銘仙だけが
増田朋美
銘仙だけが
今日は、一年でも名物と言われる大型連休の最後の日でもあった。そんな日は、なんだか長い休みが終わってしまうということで、名残惜しいというか、どうもなんだか変な気持ちになるものだ。そんな中でも、いつもと変わらないで残ってしまう物がある。
その日、今西由紀子は、仕事が休みだったので、久々に製鉄所に行った。と言っても、鉄を作るところではなく、体や心に障害があって、居場所がない人達に部屋を貸している福祉施設である。いわば、コワーキングスペースを福祉化したものであるが、この施設には単に通っている人ばかりではなく、たまに間借りをしているものがおり、磯野水穂さんが一人間借りをしていた。
由紀子が、製鉄所の四畳半に行ってみると、ちょうど、杉ちゃんが水穂さんにご飯を食べさせようとしているところであった。水穂さんは、いくら食べさせてもらって、食べ物を口にしても、咳き込んでしまって吐き出してしまうのだった。杉ちゃんにいくら食べろと言われても、食べられなかった。
「一体どういうつもりなんだろうね。何度やっても食べ無いじゃないか。どうしてかなあ。飲み込もうとしてむせちゃうのか、それともアレルギーの問題かな。」
杉ちゃんは大きなため息をついた。
「もうなんとかならんかな。」
杉ちゃんがそう言った時と同時に水穂さんが咳き込んだ。由紀子が急いで水穂さんの側に駆け寄って、水穂さんの口元をちり紙で拭いてやると、ちり紙は赤く染まった。
「やれ、またこれか。」
吐いたものは、水穂さんの着物の一部を汚した。
「もう、汚いままで寝かすわけにいかないから、ちゃんと着替えるぜ。ほら、横になって。」
杉ちゃんに言われて、水穂さんは布団に横になった。こういうふうに立って歩くのが難しい人を着替えさせる場合、上下に別れたパジャマより、日本式の着物のほうが、意外に楽に着替えられるのである。杉ちゃんはタンスの中から一枚の着物を取り出して、水穂さんに寝転がったまま着替えさせた。このとき取り出したのは、茶色の、井桁柄をあしらった銘仙の着物である。杉ちゃんは当然のように着物を着せたのであるが、由紀子はどうしてこの着物であるか、ちょっと不思議であった。いつも銘仙の着物ばかり着ている水穂さんは、なんだかそれしか着られないというのは、可哀想だと思った。
「どうしたんだよ。由紀子さん。何をそんな顔して見てるんだ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「なんだか可哀想な気がして。」
と、由紀子はそれだけ言った。
「まあ、そうだけど、身分制度というか、同和問題が解決するってのは遠い先だな。着るものもそうだけど、とにかく、ご飯を食べてもらいたいよ。」
杉ちゃんがでかい声でそう答える。確かに、ご飯を食べることのほうが、着るものより大事なことなのかもしれないが、由紀子は本当に不条理だなと思った。水穂さんは、新しい着物に変わっても咳き込んでしまうので、由紀子は心配になって、水穂さんを見た。それと同時に水穂さんが細い声で、
「僕は銘仙の着物だけしか着られない。」
と言った。杉ちゃんはすぐにそうだねといったが、由紀子はそのとおりだということができなかった。
「まあ、しょうがない。着るものは仕方無いから、それより、ご飯を食べてくれ。まだ、老人と呼ばれる年齢では無いし、喉の老化とかでむせるということは、まだないはずだよ。食べられないのは精神的な苦痛だろ。そういうことだったら、がんばって食べられるようになってよ。」
杉ちゃんは呆れた顔をしてそういったのであるが、由紀子は、水穂さんがなんだか不憫だというか、そんな気がしてしまうのであった。
それと同時に。
「こんにちは、右城くんいる?ついでに杉ちゃんにも話を聞いてもらいたいわ。着物に詳しい人にぜひ話を聞いてもらいたいの。ちょっと聞いてよ。」
という女性の声がして、杉ちゃんと由紀子は顔を見合わせた。
「ああ、はまじさんだ。」
と、杉ちゃんは言った。確かにサザエさんに登場してくる花沢さんの声によくにた浜島咲の声は、とても個性的な声なので、よく聞こえてくるのである。
「なんでこんな時に。」
由紀子はそう言ったが、多分着物のことで相談をしたいと言っても、相談するところがないというのが、今だからと言って、杉ちゃんは咲を通してやれと言った。
やはりやってきたのは、浜島咲であった。一人若い女性を連れている。咲はその女性を、お琴教室に一緒に来ている、荒木小夜子さんという名前だと紹介した。咲も彼女も、テカテカに光った、紋綸子の色無地を身に着けていた。咲はピンクの色無地で、荒木さんと紹介された女性は、緑の色無地を着ていた。帯は袋帯をふたりとも二重太鼓に結んではいるが、もしかしたら作り帯をつけているのかもしれない。最近の作り帯は、作り帯だとわからないように精巧に作られている作り帯も珍しくないので。
「どうしたんだよ。二人揃って色無地なんか着ちゃって。どっかへ行ってきたの?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい。そうなのよ、実は今日ね。二人で、国立能楽堂まで行ってきたのよ。とてもおもしろい能が上演されるって言うから。一人だと、つまらないから、彼女と一緒に行ったのよ。だけどね、能楽堂に入ったら、着物を着たおばさんにね、若いくせに年寄りの格好をするなんて生意気だと言われて、がっかりして帰ってきたのよ。色無地に二重太鼓なんて、理想的な格好だと思うんだけど、どこがまずかったのか、杉ちゃん教えてよ。」
と、咲は答えた。
「たしかにそうですね。能楽堂というところは、着物で良かったなではなくて、着物を着て当たり前というところだからな。それと同時に着物の格も知っていて当たり前というところだ。だから、着物を着ていれば何でも大丈夫というところでは無いよな。」
と、杉ちゃんが言った。
「それではあたしたちは、なんの着物を着て、能楽堂に行けばよかったのかしら?杉ちゃん教えてよ。」
咲がすぐに杉ちゃんにいう。
「うーんそうだねえ。確かに、色無地は、未婚でも既婚も着られるけどさ、色無地ってのは、オールドミスとか、未亡人などと呼ばれている、おばあさんが着るのだぞ。だから、はまじさんたちくらいの年齢であれば、振袖を着るのが一番だよな。能を見に行くってなると、シテがなんの面を被るかによっても変わるだろう。例えば、翁みたいな神が主役の能であれば、本振袖を着るのがいいんだろうし、頼政みたいなヒーローが現れる能であれば中振袖、その他人間が主役なら、小振袖と使い分けるんだよ。」
杉ちゃんはそう着物の決まりを教えた。
「それに、着物を着て当たり前と思っている人たちは、着物の対象年齢もわかっていて当たり前だからな。それで、お前さんたちが色無地なんか着て能楽堂に行ってしまったとなれば、着物を知らなすぎるとして、気を悪くしても仕方ないよ。それに、宗家が出るとか、そういうことであれば、色無地なんかより、振袖のほうがずっといいよ。まあ道中変な顔して見られて嫌だとか、思うかもしれないけどさ、そういう場所だと思ってさ、これからは気をつけろな。」
「そうかあ。そういうことがあるわけね。つまり色無地はお年寄りの着物ってことか。あたしたちではまだ若すぎると。」
咲が杉ちゃんに言うと、
「そういうことさ。若いやつの着る着物は、元禄袖だからな、よく考えてみな。元禄袖の色無地なんて無いだろうが。皆角張った、たもと袖をしてるでしょ?」
と、杉ちゃんは言った。
「ああ、そういえば私も見たことなかったな。そうか、元禄袖って、袖の丸い着物のことでしょ?ああ、そういうことか。袖が丸い元禄袖であれば若い人、角ばっていれば、お年寄りようなのか。それは、知らなかった。確かに袖の丸い色無地は、私も見たことがない。それに、何も柄を入れないで、地紋だけで楽しもうなんて、つまんないものだしねえ。」
咲がそう言うと、杉ちゃんの着物の話は続いた。
「それに、留め袖でたもと袖にするんだったら、配偶者がいて、そいつが存命であり、なおかつ、子孫を残した女性が着るもんだよな。昔は、黒留袖を礼装にするんだったら、配偶者がいてなおかつ、子供がいるという女性しか着用できなかった。子供がないとか、配偶者がいないとか、そういう女性は、もう他人に共有できる縁がないということで、色無地という、何も柄がない着物を着たんだよ。だから、若いやつが色無地を着てまずいというのはそういうことでもあるんだ。若いやつは、まだ所帯を持ってないということで、相手を募集している、つまり袖を振って求愛をできるという意味で袖を長くした。そういうわけで、振袖と留め袖とはぜんぜん違うし、色無地は、若いやつにはまずいんだ。」
「そうなのねえ。あたし、そんな決まりがあるなんてちっとも知らなかったわ。じゃあこれからは、色無地を着るのはやめて、振袖を着ることにしよう。ねえ、小夜子さん。」
咲がそう言うと、荒木小夜子さんは、
「ありがとうございます。着物の勉強になりました。私達、せっかく着物を着ていって、能楽堂でいきなりおばさんにちょっとあなた達なんて言われたから、交通違反でもしたのかなと思ってしまって、びっくりしました。どうしてなのかなってずっと考えていたんですけど、教えてくれて嬉しかったです。」
と、杉ちゃんに頭を下げた。
「確かに、着物はいろんないわれがあって、本なんかでも着物のルールは書いてあるけど、その理由はなぜかとかは、明記されていませんよね。ただ、着物の本に従っていれば大丈夫なのかと言われたら、そうは限らないですね。」
と、水穂さんが布団に寝たままそういった。由紀子は、水穂さんの前で、長話をして、しかもなんだかのんべんだらりと語っている咲を見て、なんだか咲に早く出てほしいという気持ちから、咲に対して、怒りの気持ちのようなものが湧いてしまったような気がした。
「まあ、そういうことか。わかったわ。杉ちゃんの言う通り、次に国立能楽堂に行くときは、振袖を着よう。」
「そうそう。振袖も3種類あるんだぜ。本振袖、中振袖、小振袖ね。能を見に行くときは、宗家がでるかとか、シテがなんの面を被るかとか、そういう事をちゃんと、調べてから着物を着るんだぞ。」
杉ちゃんに言われて小夜子さんは、
「でも、振袖をたくさん入手できるでしょうか?」
と聞いた。
「いや、リサイクルや、フリマアプリですぐ入手できるわ。洋服と同じ価格で入手できるから大丈夫。」
咲が小夜子さんに言った。
「そうそう、ひどい例では、500円とかで入手できることもある。だから大丈夫なの。着物は今はリサイクルで身近なもの。もっと積極的に着こなして楽しんでよ。」
楽しそうに話している杉ちゃんや、咲を眺めて、由紀子は、何故か震えていた手を握りしめた。なんで、水穂さんの前で、そんな話をするのだろう。確かに着物はそのくらいの価格で入手できるかもしれないけれど、でも、銘仙の着物だけしか着られない水穂さんに、振袖の話をするなんて、ちょっとひどすぎる。
「そうなんですね。あたし、着物のことなんて全然わからなかったけど、浜島さんが、着物は楽しいって言ってくれるから、それでトライして見たんですけどね。始めは、何がなんだかわからなくて、とりあえず、ポリエステルの着物を買ってたんですけど、国立能楽堂ではやっぱり正絹の着物を着なければならないと思って、とりあえず何も柄のない色無地を買って行ってみたら、おばさんに注意されて。そうしたら、浜島さんが、着物に詳しい親切な人のところに連れてきてくれた。着物を着るようになって、人間関係もなんか変わったみたいです。本当に、教えてくれてありがとうございました。」
小夜子さんは、にこやかに笑って杉ちゃんに頭を下げた。
「いやあ頭を下げなくたっていいんだよ。だって、昔は親が教えてくれたようなものだ。だけど、今は、誰も教えてくれる人はいないからな。それに帯結びも、二重太鼓は既婚者の礼装に結ぶもので、振袖のときはだめだぞ。もし結ぶのが難しいんだったら、作り帯を買ってもよし、手芸の本で作って見てもいいさ。意外に作り帯を作る作業も楽しいよ。着物は楽しみもいっぱい作ってくれるぜ。良かったな、いいものに出会ってさ。はははは。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「和裁屋なんて、職人気質の気難しいひとだと思ってたけど、意外にそうでも無いってことね。杉ちゃんみたいに何でも丁寧に教えてくれる和裁屋さんがいてくれて良かった。杉ちゃんって着物の事は、何でも知ってるのね。すごいなあ。」
咲がそう感心している間、水穂さんが二三度咳をした。その顔が苦しそうな顔だったので、由紀子はもう我慢できなくなって、
「もういい加減に水穂さんを休ませてもらえませんか!こんな病人の前で、長話はしないでください!」
と、甲高く言った。
「ああ、ごめん。申し訳なかったね。僕も着物を作ることが、仕事のようなものだからさあ。それで、楽しくやってきたからついつい、着物のことで、長話をしちゃうと、なんか話したくなっちまうのよ。」
と、杉ちゃんが笑ってそういうのが、由紀子はなんだか水穂さんが可哀想に見えた。
「同じ着物と言っても、水穂さんは、普通の正絹の着物も着られないし、紬の着物だって着られないのよ。そんな人の前で、振袖の話なんかしないで。お願い。」
由紀子は涙をこぼして泣き出してしまう。
「紬、、、ああ、あの、黒大島とか、結城紬とか、そういうブランドの着物か。確か、江戸時代には、お百姓さんの野良着で、それで高価でも新たまったところには着られないっていう着物ね。確かにあたし、時代劇で見たことあるわ。確か、江戸時代の時代設定で、女の人達がおしゃべりしていたシーンだったかな。悪役が主人公に言ってたわ、まあ紬よって。」
咲は、自分の記憶を思い出しながら言った。
「それに私も、お琴教室で、紬の着物を着て、えらく叱られたことがあったわ。お百姓さんの着物で、お琴なんか弾くものでは無いって。その時はなんで叱られたんだろうって、よくわからなかったけど、やっぱり日本の歴史とか投影されているのよね。それでなるほどって思ったわ。私なんて普通の正絹と紬の違いもよくわからなかったけど、紬は、ザラッとしていて、所々に毛玉みたいにコブがあって、織り目が盛り上がって見える着物のことなのよね。着物も皆同じだと思うけど、そうでもないってことか。あたしも、これから気をつけよう。」
「はまじさんも、だんだん着物に馴染んできたね。やっぱりお琴教室で働いている様になると、着物も様になるか。」
杉ちゃんに言われて咲はちょっと照れくさそうにそうねといった。
「でも、水穂さんは、その紬の着物すら着られない。」
由紀子は、そうのんびりいう咲に敵意のようなものを感じて、そういった。
「そういう人だっているのよ。」
由紀子がそう言うと、小夜子さんが、
「紬の着物すら着られないのであれば、何を着ていたんですか?普通の正絹とかポリエステル以外になにかあるんでしょうか?」
と、由紀子に聞いた。由紀子は、そう言われて、何故か水穂さんの事を、話すことができない気がした。一般的に言えば、江戸時代に設定されていた身分制度から外れている人達が来ていた着物を銘仙というのだが、それを小夜子さんに説明するとなると、より水穂さんが可哀想になってしまうのだ。小夜子さんはおそらく日本の歴史のこととか、そういう事をあまり良く知らないのだろう。そういう人に、その本人の前で、身分制度の事を平気でペラペラと喋ることができるものかどうか?それを話してしまったら、なんだか、余計に水穂さんのことを侵害してしまうような。どうしようと由紀子が考えていると、
「まあなあ、水穂さんみたいに、銘仙の着物しか着られないやつもいるんだよな。銘仙というと基本的には室内着で、外で人前で着てはいけない。その理由を話すと、人権侵害になるからあまり公には公開されていない。」
と、杉ちゃんができるだけ軽くそう話してくれた。由紀子は、それに便乗してなにか言おうかと思ったが、水穂さんがまたしても咳き込んだため、それはできなかった。今度は咳き込むのと同時に内容物がでた。由紀子が、それを、ちり紙で拭き取ってやると、内容物が朱肉みたいに真っ赤になっているのを目撃した小夜子さんは、
「わかりました。こうなってしまうくらい貧しい人がいたということは、私もなんとなくですけどわかります。今であれば、簡単に治療できちゃうけど、そうじゃない人がまだいるんだと思うことにします。」
と言った。杉ちゃんが、
「ちょっと意味が違うけど、そういうことにしてやるか。どうせ、理解するのは難しいと思うからな。」
と、でかい声で言ったため、皆一瞬だけ静かになった。そうなのだ。そういう身分の人が要るということを、人前で口外する事はタブーと言うか、やってはいけないことなのだ。それはもちろん、これからの世代の人に教えていかなければならないけれど、本人の前で口に出してしまったら、本人を傷つけることにもなるだろう。だからしてはいけない。それは、当たり前のことなんだと思う。日本の文化は黙っていればよいとされるだけではなく、隠す文化とも言える。それは、難しいところだけど、、、それに従っていくしか無い。
「とりあえず、そういうことだとお前さんが思ってくれればそれでいいよ。」
杉ちゃんがそう言うと、咲もそうねえとしか言わなかった。小夜子さんはそれ以上銘仙の着物とはどういうものなのか聞くことはなかった。
「まあ、今回は杉ちゃんに着物についてのいい話も聞けたし、勉強になったから、ひとまず帰るわ。変えることができるものとできないものってあるもんね。」
咲と小夜子さんは、椅子から立ち上がった。二人が、そそくさと帰っていくのを、由紀子はなんだか、良いことをしたのか悪いことをしたのかわからない気持ちで見送った。
銘仙だけが 増田朋美 @masubuchi4996
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