第32話 MR.オリンピア
ある日、木澤さんから電話がかかってきた。
時間が空いてれば遊ぼうという誘いだった。
特に予定もないので、僕は誘いに乗ることにした。
木澤さんは時間と場所を指定してきた。
トレーニング道具も持ってくるように、と指示された。
指定された場所は「モンスターハウス」というトレーニングジムだった。
建物の大きさはそこまででもない。
ナルカミスポーツジムの半分もないだろう。
年季を感じさせる外壁と看板。
まるでこの建物だけ時間が止まっているような奇妙な佇まいだった。
愛車をモンスターハウスの駐車場に滑り込ませた。
すると不思議な緊張感が走った。
気がつくとハンドルを握る手が汗ばんでいる。
しかも僅かだが小刻みに震えている。
気のせいかも知れないが、背筋が寒い。
まるで僕の本能が細胞レベルでなにかに反応しているようだった。
車を停車させると、すぐに木澤さんが現れた。
「早かったな。タロ。ほな、いこか」
二人で並んで建物に歩き始める。
僕の心臓ははっきりと音が聞こえるぐらい大きく脈打っていた。
木澤さんがドアを開けた。
そこにはテーマパークが広がっていた。
ナルカミスポーツジムとは明らかに違う雰囲気。
どこか殺伐として、無機質な空間。
所狭しと並べられた鉄製のマシンはどれも使い込まれており、まるで生命が宿っているかのような存在感を纏っていた
。
ジム内では数人がトレーニングしていた。
皆、大きい。
世界で一番大きい人間だと思っていた木澤さんがここではまるで普通だ。
「いらっしゃい」
ジムの職員であろう、初老の男性が話しかけてきた。
モンスターハウスと書かれた黒いポロシャツ。
柔和な表情。
どこにでもいそうな初老の男性だったが、そのポロシャツの張りつめ方が、この男の異常を物語っていた。
「テツさん、お世話になります」
木澤さんが深々と頭をさげた。
僕も木澤さんに習い、あとに続く。
顔をあげると、テツさんと呼ばれた初老の男性は軽く手を振りながら僕の目を覗き込んできた。
「君がタロくん?」
僕は消え入りそうな小さな声で返事をした。
テツさんはニヤリと笑うとこちらに右手を差し出してきた。
テツさんと握手をする。
人間とは思えない質感の掌だ。
「着替えておいで」
僕と木澤さんはロッカールームにいざなわれた。
「木澤さん、ここどこなんですか?」
「見てわからんのか?ジムやで」
僕の知っているジムはナルカミスポーツジムだけだ。ナルカミスポーツジムにはテツさんのような怪物はいない。
「モンスターハウス。由緒正しきボディビルジムや」
木澤さんが少年のように笑った。
テツさんが笑顔で着替えを終えた僕達を待っていた。
そして拷問が始まった。
最初はパワーラックで行うベンチプレス。
バーベルの持ち手が赤黒くなっている。
おそらく、これまでこのバーベルは多くの人間を絶望の淵に叩きこんできたのだろう。
テツさんの指示するトレーニングメニューは異常だった。
限界の重量で限界レップ。
そして補助を受けながらのラストの追い込み。
セット間の休憩はきっかり1分。
なにより恐ろしいのが、このメニューがいつ終わるのかを全く教えてくれないのだ。
気がつくと僕は悲鳴をあげていた。
普段のトレーニングとはまるで違う強度で追い込まれていく。
大胸筋が引きちぎられそうだ。
酸欠で意識も朦朧とする。
喉からは鉄の味がした。
ようやくベンチプレスが終わったあとはデッドリフト。
背中のトレーニングだ。
いつもデッドリフトで使っている重量を事前に申告したのだが、それはあっさり無視されてしまった。
セットが進むにつれ、どんどん重量を加算されていく。
しかも背中の角度、軌道までこまかく監視され、少しでもずれるとやり直しを命じられる。
挙上のたびに、目から火花が飛びそうになった。
極め付けはスクワット。
いつもよりも深く。そして粘り強く。
これまで自分が行ってきたスクワットを全て否定されたようだった。
沈みこみが僅かでも甘いと、テツさんの叱責が飛んだ。
次第に脚の感覚が消えた。
今日教わっているこ所謂ビッグ3。
筋トレの基本となる代表的な種目だ。
僕はテツさんに命じられるままトレーニングをこなした。
途中で胃の辺りが気持ち悪くなって、トイレで吐いた。
最悪の気分だったけど、不思議と途中でやめようとは思わなかった。
僕は夢中で負荷と戦っていた。
やがて体の中のエネルギーが尽き、僕は一歩も動けなくなってしまった。
「間違いないね」
地べたに座りこみ、身動きの取れない僕の隣にテツさんがしゃがみこんだ。
その目は射抜くように僕を見ている。
「才能は正直、ない。けど間違いない」
なんの話をしているんだろう。
頭に回せる栄養がないのか、テツさんの言葉はどこか遠く聞こえてあまり理解できなかった。
「君はボディビルダーだ」
遠退いていた意識が一瞬で収縮した。
体中に電流が走るような感覚と共に、僕の心臓が大きく脈打ち始めた。
「いつでもおいで」
それだけ言うと、テツさんは糖質入りの缶コーヒーを僕に手渡して歩き去っていった。
その背中はこれまで見た誰よりも大きかった。
へとへとで帰り支度をしていると木澤さんが話しかけてきた。
「どうや」
短い一言だったが、僕にはそれで充分だった。
これまでナルカミでやってきたトレーニングとは根本から違う。
フィットネスというよりは、修練に近いトレーニング。
筋肉を痛めつけ、更なる飛躍を要求する肉体鍛練。
おう吐もした。悲鳴もあげた。
でもそんなトレーニングの最中、なぜか僕は恍惚としていた。
「すごかったです」
木澤さんは自分の話を始めた。
彼は元々、モンスターハウスの会員だったらしい。
かつてボディビルダーとして活動していた木澤さんだったが、突然指定難病を患い、志なかばで引退を余儀なくされていた。
木澤さんはそれを機にモンスターハウスを辞め、ナルカミスポーツジムに入会したのだという。
「テツさんな。少し前までオリンピアで戦ってたんやで」
オリンピア?
筋トレを始めてからぼんやりと認知している名前だ。
日本ではマイナーな競技であるボディビルは海外では非常にメジャーだ。
競技人口はサッカーや野球を上回るとさえ言われている。
特にアメリカではオリンピアという大会が毎年開催され、地球で一番のボディビルダーを決めているのだという。
体格的に、日本人ではとても辿り着けない怪物の領域。
オリンピアとは僕にとって神話の世界での話だった。
そんな世界でテツさんは一人戦っていたのだ。
僕の心の中に言い様のない感情が渦巻いた。
その渦の正体をこの時はまだ考えることすらできなかった。
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