15. 机を近づけ、心よ近づけ

 月曜をむかえて、また1週間が始まる。

 1限目の世界史が終わり、10分の休み時間。俺も甲斐かいも自分の席から立つことはなかった。

 教室はざわつきながら、あるものは廊下ろうかのロッカーへ置き勉している教科書を取りに行ったり、あるものは連れ立ってトイレへ向かったり、騒々そうぞうしい教室の中で語る相手を持たない俺たちは無言で机の中を探る。


 俺は英語の教科書を、甲斐は数学の教科書を取り出した。土曜日に連絡したおかげで甲斐は今日の2限目が数学に変更されたことを信じ切っていた。廊下から戻ってきたクラスメイトの手にあるのは英語の教科書。

 そう、授業の変更などおこなわれていない。

 悲しいかな友達のいない甲斐は俺の言葉を信じてだまされてしまったわけだ。


 周囲の様子に見向きもしない甲斐は英語の授業が始まることに気がついていない。

 甲斐がそのことに気がついたのは英語担当の相田あいだ先生が2分遅れて教室に入ってからだった。

 その時の甲斐の表情といったら、大きく口を開けて驚きをこれでもかと表現していた。それに気づいた人が1人でもいてくれたら何かが変わるきっかけになったかもしれないが、誰も彼女の表情には気づかなかったようだ。


 相田先生の姿を確認してから、続けて甲斐は俺の方を向いた。それと同時に俺は窓の方に視線をそらす。

 最初は懇願こんがんするような視線だったのが徐々じょじょに状況を理解して怒り、悲しみに変わっていくような気がした。

 それでも俺は目線を合わせない。

 甲斐と相田先生の会話に耳を傾けると、やはり普段のおこないが良い甲斐は怒られることもせず、隣の席の古庄こしょうから教科書を借りることになったようだ。


 トントン拍子びょうしに事がはこんで安心した俺がようやく黒板の方に目をやると、古庄に近づいた分だけいつもより離れていった甲斐が横目に視線を送ってきた。俺は作戦がうまくいってにやけているのがバレないように、右手で頬杖ほおづえついて彼女の視線をかわした。


 当たり前のことだが、授業はとどこおりなく進んだ。がりなりにも進学校だから私語しごするような人間もおらず、甲斐と古庄も黙って授業を受けていた。状況が変わったのは甲斐が先生に当てられて英語の長文を完璧に和訳わやくしたところからだ。


「甲斐ちゃんヤバ。予習してきたん?」

 古庄が小声で甲斐に話しかける。もともとの声が大きいから俺の耳まではっきり届いた。

「えっ? いや、えっと……うん。ちょっと」

 声をかけられるなんて想像もしていなかった甲斐は目をパチクリさせながらたどたどしく返事をする。


「じゃあさ、ここの文法わかる? 多分この流れ的に私この文章訳さなきゃなんだけど、なんかいまいちわかんなくて」

 古庄は先生の目の前だというのに遠慮えんりょなく甲斐に質問を始めた。

「えーっと、ここはね……」

 先生の目を気にしてか、甲斐は歯切はぎれの悪い返事をする。そして先ほどよりもさらに小さい声で古庄に何かを耳打ちした。


 古庄の問いに対する解答だったのだろう。古庄はパッと笑顔になって両手を合わせて謝意しゃいを見せた。

「甲斐に教えてもらって自信満々な古庄にはついでに次の文章も訳してもらおうかな」

「ちょっと相田ちゃん、それはズルいって」

 相田先生と古庄のやりとりに合わせてクラスで笑いが起きた。

 よかった。甲斐もぎこちないが笑顔を見せていた。


 俺はそんな甲斐の表情を見て、わずかに口角こうかくが上がるのを自覚した。



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「古庄さん、教科書ありがとう」

 授業が終わり、古庄に寄せていた机を元に戻すと甲斐が丁寧にお辞儀をした。

「いいよ、そんなの。こっちこそ和訳教えてくれてありがと。てかやっぱり甲斐ちゃんって頭いいんだね」

「甲斐ちゃん……」

「あ、いや? れ馴れしすぎ?」

「ううん、そんなことないよ。嬉しい」

 甲斐は聞きなれない呼び名に戸惑いながらも微笑んだ。


 甲斐は古庄に対してぎこちないながらもコミュニケーションが取れている。

 結果として教科書を忘れたことが現状を変える良いきっかけになったのかもしれない。


「じゃあよかった。それで相談なんだけどさ、5限の数学、私当てられてたところ途中までしかわかんなくて解けてないんだよね。よかったら昼休みちょっと教えてくんない? 数学の元木もとき怖いしさ」

「えっ、あっ、うん。いいよ」


 そのやりとりは甲斐が良いように使われているみたいで聞いていて不快ふかいだった。

 それでは一方的で甲斐が望んでいた対等たいとうな関係性ではないじゃないか。

 しかし俺が考える利害関係が友達の定義だとするならば、これも1つのあり方なのかもしれない。甲斐は友情を得て、古庄は答えをねだれる相手ができた。俺はやはり、自分で言い出した定義に納得できずにいた。


 俺がとやかく考えることじゃない。甲斐と古庄の会話から意識を遠ざけるように本へ目を落とす。


「えっと、じゃあ何時からやる? 私は席でお昼食べてるからいつでも良いんだけど……」

「じゃあさ、お昼ご飯も一緒に食べようよ。それで食べ終わったらそのまま勉強!」

「それって、いつも古庄さんと食べてる人はどうするの?」

「別にどうもしないでしょ。みんなも多分良いっていってくれると思うし。ってか、さんづけとかやめてよ。普通に呼び捨てで良いって」

「呼び捨て……っと、じゃあ古庄……いや、かえで……ちゃん?」

「ふふっ。なにそれ。なんでもいいよ」


 聞こえないふりをしながらも俺の意識は2人の会話を追いかけ続けている。

 先程までのやり取りとはうって変わり、初々ういういしくもあり危なっかしくもある会話が生まれていた。

 俺の考えすぎなのかもしれない。古庄は良くも悪くも素直なやつで、さっきはたまたま悪い面が見えていただけの可能性もある。


 都合良く鳴ってくれた3限目のチャイムに俺の思考は停止する。


 その日の昼、俺は珍しく教室を出て学食で食事を済ませた。

 後のことは甲斐から直接聞けば良い。俺は5限目が始まるギリギリまで、教室へは戻らなかった。

 古庄は課せられていた問題の解答を完璧に板書した。

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