第35話 迷子

 チーム鳴神の練習は更に熱を帯びたものになっていた。

全員のモチベーションも高く、センターのリエさんのダンスも日に日に切れ味を増していく。

そして、僕達のナルカミロケットの成功率も着々と上昇していた。

全てが順調だった。

それなのに、僕は迷いの真っ只中にいた。


木澤さんにモンスターハウスに連れて行ってもらってから、僕はほぼ毎日テツさんの指導を受けにモンスターハウスに通っていた。

ナルカミスポーツジムに向かうのはチーム鳴神の練習会の時だけで、それ以外にはスタジオにもジムエリアにも足を踏み入れることはなくなっていた。

僕がナルカミスポーツジムで過ごす時間が短くなっている事に最初に気づいたのはマーヤだった。


「最近、どこか行ってるの?」

複雑そうに聞いてきた彼女に、僕は曖昧な返事しかする事ができなかった。

マーヤは一度聞いてきたきりで、それ以降この質問を僕にすることはなくなった。


モンスターハウスでの時間は苦痛以外の何物でもなかった。

これまでの全て否定されるかのような高強度のトレーニング。

そして、如何に自分が筋トレというものに無知であるかを突きつけられる毎日だった。

テツさんの指導はとても厳しく、何度も何度も嘔吐を繰り返した。

ナルカミスポーツジムでは決して味わった事のない負荷に、身も心もボロボロだった。

もうやめたい。

何度もそう思ったのに、気が付くと僕の足はモンスターハウスに向かっていた。


「君はボディビルダーだ」

テツさんから一度だけ聞いたこの言葉がいつも脳内で渦巻いていた。

毎日の苦痛、しかしその中で僕は確かに僕の心は充実していた。

テツさんは厳しいが、その何倍も優しい人だった。

彼の目はとても厳しく、それでいて慈しむような温かさで満ち溢れていた。


この日もモンスターハウスでズタズタにされてから、チーム鳴神の練習に向かう。

指導に礼を言い、モンスターハウスをあとにする僕にテツさんが言った。


「ケガして帰ってくるなよ」

その言葉にしっかりと頷いた。

なぜかすんなりとその言葉を受け止めることができる自分が腑に落ちなかった。


チーム鳴神の練習前に貴島さんが話しかけてきた。

「タロさん、なんか疲れてませんか?」

心配そうに僕を見つめるその瞳は今日も少し潤んでいる。

「大丈夫。最近、仕事が忙しくて」

「キャプテンだからって背負い込まないでくださいね。なにかあったら相談してほしいです」

そんなに疲れてそうなのか、と思いスタジオの鏡で自分を確認し、驚いた。

僕の顔はいつの間にか痩せこけ、体は枯れ木の様に筋張っていた。


僕は確信した。

モンスターハウスでの日々は無駄じゃない。

これは疲れてるんじゃない。

僕はかつてない程に絞れてるんだ。


いくらナルカミスポーツジムでトレーニングをしていても変化に乏しかった僕の肉体が、大きな進化を遂げようとしている。

まだまだ遠いが、自分の延長線上にテツさんの姿があるように見えた。

しばらく僕は鏡の中の自分から目をそらすことができなかった。


貴島さんの声が遠く聞こえる。

「今年の鳴神はすごいですよ。来年は参加者ももっと増えるかも」


来年?

その短い単語の意味が僕にはわからなくなった。

来年も法被を着てチーム鳴神で踊る自分の姿がいくら考えても想像できない。

僕は改めてナルカミスポーツジムを見渡した。

突然見学にやってきたあの夜。

テーマパークに見えたこの場所がひどく色褪せたように見えた。

その瞬間一刻も早くここを立ち去りたい衝動に駈られた。


「ごめんね」

僕は貴島さんに断りをいれて、急いでトイレに向かった。

洗面台で何度も顔を洗う。

冷たい水をなんど顔に浴びせても僕の心の違和感は拭えなかった。

洗面台の鏡で、もう一度痩せこけた自分の顔を見る。

いくら見つめてみてもかつての運動不足の自分の姿はない。


小さな音を立ててトイレのドアが開いた。

鏡越しに見ると、神妙な面持ちで木澤さんが立っていた。

木澤さんは僕の様子を確認すると、ゆっくりと口を開いた。


「俺は、チーム鳴神が終わったらこのジムを辞める」

いつもと違う、重い口調だった。

「テツさんの所で、もう一回ボディビルやる」

僕は振り向くことも出来ずに、木澤さんの言葉を黙って聞いていた。


「タロ。巻き込んですまん、とは思わへんで」

それだけ言うと木澤さんは再びドアを開けて、姿を消した。


「君はボディビルダーだ」

モンスターハウスで聞いたテツさんの言葉が何度も何度も僕の頭の中で鳴り響いていた。


チーム鳴神、本番まであと一週間。

僕はモンスターハウスに行くのをやめた。




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