26. 人生で最も悪い一日

 ストレスが溜まってイライラしてむしゃくしゃしてどうしようもなくなった時。


 そんな時は映画に限る。


 映画館でしか味わえない大画面と大音量。ちょうど良い暗さはたかぶった神経をしずめてくれる。物語に没入ぼつにゅうしている2時間半は現実世界で抱えている問題の一切を忘れさせてくれるし、作品の中の主人公は困難に立ち向かい、勝利し、最後には大団円が待っている。そんなエンターテイメントを味わった後では、俺が向き合わなくてはならないトラブルに対しても見え方が変わっていて、落ち着いた頭と立ち向かう勇気は結果として解決の糸口をもたらしてくれる。


 だから映画は良いのだ。


 甲斐かいと口論が勃発した翌日、休日を利用して俺は映画館にやってきていた。

 中学生の時”そいつ”に嫌がらせの対象を押し付けられて以来人生2度目の最低な気分を味わっている今、俺はこの方法以外に問題から逃れる方法も解決する手立ても見つけられなかった。

 実際この方法は財布へのダメージを除けばかなり効果的で、今まで失敗したことは1度だけしかない。


 俺はこの日も話題になっているアクション作品を予約した。座席は最後方の真ん中に限る。


 商業施設の4階に位置する映画館。その隣に並ぶ飲食店とフードコート。

 映画といえばポップコーンは欠かせない。だから俺はフードコートで軽めの昼ごはんを食べて腹ごなしにゲームセンターを散歩していた。

 これだけでも昨日の嫌な出来事を少し忘れられそうで最高の休日にふさわしいすべり出しだった。


 しかし最高の休日はここで終わってしまうことになる。


 俺は2度と会いたくないと思っていた”そいつ”と再開を果たすことになる。


 ゲーセンを出て映画館へ向かう途中で、俺は”そいつ”を見つけた。

 中学生の頃と変わらない坊主頭とその風貌ふうぼうは見間違えようがない。

 思い出したくもない顔を脳が勝手に拒絶して”そいつ”の顔から咄嗟とっさに目をらした。

 しかし”そいつ”も俺のことに気が付いたらしい。笑顔で手を振りながら寄ってきた。


 全くもって意味がわからない。”そいつ”がまともな神経してたら笑顔なんてできるはずがない。というか、気が付いたとしてもお互い見て見ぬふりをしてさりげなくやり過ごす程度に俺たちの仲は最悪なはずだ。


健二けんじ? なあ、健二だよな? おい」

 俺は”そいつ”の声が少しでもかき消せるようにイヤホンから流れる音楽の音量を上げた。

「ちょっと、聞こえてないの? なあ、健二だろ?」

 “そいつ”は俺の腕を強引につかんで顔を覗き込んでくる。目と目が合った。本当に最悪な気分だ。


「やっぱり健二じゃん。久しぶり! こんなとこですごい偶然だな」

 あっけらかんとした”そいつ”の姿を見ると、中学時代の出来事は全て俺の妄想だったんじゃないかと不安になる。

 俺は観念して耳からイヤホンを外す。

「あー、ごめん。音楽聴いてて聞こえなかったわ」

「いいっていいって。卒業式以来?」

「だな」


 無愛想ぶあいそな返事の意味を受け取ってくれたのか、”そいつ”の表情が少しだけ曇った。

「健二はもう野球やってねーの?」

 “そいつ”は俺の頭を見て尋ねた。

「見ての通りだよ。だいたい、中学の部活だって途中で辞めてるんだから高校でわざわざやるわけないだろ」

 俺は中学時代から比べると随分と長くなった髪の毛を指差しながら、嫌味をぶつけた。そういば、これがけ様子が変わっていても”そいつ”は俺に気が付いたんだな。


「そっか。そうだよな……」

「そういうお前は野球続けてるんだ」

「まあな。俺も健二と一緒で地元の高校には行かなかったから、今はこっちの方で下宿しながら野球やってるよ」

「そっか。まあうまかったからな。お前が辞めるようなことにならなくて良かったんじゃねえの?」

 あの時、泣き寝入りした分まで今になって怒りをぶつけるのは情けない。しかしこうでもしなきゃ収まりがつかない。


「あの時のこと、やっぱりまだ気にしてるよな?」

「当たり前だろ。逆によくそんな顔して声かけられたもんだよな」

 俺が呑気のんきに許してくれているとでも思って声をかけたのだとしたら、人の憎しみを軽んじすぎている。

 まあ、今の俺があの時に最も近い負の感情を抱えているという点では”そいつ”も不運ではあるが。


「あの時のこと、ずっと謝りたいと思ってたんだ。すまなかった」

 “そいつ”は俺のあの時から変わらず生きたままの怒りに対して頭を下げた。怒ってないことを期待して愛想良く振る舞って、怒りを感じたら謝罪に移るなんて都合が良すぎる。

「本当にずっと謝りたいと思ってたならなんで第一声が謝罪じゃないんだよ。それに高校行く前だっていくらでもチャンスはあっただろ。散々見て見ぬ振りして自分に危害が加わらない状況になった途端、安全圏から許しをうなんてよくそんなダサい真似できるよな」

「それは……」

「じゃあ、俺予定あるからもう行くわ」

「待って」


 “そいつ”に掴まれたままだった腕を投げつけるように振り解くと、俺はイヤホンで”そいつ”の声をシャットアウトした。もう声は聞こえない。


 そしてそのまま、まっすぐ映画館へ向かい、よどみなくシアターに入って席に着く。

 

 やっぱり映画館は良い。

 さっきで気が立っていたのに、この暗さだけで自然と平常心に戻っていく。

 落ち着いてようやく、ポップコーンを買い忘れていたこともここで気が付いた。


 俺は先程の”そいつ”との会話を反芻はんすうする。

 一生会うことはないと思っていた憎き相手との再会。

 そいつのふざけた態度。


 だから傷つけるための言葉を選んで投げつけた。

 それは昨日も一緒で、傷つけようとした分だけ甲斐も”そいつ”も傷つけることができた。

 それで俺は何がしたかったんだ?


 謝って欲しかったのか?

 違う。


 同じように苦しんで欲しかったのか?

 多分、違う。


 なんの目的もなく、ただ感情をぶちまけただけ?

 だとすればまるでケダモノだ。


 最悪な気分に最悪な過去を重ねればあっという間にどん底のさらに底へ沈む。

 これ以上ないと思っていた嫌な気分は簡単に更新できてしまう底無し沼だった。


 昨日のこと。今日のこと。今までのこと。これからのこと。

 なんの答えも出せないまま、気がつけば映画は予告編が始まっていた。

 結局、この日俺は初めて映画の世界に没入ぼつにゅうできなかった。

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