第4話 勝ったな、風呂入ってくる
『お疲れさまでした。押野先輩』
布教活動に失敗してから、数時間。
一日の業務が終わり、すっかり普段通りの完璧キャリアウーマンの顔に戻った空風さん。
互いに職場の制服からスーツに着替え、職員出入口付近でお辞儀をしあう。
いつもは、俺の方が仕事が上がるのが遅いので、一緒の時間に上がったのは初めてだ。
「お疲れさまでしたー。いや、昼はごめんね。推しなもんでつい」
『いえ、真白さんの素敵な愛が伝わってきました。これからも、その子を推してあげてください!』
聖人! いや、もはや天使領域に至っている…! なんて寛容で気が配れる子なんだ。先輩を立ててそのようなことを!
……ん?真白さんって書いてなかった今?
もう一度確認しようとしたが、すでにタブレット画面は引っ込められており、確認が取れない。
首をかしげかけていると、伊野さんが手を上げながら出てきた。
「二人ともお疲れー」
「お疲れさまでしたー」
『お疲れ様でした!』
「おつおつ。ところで、明日の歓迎会って何時からだっけ?」
歓迎会、俺のときは、推しが配信するから、急性体調不良(サボり)になって行かなかったんだよな……。
でも、今回は…
俺はSNSを開く。が、ミウミウはあの配信お休みの告知以降は、いいねやら簡単なリプを返してはいるものの、いつからまた配信するなどといった呟きはしていない。
明日急遽配信するってなったら休めばいいか。
『午後九時に駅前に集合です!』
「おぉ流石空風ちゃん。ありがとね」
伊野さんがお礼を言った直後、電話の呼び出し音がなる。
「あ、今日早く帰るって連絡してたんだった」
「奥さんですか?」
「そんな概念はこの世に存在しない。飲み友からだ。」
概念上存在はしてますよ。
伊野さんは、俺たちに軽く手を振り、スマホを耳に当てて電話を始めながら、自家用車へと歩いていく。
「んじゃ、俺たちも帰ろうか。気をつけて帰ってね。お疲れ様」
『はい!押野先輩もお疲れ様でした!
(*`・ω・)ゞ』
空風さんの可愛らしい顔文字を添えた文面は、疲れた心をほんわかとさせてくれた。
これは浮気ではない。この可愛いは推しへの可愛いとは異なる。
推しへの可愛いは、
――モウマジムリ推しが尊すぎる結婚したい幸福であれ。永遠に。好き好き。
という愛おしいという可愛さ。
に対して今回のは、子どもが楽しそうにお花をプレゼントしてくれたような、愛らしいさ。違いが分からないと? 恋かそうじゃないかの違いだよ、分かれ。
俺と空風さんと挨拶を終え、職員用駐輪場から愛用自転車を引っ張り出す。隣に停めていた水色の自転車はどうやら空風さんのようだ。
空風さんは帽子型ヘルメットを装着し、最後にこちらに手を振りながら自転車をこいでいった。
偶然にも、方角は俺の帰路と同じだった。案外家は近いのかもしれない。
小腹が空いたが、今日は同居人が家にいることを思い出して立ち寄りかけたコンビニをスルーする。飯を作っているかは確率は半々だが。
腹が鳴る音をかき消すように足に力を入れ、自転車を加速させる。
前方には、先ほど別れたはずの空風の背後が見える。
……あれ、結構同じ道なんだ。
しばらく空風さんのなびく髪を追いかけるように、自転車を進めていると一戸建て賃貸のマイホームに辿り着く。
一戸建てはいいぞ。生活音を周囲に気を使う必要が無いし、配信をある程度大音量でも隣人から文句を言われないし、推しが尊くて叫んでもセーフだ。
だから同居人と折半の形でアパートではなくこの賃貸形態にした。賃貸なら固定資産税も掛からないしね!
なにより人通りも少なく、街灯も薄暗い。道も狭いので車が通りにくいせいか、住人の密集度も高くない。まさに配信音量を気にしなくていい完璧な視聴環境なのだ。
だが、二年間ここに住んできた今、新たな問題…いや問題ではないが衝撃的な出来事が起こった。
「…………えっ!? あ、空風さん?」
同じく自転車から降りた空風さんが、―――向かいのアパートの敷地内に入ろうとしていたのだ。
俺の声に、ビクンッと体を振動させ、ゆっくりと空風さんが振り向いてくる。
その顔は驚き半分恐怖半分取った感じだ。心なしかその体は仰け反っている。
「あっ! ついていったとかじゃないよ! 俺の家ここだから!うん! た、ただいまー! い、妹と住んでるから! 」
俺は挙動不審気味に弁解しながら、家の鍵をガチャリと開けて開閉する。
「ほ、ほら! だからえーと…空風さんをストーカーしてたわけじゃないんだ…でもごめん。ちょっと怖かったよね…」
俺が更なる謝罪を考えていると、内側から扉があけられ、背中を強打する。
中から出てきたのは、同居人たる血のつながった実の妹だ。
妹は超ロングTシャツ一枚というだらけきった服のままキョトンとしている。
「ん? お兄ちゃん。なんで帰ってきて外にいんの?」
「お前こそちゃんとした服を着ろ! 」
「いや、下にパンツはいてるし」
「そこは短パンとかはいてろ!ご近所に見られるだろ。」
「ならお前が入れや………まって人いるなら言ってよ」
妹は空風さんに気が付き、扉をバタンと閉める。普段から気を使ってほしい。
仕事は社会貢献レベルトップクラスなのに。
一連の流れを見ていた空風さんは、手を口に当てながらクスリと可愛らしく微笑んだ。
『仲のいいご兄妹ですね。素敵です! 』
「……あーまぁ。悪くないよ。よく足蹴にされてるけど……というか、空風さんが、まさかこのアパートに住んでいるとは思わなかったよ」
『はい! 四月からここをお借りしてます。 隣人が押野さんで安心しました! 』
可愛らしくタブレットを見せてくる空風さんから、すっかりと怯えは消えていた。
確かに上司とはいえ、家まで付いてきてたら怖がるのも無理はないが。そんなすぐに警戒心を解かれると少し心配になる。
いや、俺は何もするつもりはない。なんなら推しとはネットの中で何度も実質同棲してるまであるのだ。
妄想内の推しがエプロン姿で『おかえり』と出迎えてくる姿を必死にかき消しながら意識を現実に帰還させる。
「うん。なにかあったらいつでも連絡して。あとで近くのスーパーのセール時間とか送るよ! あとうまいラーメン屋とかね」
『ありがとうございます! 今度一緒に是非!』
「お、おう。一緒かはともかくだけど……じゃ、お疲れ様! 」
『お疲れ様でした!!』
今度こそ空風さんと別れると、家の扉を再度開ける。
眼鏡をかけた妹が、今時のお洒落20代ファッションで仁王立ちしていた。着替えなおさんでも。
「お兄ちゃん。今のクッソ可愛い女の人、もしかして彼女?」
「ちゃうわ。四月から入ってきたただの後輩だよ」
「でしょうね。お兄ちゃんは外面いい人だけど、中身はVオタだもんね」
「うるせぇ。ご飯は?」
「非番の妹に作らせる鬼畜男に食わせる飯があると思うか?——あるよ。風呂入ってきな。」
「俺お前のそういうとこ好きだよ。今度ゲームを買ってやろう。」
「私は出来る妹だけど、お兄ちゃんも大概激甘だよね。妹はお兄ちゃんが悪い人に騙されないと心配だよ」
俺たちは若干男勝りで心配性な優しい妹と感謝を交えた茶番を終わらせ、着替えて風呂場にいく。
推しのSNSを確認。
……今日も目ぼしい更新はなしと。
俺はミウミウの歌枠配信を流しながら、防水ジップロックに入れる。
全裸になり、いざ浴槽へ向かおうとした瞬間、SNSの通知音。瞬間的に俺はスマホ画面を見る。通知をオンにしているのは推ししかいないからだ。
『おひさしミウ~! ごめんねお仕事慣れてきたから久しぶりに呟いてみたよ~! 寂しかった? 』
うおおおおおおおおおおおおおおおお!! 呟きキタァアアアアアアアアアアアアアアアア!!
「寂しかったよぉおおおおおお!!」
リアルでも叫びながら、俺はSNS内でも同じ内容を叫んでリプを返す。次々とミウミウが推しのリスナーもそれぞれ喜びを表現しながら返していく。待っていたぜこの時をよぉ!
『今日は新しい会社でとっても嬉しいことがあって気分がいいから! ちょっとだけ夜に配信しようと思います!! リスナーさんからの好きって気持ちを裏切りたくない! 』
スゥーーーーーーーーーー(深く息を吸い込む音)
数度の深呼吸を繰り返し、俺はボディタオルを肩にかけて浴室の扉を開いた。
「勝ったな、風呂入ってくる」
俺は、世界の中心に全裸のまま走りこんで愛を叫びたい気持ちを落ち着かせるように、浴槽に飛び込んだ。
なお心の中では狂喜乱舞。無限にこみ上げてくる幸福と圧倒的焦がれた気持ちが嵐となって展開されていたため、顔のニヤニヤは、風呂を上がった後も妹に引かれるレベルで止められなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます