃げるようにさっさと自分の部屋と戻っていってしまった。
彼が突然いなくなってしまった部屋は妙に物寂しく見えた。
「あの感じだったら、多分行きはするような気がするし、そうだったらいいんだけど」
彼の性格からして、彼女を作るだな何だのはしないだろうけど。それで十分だ。
ふと、彼が几帳面にもきちっと整理してくれた本棚に置いてある一冊の本に目をやり、何気なく手にとった。
この本棚に置いてある本では、一番古い本で、何度も読み直した本だ。
内容は至って普通の恋愛小説。幼馴染の女の子と男の子のとても綺麗で、美しい恋の話。
「恋には障害ってのがつきものだよねぇ……でも、あの子にはちょっと悪いことしちゃったかな」
今回合コンに行くことを彼に薦めた理由の一つは多分、彼女への僕の醜い嫉妬。少しだけ、意地悪をしてみたくなったのだ。
「……自覚はしてないかもだけど、いやでもなら尚更、羨ましいなぁ」
あの表情だけで、彼女が彼のことをどう思っているかなんて一瞬で分かった。そして多分自分は一生あんな顔、彼女が抱いているような思いは抱けないんだと。
「まあ、彼女には頑張って欲しいなぁ。僕の分まで」
結局憧れた夢は夢のままで、色々足掻いてみても叶うことはなかったけど。
他の誰かがそれを叶える様子を、隣で見ていることぐらいは許されてもいいだろう。
窓から見えた月は雲が薄くかかってぼやけていた。
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