第5話
放課後になると別棟にある図書室に向かった。
こう見えて俺は文学をこよなく愛する読書少年である。図書室には毎日のように通い詰めている。
というのは嘘で図書室に足を踏み入れるのは初めてだ。
昨日担任に言われたからというわけではないが、自分の新たな一面を発掘しようという試みだ。
俺はしばらく戸棚を徘徊していたが、奥の席でいちゃついている男女ペアがいてキレそうになったため退室することにした。この場合、注意したら負けな気がした。手ぶらで出るのもしゃくなので、神との対話というヤバそうな本を借りた。
図書室を出た俺は、昇降口に向かう階段をおりた。
二階におりて、さらに一階への階段をおりる寸前で、足を止める。回れ右をして、通路に出た。特別教室の並ぶ暗い廊下を歩く。
別に正義感というわけではない。今朝スマ彦とくだらない話をしたせいだ。
細かい経緯はどうあれ、いろいろとスレスレのことをしているのは間違いない。
仮に何か事が起こった場合、非常に寝覚めの悪いことになるだろう。一度あんな現場を見てしまった以上は。
おそらくあの女を諭そうとしてもムダだろうが、男子たちとは話をしてみる価値はあるかもしれない。
昨日と同じ男子トイレの前に立った。
あいかわらずこの通路は人通りがない。耳を澄ましてみるが物音らしきも物音もない。
もしかして今日は中止になったか、もう終わったのか。
扉に手を触れる。軽く押してみるが開かない。俺は中にいると確信した。
両手で押し開けようと試みる。しかし開かない。昨日より厳重になっている。
俺は数歩下がって、勢いをつけて扉を蹴り飛ばした。開いた。そのままなだれ込む。
「あっ!」
悲鳴ともなんとも取れぬ声がした。
振り向いた男子生徒たちは、まるで怪物にでも遭遇したかのような表情だった。
今日はふたりとも立っている。棒立ち。
そのかたわら奥の壁際で、制服姿の女子が全身を丸めるようにしてうずくまっていた。
男子はもう一人いた。座り込んでいる影に横から抱きつき、おおいかぶさろうとしている。
状況はよく読めなかったが、俺は冷静だった。これぐらいのことは想定にあったからだと思う。だからどうするかも決めていた。スマホを構えて、立て続けに写真を撮る。
とりあえず証拠は抑えた。
まとわりつく男子はよほど夢中なのか我を忘れているらしい。写真を撮られてもなお、俺に注意を払う気配はない。
俺はカバンを置いて、つっかえ棒にされていたモップを拾い上げた。
両手に握って、地を蹴る。柄の先端を突き出し、男のわき腹をぶっ刺した。いいところに入ったのか、相手は一発で床に倒れ込んだ。手で腹をおさえながら、声にならない声を発している。
残りの二人に向き直る。
小太り眼鏡とひょろひょろ。二対一でもまったく負ける気はしなかった。
しかしこいつらは目を泳がせるばかりで、争う気はないようだった。表情をみればすぐわかる。
「ち、違う! ぼ、僕たちは関係ない! 何もしてない!」
両手を振りながら叫ぶと、小太りは入り口へむかって走り出した。もう一人もそのあとについて出ていく。
俺は残った一人を見下ろした。モップの一撃を食らったそいつは、荒い変な呼吸を繰り返してもだえている。なぜか助けを乞うような目で俺を見たが、気味が悪かったのでケツを蹴り上げた。
結局そいつも手足をばたつかせながら、床をはうようにして逃げていった。
「なんだよ、だっさ」
誰ひとり向かってこなくて拍子抜けした。
写真は撮ってあるし、あれを追いかけ回しても仕方ない。
それよりもまずは。
モップを立てかけ、壁を背に座り込んだままの影に視線を落とす。
体育座りのような格好で、彼女はしきりに自分の指を触っていた。両手を顔の前に持ってきて、まじまじと眺めている。
ブラウスの襟が乱れていたが直そうともしない。よく見ると第三ボタンが取れてしまっている。たわんだ服の隙間から、白い肌とピンクのブラジャーがわずかにのぞいた。
「ボタン、取れてるぞ」
下着が見えてる、と暗に指摘した。
大丈夫か、なんて言葉をかける義理はない。完全なる自業自得。
彼女はそれでもなお胸元を隠すそぶりは見せなかった。わずかに視線を上げると、唇を歪めて鼻を鳴らした。
「なにを笑ってんの?」
「ふふっ……童貞ばっかだから、どうすればいいかわからなかったみたい」
何を言い出すかと思えばずいぶん余裕そうだ。
ショックで呆然自失、というわけではなさそうだった。
被害はブラウスが多少ほつれているぐらいで、下半身の着衣に乱れはない。スカート下、膝を立てた両足のあいだから、短い黒のインナーパンツが見えている。
タチバナミキは俺に向かって、だらりと両腕を持ち上げた。
「腕、引っ張って」
「は?」
「腰が抜けてたてない」
腕を取って立たせる。手のひらが冷たかった。
立ち上がった彼女は足元をふらつかせた。俺が肩を支えると、何も言わずに歩きだした。このまま出て行く気らしい。
「おい、カバン」
「持ってきて」
壁際に置きざりのカバンを担ぐ。取っ手の根本にマスコットキャラの人形がぶら下がっている。俺はなぜか言われるがままに従っていた。
途中自分のカバンも拾うと、彼女に続いて便所を出た。
お互い無言で、日の当たらない廊下を歩いていく。この別棟はやはり静かなもので、誰ともすれ違わない。遠くで吹奏楽の音がする。いつもの放課後だった。
先を行くタチバナミキの足取りがゆっくりになった。通路を曲がった彼女は、階段を二段だけおりると、そのまま床に腰をおろした。
「ちょっと休む」
階段の下を見ながら、誰にともなく言う。まあ俺に言ったのだろうが。
俺はかたわらに立ったまま尋ねる。
「どうすんだよ、職員室行くのか? それか警察? わかんねーけど」
彼女は無言で首を振った。
仮に行くとしても、なんと説明するつもりなのかはわからない。
「よくわからんけど、なにがどうなったん?」
「いきなり抱きつかれて胸触られた。ていうかそれより指がいたい」
ずっと指を気にしている。
「見て」と持ち上げて見せてくるが、特に外傷は見当たらない。どこかが切れているというわけでもない。細長いきれいな指だった。
「なんともなってないぞ」
「わかんない、どっかにぶつけたかも」
「病院でみてもらったほうがいいかもな」
俺が言うと、彼女は指を隠すように引っ込めた。また沈黙になる。
しかしすぐに鼻をすする音が聞こえてきた。見下ろすと、くり返し袖で目元を拭っている。いまさら泣いているようだった。
「情緒不安定かよ」
俺は小さくつぶやいて隣に腰かけた。
聞こえていたらしい。顔がこちらを向いて、赤くなった目が睨んできた。
「優しくない」
「は?」
「ここは優しく頭なでなでするでしょ、ふつう」
普通も何もこんな状況が普通ではない。人様の頭に気軽に触れるような真似は俺にはできない。
どうすべきか迷っていると、タチバナミキはうつむいて膝を抱えた。もう泣き止んだようだった。俺は頭を撫でるかわりに言葉をかける。
「だから言わんこっちゃないって。一瞬そういう遊びかなんかかと思ったけどさ」
「そんなわけないでしょ」
「だって助けても何も言わんから」
「びっくりして声出なかった」
俺のほうを見もせずに答える。
だから俺も隣の顔色をうかがうのをやめた。
「てか、そうまでして金がほしいか?」
「お金あるし」
「じゃあなんで?」
間髪入れず聞き返すと、少し間があった。彼女はため息をついて、それから息を吸い込んだ。
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