第49話 その夜のきっかけ
マーヤが慣れた手つきで電気をつけた。
暗闇から一転オレンジ色の光が彼女の生活を照らし出した。
お洒落に敏感で、でも個性的な、所謂マーヤらしい部屋作りだと思った。
「鍵締めてね。オートロックじゃないから」
命じられるまま僕は扉に鍵をかけた。
1LDKの一室は密室になり、存在しているのは僕と彼女だけだ。
靴を脱いだマーヤは松葉杖を玄関に並べたて、壁をつたってリビングの方に歩き始めた。
慌てて僕も彼女に倣って靴を脱いだ。
「お邪魔します」
なにが面白かったのかわからないが、マーヤが軽く笑った。
壁を使ってゆっくりと進むマーヤの後に続いて、リビングへと続く廊下を歩き出した。
マーヤがリビングのドアを開けた。
広さはそうでもないのかも知れないが、丁寧に整頓された女性らしいインテリアが広がっていた。
木目のフローリング。
小さめのテレビの前に置かれた丸いローテーブル。
こじんまりと置かれた二人がけのソファ。
白いカーテン。
芳香剤の匂いだろうか、甘い香りがした。
その香りはどことなくいつも彼女から感じる匂いと同じ気がした。
「手洗う?」
彼女はチラリとキッチンのシンクに視線を送った。
プッシュ式の石鹸と消毒用のエタノール。
当たり前かも知れないが、マーヤは普段ここで生活をしているのだ、と強く感じた。
「うん」
相づちをうちながらおずおずと石鹸をプッシュした。
白い泡が手のひらに広がり、僕は念入りに手を洗い始めた。
洗い終えるとマーヤが白いハンドタオルを貸してくれた。
僕は軽くお礼を言いながらそのタオルを受け取った。
心なしか少し彼女の手は震えているような気がした。
「私も手、洗うから適当に座ってて」
介助に入ろうかとも思ったが、その必要はどうやらなさそうなで、僕はソファの横の床に座りこんだ。
なんとなくソファに座る勇気はなかった。
水の音。
彼女の手を洗う気配を信じられないほど大きく感じた。
どんどん心拍数があがってくる。
僕は慌てて先ほど購入したお弁当とお茶をテーブルの上に並べた。
店員さんに温めてもらったお弁当はまだ少し熱を帯びている。
今さらだが、このお弁当でよかったのか僕は少し不安になった。
手を洗い終えたマーヤがこちらにやってきた。
「なんで床に座ってるの?ソファあるじゃん」
彼女はさも不思議そうに問いかけてきた。
「なんとなく。マーヤがソファに座りなよ」
「もしかして潔癖だったりする?」
憎まれ口を叩きながらマーヤはソファに腰かけた。
「お弁当、まだ温かいよ」
「うん。ありがとう」
彼女はチラリとお弁当に目をやったが、手をつけようとはしなかった。
「あんまり好きじゃなかった?」
「うぅん、美味しそうだよ。ありがとう」
それでもマーヤは一向にお弁当を食べようとはしなかった。
しばしの沈黙が訪れる。
アパートの隣を走る車の音と、隣人の笑い声が少しだけ聞こえた。
沈黙を破ったのはマーヤだった。
「今日は色々あったね」
確かに今日は色々あった。
前日祭りのステージ
観客たちの熱狂
マーヤの怪我
貴島さんの決意と練習
そして今、この瞬間。
時計の針は深夜12時を回ろうとしていた。
「貴島さん、すごかったね」
先ほどよりも少し暗いトーンでマーヤが言った。
僕は素直に同意した。
「タロ、あんた気づいてるんでしょ?」
マーヤの言葉に心臓がぎゅっと締め付けられた。
「なにを?」
平然を装ったつもりだったが、どうだっただろうか。
「貴島さんがあんたの事、どう思ってるか」
僕は何も答えなかった。
「あんないい子いないよ。かわいいし、素直だし、それにハートがめちゃくちゃ強い」
その全てに反対の意見はなかったが、僕は何も答えなかった。
「あんた、ジム辞めるつもりでしょ」
唐突に話題が変わった。
思わず彼女の方を向き直った。
どこか虚ろな目をしたマーヤがぼんやりとこちらを見ていた。
「どうなの?」
この言葉には返答しないわけにはいかなかった。
「うん」
僕は彼女の瞳を見つめながらゆっくりと頷いた。
「さすがに会員とスタッフが付き合ってます、じゃお互い大変だろうしね。いい判断だと思うよ」
僕はマーヤの言葉に少し悲しい気持ちになった。
「タロなら、どこでも大丈夫。貴島さんもいるしね。それに比べて私は」
マーヤがそっと自分の左足を擦った。
「私はなにやってもダメ。肝心な所でいつも上手くいかない。結局誰も私を見てくれなんてしない」
彼女の一言一言が、僕を少し勇敢にしていくのを感じた。
先ほどまで女の子の一人暮らしの家に入る、ということで緊張していた自分からは信じられない。
彼女は間違っている。
強く思った。
「貴島さんのこと、泣かせたら許さないからね」
その言葉でついに僕の気持ちは決まった。
「なんで許さないんだよ」
意外な返答だったのか、マーヤが驚いたように目を見開いた。
「だって貴島さんは友達だし」
「なんで俺が貴島さんのことが好きっていう前提なんだよ」
マーヤは目に見えて狼狽えだした。
いつも余裕たっぷりの彼女からは想像もつかない。
「なんで?あんないい子だよ?美人だし、若いし」
「マーヤが俺にそんな事言うなよ。わざとやってるの?」
マーヤの動きがピタリと止まった。
なにかを必死に考えている様子だった。
「ごめん。余計なお世話だったよね」
申し訳なさそうに俯いたマーヤの両肩を僕は強く掴んだ。
「俺、マーヤが好きだ」
自分の肩を掴む僕の両手を振り払うこともなく、彼女は顔をあげた。
僕と彼女の視線は一寸違わず同調していた。
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