第37話 前日祭
ついにチーム鳴神が演舞を披露する日がやってきた。
僕は眠い目を擦りながらナルカミスポーツジムに向かった。
愛車には衣装であるスカイブルーの法被とタオル、そして着替えが積んである。
ジムに到着すると、もう数名のメンバーが集合していた。
サムエル達はまだ来ていないようだ。
僕はメンバーと軽く挨拶をしながら昨日の夜の事を思い返していた。
我ながら甘えた声を出してしまった。
テツさんは一度頷いた後、着替えておいでと僕に命じた。
更衣室で先ほどまでナルカミスポーツジムで着ていたトレーニングウェアに再び袖を通した。
更衣室から出るとテツさんが黙って腕を組んで待ち構えていた。
「どこやる?」
どこの部位を鍛えるか、という意味だ。
「ベンチプレスがやりたいです」
質問の応えにはなっていないかも知れないが、テツさんはゆっくりとパワーラックに移動していった。
僕も後に続く。彼の背中はやはり信じられないくらい大きかった。
パワーラックのセーフティを自分用に調節する。
一枚のプレートも装着されていない銀色のバーが無機質に鈍く光った。
フラットに倒されたベンチに仰向けで寝転び、バーを握る。
「15回」
テツさんの言葉と同時にバーを挙上した。
そのままゆっくりと動作を開始する。一回一回の挙上がどんどん自分の体に熱を入れるのを感じる。
指示された回数をこなし、バーをラックに戻した。
僕とテツさんは15kgプレートをバーの両側に一枚ずつ装着した。
「15回」
先ほどと同じように指示された回数を丁寧に挙上していく。
ラックにバーを戻すと、大胸筋が小さく痛んだ。
「何kgでいく?」
その質問が僕の覚悟を試しているように感じた。
「95kgでお願いします」
95kgは今現在の僕の自己ベストの重量だった。
モンスターハウスで一度だけ成功した95kg。
初めてこの重さをクリアした時の充実感は今でも鮮明に思い出せる。
テツさんは少しだけ考え込んでからバーにプレートを足していった。
設定された重さは80kgだった。
僕がナルカミスポーツジムで初めてベンチプレスに挑戦した時に持ち上げた重量だ。
既に混在の自己ベストからは程遠い。
「コーチ?」
怪訝な表情を作る僕に構うことなく、テツさんが補助体勢に入った。
「挙げてみて」
彼のいつもより低いその声が、抗う事の無益さを物語っていた。
僕は指示通りバーを握り、そのまま持ち上げた。
重い。
今となってはなんてことのない、この80kgという重さが途方もなく重く感じる。
そんなはずはない、と自分に言い聞かせてバーを胸の位置まで降ろすといよいよ80kgの重さが途轍もないものに感じた。
体中から汗が噴き出す感覚を味わいながら挙上すると、いきなり僕の両手からバーの感覚が消えた。
テツさんが僕の変わりにバーをラックに戻したのだ。
けたたましい金属音が室内に広がる。
僕は信じられないという思いで天井を見つめていた。
「なにがあった?」
いつの間にか僕の隣で中腰になっていたテツさんが問いかけてくる。
僕はゆっくりと上半身を起こし、ベンチに座った。
テツさんの顔を見るとその眼光はかつてないほど鋭く、そして優しかった。
僕はこれまでの事を素直に話した。
チームプレーが怖くなり野球から逃げ、レスリングを始めた。
社会人になってからは中途半端な毎日。
ナルカミスポーツジムに入会し、マーヤ達と出会った。
ダンスチームに入り、チームプレーへの苦手意識を克服した。
ナルカミスポーツジムが大好きだ。
それなのに、僕の気持ちはこのモンスターハウスに向かっている。
野球から逃げたように、今度はナルカミスポーツジムから離れようとしている。
テツさんは僕の話を黙って聞いていた。
僕が話終えると、そのままゆっくりと立ち上がった。
「ジムをやめることが、逃げたことになるのかい?」
とても静かで落ち着いた声だった。
「離れててたら、仲間じゃなくなるのかい?」
僕の返答を待たずにテツさんの言葉は続いていく。
「人生っていうのは選択の連続だ。選ぶことが人生といってもいいかも知れない。その選択が正解か不正解かなんて、誰にもわからない」
見上げるテツさんの顔の向こうには現役時代のテツさんの写真が飾られたパネルが見えた。
オリンピアの舞台で戦っている時の写真だ。
「問題なのは、その選択の先の自分なんだ。大人になってからの岐路は確かに怖い。でも、選んだ先の自分次第で人生は大きく変わってくる」
世界が耳を澄まして僕達の会話を聞いているかのように静かだった。
「選ぶという事は怖い事だ。変わるという事にも覚悟がいる。でも大切な事はそこから逃げないっていうことじゃないかな?」
テツさんが再び中腰になり、僕の目を覗きこんだ。
「レスリングを選んだ事、後悔してるかい?」
僕はゆっくりと首を横に振った。
「野球部のチームメイトは、もう君にとっては仲間じゃないのかい?」
僕はまた首を振った。
野球を辞めても当時のチームメイトは大切な仲間のままだ。
少なくとも僕はそう信じたい。そう強く願っている。
彼らの事を他人だと思ったことは一度もない。
「逃げるな。戦え。君はなんだ?」
目の前テツさんの顔がどんどんぼやけて見えた。
僕は泣いているんだ。
「僕は」
気を抜くと嗚咽が漏れそうな呼吸を必死でおさえつけた。
「僕は、ボディビルダーです」
その言葉を聞くとテツさんは再び立ち上がり、バーにプレートを足していった。
「見なくていい」
その姿を目で追おうとする僕をテツさんが制止する。
プレートのセッティングが終わり、テツさんが補助体勢に入った。
「いいぞ」
指示通りにベンチに仰向けになりバーを握った。
「挙げろ」
両手を力一杯握りこみ、挙上した。
体中に痺れるような刺激が走る。今まで感じた事のない感覚だ。
大切な事は逃げないことだ。
はち切れそうな血管の隆起を感じながら、バーを胸の上に降ろす。
「いけ!」
全力で押し挙げる。しかし挙がらない。
僕はこの短い時間の中で、初めて自分自身と本気で向き合った。
レスリングを始めたのは、本当にチームプレーから逃げたかったからなのか?
僕がレスリングを選んだ理由は一人の格闘家を見たからではなかったか?
レスリングをバックボーンに持ち、変幻自在のグラウンドテクニックで自分より大きな相手に立ち向かうその格闘家の姿に憧れたからではなかったか?
結局、僕に戦う才能はなかった。
いつしか自分の限界に折り合いをつけ、受け入れた平凡な日常。
でも、野球ではなくレスリングを選んだ事に後悔したことなんて一度もない。
あの時の僕は、逃げたんじゃない。
確かに挑んだんだ。
そしてそれは今も同じだ。
僕はナルカミスポーツジムから逃げるんじゃない。挑むんだ。
ボディビルへの挑戦のために、僕はモンスターハウスを選ぶんだ。
ナルカミで繋がった絆は、場所が変わったくらいで千切れてしまうほど脆いものではない。
貴島さん、マーヤ、サムエル。
皆の顔が脳裏に浮かぶ。
僕は夢中になって吠えた。
バーはとてつもなくゆっくりと持ち上がっていった。
「挙げろ!いけ!!」
テツさんの声がはっきりと聞こえる。
間違いなく幻聴だが、マーヤ達の声も聞こえたような気がした。
「俺はボディビルダーだ!!」
持ち上げたバーは先ほどより美しく銀色に光った。
テツさんが補助に入り、ラックにバーを戻す。
荒い呼吸の中、テツさんの声がぼんやりと聞こえた。
「ケガして帰ってくるなよ」
二人きりのモンスターハウスはまるで真夏の午後のように暑かった。
昨夜の回想を終え、僕はチーム鳴神の法被に腕を通した。
スカイブルーの法被は小さな衣擦れの音をたてて僕を優しく包んだ。
マーヤ達が姿を見せる。
チーム鳴神の激動の2日が始まった。
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