番外編97 紅茶に染まる翼
ビシャッ!
温くなった紅茶を頭からかけられた。
顎から垂れた紅茶が、お仕着せの紺色のワンピースに染み込み、どんどん色が変わって行く。
白いエプロンにまで染み込んでしまうと厄介だ。紅茶は染みになり易い。
「あららぁ?ちょっと手が滑ってしまいましたわ」
こんな風にダイナミックに手が滑る奴なんかいない。
「…………」
紅茶をかけた相手は、この伯爵家のお嬢様、イライザーヌだ。
生まれ付きの顔立ちは悪くないのだが、性格が反映したらしく、目尻がつり上がり、小鼻を膨らませ、口端も引きつったように上がった、絵に描いたような「意地悪令嬢」の顔だった。
そして、紅茶をかけられたアンブローズは、イライザーヌの二歳上の義理の姉だ。
物語でよくあるように、アンブローズの母が亡くなった後、すぐに後妻が入り、イライザーヌはその連れ子。
再婚してしばらく後、かつてのように父が不在がちになると、アンブローズの待遇は一変した。
親しかった使用人は解雇され、アンブローズは使用人に落とされた。
蝶よ花よと育てられた伯爵令嬢に、反抗なんて出来るわけがなかった。
お茶の淹れ方や掃除洗濯のやり方なんて知らない。
散々失敗して、怒鳴られ食事を抜かれ、水やゴミを投げ付けられ、部屋は埃だらけの物置でロクな寝具も服もない。
心が折れたアンプローズは、唯々諾々と従っていた。
ただし、今までは!
前世の記憶なのか、憑依なのか分らない。
わたしの意識が覚醒したからには、奴隷染みた使用人なんかやるわけがない。
物語のよくあるパターンのように、記憶が怒涛のように流れ込んで来て頭痛がするとか発熱するとかは、全然ない。
「何か買うつもりだったんだけどな?」と買い忘れていた品物を、すっと思い出したぐらいのあっさりさで、わたしは自分がアンブローズだと認識していた。
過去の記憶も問題なくある。
そして、違う世界で生きていた時の記憶も。
だから、分かる。
後妻の義母は元は平民でも入籍しているので貴族だが、父と養子縁組をしていない連れ子のイライザーヌは単なる平民、ということを。
どうも、かなりの誤解をしているようだが、令嬢でも何でもなかった。
嫡子のアンブローズは当然、貴族。社交界デビューもしている。
その後、母が亡くなったため、夜会やお茶会は二回程度しか行ったことがなく、今はこんな使用人の真似事をさせられていても、貴族のアンブローズの方が身分は上なのだ。
十五歳になったのに、イライザーヌは社交界デビューしてないのを、アンブローズは不思議に思わなかった。
心が折れて何もかも無関心になり、どうでもよかったので。
後妻は元平民なので社交界デビューのことなど、まったく知らないのだろう。
アンブローズが父に何とか連絡を取ることが出来れば、環境の改善はするだろう。教育費をかけて育てた立派なコマなのだから。
ただ、父が屋敷に中々来ないのは、愛人たちの相手に忙しいからだろうし、居場所が分からない。
娘共々放置するなら、再婚するな、と誰でも言いたくなるが、再婚しないままだと、延々と見合い話を持って来られるのが鬱陶しくて適当に決めた、としか思えない。
「そこの使用人、みっともないから下がりなさい!」
グダグダと変わり映えのしない罵倒を繰り返していたイライザーヌだが、反応しない
ようやく、行動を決めたわたしは、すっと距離を詰めると、イライザーヌの手から扇子を奪い取った。
そして、イライザーヌが反応出来ないうちに、彼女の顎先を横から扇子で突く。
脳震盪を起こさせたのだ!
わたしは彼女のジャラジャラ着けてるネックレス、イヤリング、ブレスレット、指輪といった装飾品を全部外してお仕着せのワンピースのポケットに入れると、そのまま、裏口へと走り出した。
盗んだのではなく、当然の権利の一部を取り戻しただけだ。
権利のない平民が伯爵家の財産を食い潰していたのだから。
周囲に他の使用人はいなかった。
イライザーヌが我儘放題で癇癪もよく起こすので、何だかんだと理由を付けて中々近寄らなくなっていた。
わたしに用事を言い付けて、市場へと行かせることも多かったので、誰にも止められなかった。
敷地の外へと出ると、わたしはまずエプロンを脱ぎ、紅茶で濡れた頭を拭った。砂糖が入っていたので、ねたねたするのが気持ち悪い。
どこかで洗えたらいいのだが、しばらくは我慢するしかない。
出来るだけ身支度を整えつつ、市場へと早足に歩いた。
昼下がりの市場は、そこそこ人がいるだけで、まったりとした時間が流れていた。
まず行く所は質屋。
イライザーヌから取り戻した宝石の一部を換金するのだ。
こういった場合、お仕着せ姿だと貴族のお遣いでこっそり換金しに来た、と思ってもらえるのでちょうどいい。そうじゃなければ、こんな小娘、足元を見られまくるだろう。
ピンクの石のイヤリングの片方は、思ったより、いい値段になった。
すると、わたしが思うより希少価値がある石だったらしい。
もう片方を売る時はもう少し慎重になろう、と思いつつ、質屋を後にし、古着屋で着替えを含めて一通り手に入れ、その紹介の店で下着だけは新品を買った。
雑貨屋にも行き、旅の支度を整えて行く。
移動は行商人の馬車に乗せてもらおう。使用人として使われていたので、一通りは出来るようになっていたし、料理も作れる。
貞操の心配は無用だった。
元々は綺麗だと言われる令嬢だったが、過酷な生活のせいで痩せ細り、指や爪もひび割れ肌もかさかさ、手入れが出来ないパサパサの髪も不揃いで、もう見る影もない。
そうして、わたし…アンブローズは、このヒマリア国から消えた。
それから数ケ月後。
アンブローズの生家だった伯爵家はお取り潰しとなった。
伯爵夫人の喪が明けても、社交界デビューをしている嫡子の令嬢…アンブローズが、まったく姿を見せないことを不審に思い、調査が入った結果だった。
アンブローズを追い出し、乗っ取っていた自称後妻と連れ子は処刑された。
外聞を気にした伯爵は、実は、後妻との入籍すらしてなかったのだ。
最初から、平民と結婚する気がなかったのかもしれない。
その伯爵も文官として役所で働いてはいたが、爵位を笠に着るのと愛人通いだけが熱心で、ロクな仕事はしていなかったのが公になり、クビ。
管理不行き届きで爵位も剥奪され、平民に落とされた。
代官に任せ切りだった領地はまったく問題なく、王領として預かることになった。
行方不明のアンブローズは探されなかった。
世間知らずの箱入り令嬢がたった一人で生きて行ける程、この世界は甘くない。
もし、生きていても悲惨な境遇に陥ってるに違いなく、もう貴族令嬢としての価値もなくなっているだろう、と。
「心が折れたアンブローズだったら、確かにそんな末路だっただろうね」
違う世界の記憶を思い出した新生アンブローズ、現アンナは他人事のようにふっと笑った。
今いるのはラーヤナ国キエンの街で、大人気食堂のオーナーになっていた。
イライザーヌから取り戻した宝石を売った資金で、店を作ったわけではない。
よそ者の小娘がそんな目立つことをしたら、有力者やならず者に目を付けられるだけだからだ。
なのに、食堂のオーナーになり、毎日が楽しい幸せな生活をしているのは……。
「アンナ、そろそろお昼にしよう」
「はーい」
アンナが混ぜてもらったラーヤナ国へと行く行商人一行、その護衛冒険者に、「にゃーこや」の従業員が混じっていたからだ。
明らかに「ワケあり」のアンナだったが、違う世界では料理好きで色んな料理を作っていただけに、隊商の料理を担当していた「にゃーこや」の従業員とも意気投合したのだ。
前世の記憶持ちは「前世持ち」と言われ、有用な知識を持っていることが多いため、有力者に見付かると、いいように使い潰されることになる。
それを避けるため、慈善事業もやっている「にゃーこや」で保護していた。
鑑定で分かることもあって、アンナもスムーズに保護されたのである。
アンナは特に中華料理が好きで、よく作っていたため、開いたのも中華料理の店だった。
要望が多かったため、中華まんは市場の屋台でも出しており、これまたいつも行列が出来ている程、大好評だった。
マトモな生活が出来るようになったアンナは、みるみる前の美しさを取り戻し、友達もたくさん出来て、欲しい物は買えるし、好きなことも何でも出来るようになった。
開業準備と軌道に乗せるために、かなり忙しく、復讐をやってる暇なんかなかった。
それに、放置してもいずれは自滅するだろう、とはアンナも思っていたのだ。何もしないのが最高の復讐、とも言えるだろう。
これで彼氏でも出来れば言うことないのだが……プライベートスペースのダイニングで昼食を食べながら、アンナはちらりと向かいに座る「彼」を見やる。
彼もどこかの国の元貴族だろう。整った顔で貴族的な優雅さで綺麗な仕草なのだから。
「にゃーこや」から派遣されて来ている従業員で、店の護衛も兼ねていた。
大人気食堂なだけに、やっかむ輩もいるからだ。
十歳は上だろう彼に、アンナは女として見られてない。全然、まったく、これっぽっちも。
危機感が薄かったアンナは、彼に散々叱られた。
仕事としてだけじゃなく、彼自身が心配しているからこそ、キツイことも言うのだ、と知ってからは「なんて不器用な」と好きになってしまった。
しかし、「今は」だ。
もっと自分磨きをして「彼」を振り向かせよう!
アンナの戦いはこれからだった。
次の更新予定
2025年12月16日 12:06
快適生活の異世界【番外編】 蒼珠 @goronyan55
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