第31話 月見草

 キャプテンに就任してからも、僕は積極的にメンバーとコミュニケーションを取り続けた。


仁もその一人だった。

最初は取っつきにくい印象だった仁も、話かける頻度が上がるにつれて、少しずつだが心を開いてきてくれたように思う。

彼の正体は相変わらず謎のままだったが、いつしか僕達はジムで顔を合わす度に雑談をする間柄になっていた。


「タロって仕事はなにしてるの?」

仁が唐突に聞いてきた。

「医薬品の営業をやってるよ」

「ノルマとかあるの?」

彼はどうやら僕のジム以外での生活に興味があるらしい。

僕は自分の業務内容をありのままに教えた。


「ふぅん。やっぱりサラリーマンってつまんないね」

仁は冷めたような口振りでそう呟いた。

「仁は?なんの仕事してるの?」

僕が聞き返すと、彼はサッと顔色を変えた。


「なにもしてない」

内心、とても驚いた。

仁は僕と同い年だ。

通常であればとっくに就業に就いている年齢になる。

しかもこのジムは当然、無料ではない。

ジムに通うのにもお金がいる。

それなのに、なにもしてない、という答えがとても意外だった。


「働いたら負けだよ。親のすねなんてかじってナンボだよ」

仁はニヤリと笑った。

「働いてないからなにか問題でもある?」

彼は不思議な笑い声をだしながら僕から離れていった。

色々な人生があるらしい。

30手前で無職。

本人は働いたら負けだと笑っていたが、その口振りはある意味で開き直っているような印象を受けた。

そして、僕の問いに一瞬変わった彼の表情がどうしても忘れられなかった。



仁の他に印象的だったのは町村夫妻だ。

ジムの情報通として名前が通っている夫婦だったが、常にペアでいるわけではなく、時には別々にジムで汗を流していることもあった。

旦那さんはとてもフランクなタイプで、顔を合わすたびにアレコレと色んな話をしてくれた。

しかし、奥さんの方はあまり口数が多い方ではないらしい。

挨拶くらいはするが、これまで他にこれといった会話をしたという記憶はなかった。

なので、突然彼女から声をかけられた時は少しだけ驚いた。


「タロくん、プロテインって飲んでるの?」

彼女の言葉はとても意外なものだった。

スポーツジムに通っているとは言え、筋肥大にそこまで興味がなさそうな彼女から、プロテインについての質問を受けるとは思いもしなかった。


「飲んでますよ」

僕が答えると彼女は少しだけ顔を近づけて質問を続けてきた。

「どこのプロテイン飲んでるの?」


僕は隠すことなく、自分の飲んでいるプロテインメーカーを教えた。


「それっておいしい?」

「おいしいですよ。後味もすっきりしてるし」

彼女は納得したように何度も頷いた。


「旦那がね」

彼女との会話は続くようだ。

「タロくんのこと、褒めてるの」

今年で28才を迎えた僕だが、大人になってからも誰かから褒められるのは素直に嬉しい。


「ほんとですか?」

「うん。トレーニングもして、スタジオにも入って、どんどん体も変わってる。それにチーム鳴神のこともしっかり支えてる」

面と向かって称賛されると、やはり照れる。

僕は何度も手を振って謙遜を繰り返した。


「それに、若い」

彼女の視線がまっすぐ僕を射抜いた。

「え?」

「旦那がね。タロくんみたいになれたらなって言うから、プロテインでも飲ませてみようかなって思ったの」


プロテインを飲んだから体が変わるというわけではないが、ここで彼女の気持ちを否定するのは無粋だろう。


「タロくん。色々あるだろうけど、ちゃんと頑張るんだよ。若いっていう時間って意外とあっという間だから」

彼女は僕から視線を逸らし、違う方向を見た。

視線の先には他の会員さんと談笑している町村さんの旦那さんの姿があった。


「私たちもアナタ達くらい若かったらな」

僕達の会話はそこで終わった。

そっと配偶者を見つめる彼女の姿は、まるで何処かにひっそりと咲く月見草のように寂しげで、美しかった。




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