番外編22 鬼の霍乱(ONI NO KAKURAN)
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注*転移前の話です。
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朝食後のコーヒータイム。
早く出勤する茜はあまりゆっくりは出来ないが、職場が近い英樹はゆっくりと茜を見ていられるので。
そして、その後に茜を見送る時間が一日で一番嫌いな時間だった。
茜不足な今は特に。
あまりに
今日も元気に茜は出勤し、英樹は渋々と
お盆休み前なので
しかも、一ヶ月ぐらい前に入ったバイトの男がいまだに使えない。
先天的に手際が悪いのか、何かしら軽く障害があるのかするらしく、優先順位を間違え、机の上の片付けも出来ない。
長年いる事務パートのおばさまたちに叱られても悪びれず、足を引っ張りまくり、勝手なことをして更に余計な仕事まで増やしてくれたりもする。
これで英樹より七歳上、今年三十歳というのだからバイトすら続かないワケだ。ここも試用期間の一ヶ月で終了が決定になっていた。
同時期に入ったパートの女性は育児でブランクがあっても、前職は割と大手の会社の経理に勤めていた、というだけある有能さで、その差が際立ってしまったのもあるかもしれない。
パートのおばさまたちが帰ってから夕方以降の人手が欲しかったのに使えないバイトなので、その元経理の女性にもう少し遅くまで働いて欲しい、と交渉中だが、幼稚園児と小学生の子供がいるし、扶養の関係もあるので無理は言えない。そもそもフルタイムで働けるのなら別の仕事を探したことだろう。
学生たちは時給が安過ぎて応募して来ないし、英樹も後輩たちに悪くて声をかけられない。
税理士を目指してるのなら実務経験が稼げるのでまだいいのだが、難易度の高い試験だし、実務経験は普通の会社の経理でもいいワケだし、他に割のいいバイトや仕事はいくらでもある。
英樹の受け持ちの顧客は何とかなるが、夕方以降の雑務を引き受けてくれる人が誰かいないだろうか。
夕方五時から八時までのたった三時間でいいのだが、家庭持ちは忙しい時間帯だし、いくら堅い職種で信用度抜群の法律関係とはいえ、個人事務所で時給も安いと中々応募がない。
まぁ、英樹が考えることじゃなく、所長の檜山が何とかするだろう。
コストはかかるが、能力もそれなりを求めるのなら秘書代行サービスや専門職派遣を使ってもいいのだから。そういった割り切りも時には必要だと教えてくれたのも茜だった。
******
お盆直前の数日を何とかやり過ごし、このままお盆休みに入れた…なら、よかったのだが、明々後日にはお盆休みという水曜日、超過勤務のツケが溜まった身体がこの暑さに負けたらしい。
昼下がりの強烈な日差しによろめいて転びそうになったが、鍛えた身体が反射的に手を付いて受け身を取った。
しかし、膝を付いたまま立ち上がれず、さーっと血の気が下がり、冷や汗が背中やこめかみを伝い、視界が回り暗くなって目を閉じる。
マズイ。脳貧血だ。
対処方法はそのまま頭を低くしてしばらく安静に、が常道だが、日影がまったくない照り返しもある路上では熱中症になってしまう。
せめて日影に移動しないと。
だが、眩暈もしているので目が開けられない。記憶を辿るしかないか…。
「大丈夫ですか?何かの発作?救急車呼びます?」
そういえば、オフィス街なので人通りは常にあった。
声からしてどこかのおじさんだ。
「いや、脳貧血を起こしただけなので、すみませんが、どこかの日影まで手を貸してもらえませんか」
「じゃ、そこのビルに…」
「あ、おれも手伝いますよ」
若い男がもう一人加わり、両脇から手を入れて腕を取り立ち上がらせてくれたが、声が聞こえる位置からして、あいにくと、二人とも低めの身長で165cmもない感じだ。
190cmオーバーの英樹は細身だが、筋肉が多い分、それなりに重い。まぁ、誘導してもらえればいいので、潰さないよう英樹はなるべく自分で歩く。
近くのビルに入るとスーッと冷たい空気が心地よかった。
大きい会社だったらしく、受付嬢がヒールの音も高らかに駆け寄って来て、長椅子に誘導してくれた。
ネクタイを緩めてジャケットを脱ぎ、横になったことで眩暈もちょっと落ち着くが、まだ目を閉じていた方がいいだろう。
貧血と脳貧血の違い、対処方法を知っているのは、どちらもかつてやったことがあるからである。
大半の貧血は鉄分欠乏貧血で、成長期は成長に栄養が追い付かないので鉄分不足になり易い。
脳貧血は酸素を運ぶ赤血球の働きが低血圧で悪くなり脳味噌が酸素不足になってしまう貧血で、長身だと赤血球の旅も長くなり一番高い位置にある脳味噌まで酸素が行き届かないこともたまにあるワケだ。
そして、どちらの貧血もストレスが原因の一つになっている。
英樹は手探りでタイピンと袖のカフスを外し、ネクタイは丸めて最初に助けてくれたおじさんに頼んでバッグに入れてもらう。
そこに、受付嬢が濡れタオルとスポーツドリンクを持って来てくれたが、タオルだけ有り難く使わせてもらって冷や汗を拭うと、徐々に眩暈が治まって来て目も開けれるようになった。
「タイピンもカフスも使ってる若い人って今じゃ中々いないような……」
「…あ、税理士事務所の…」
出入りしている企業の人か、この近辺に通ってるので素性を知っていたか、不本意ながら目立つし、地元の有名人なので元々知っていたのか、のどれかだろう。
「はい。川瀬英樹と申します。助かりました。有り難うございます。後ほど、お礼に窺いますので出来れば名刺を頂けませんか」
まだ手先が使える所まで回復してないようなので、英樹は取りあえず名乗ってみた。
婿養子になって四年と少し。すっかり馴染んだ名前だ。
「いやいや、大したことはしていませんし…」
「ええ、気にしなくても…」
「『恩を受けたらどうやってでも返せ』が川瀬家の家訓でして、そうなると、防犯カメラから身元を割り出すことになりますが、そちらの方がよろしいでしょうか?」
嫌だったらしく、二人とも名刺を英樹の手に握らせてくれた。
「ところで、この近くの企業へ行く所だったんじゃないですか?連絡は大丈夫です?ご自宅の方へは?病院には行かれた方がいいですよ」
「…そうですね」
すっかり忘れていた。
英樹はまず所長の檜山に連絡を入れて、今日行く予定にしていたすべての企業に連絡を入れてもらい、大至急の案件は替わってもらった。
運転はしない方がいいので、社用車も取りに来てもらわないとならない。
続いて茜に連絡を入れる。
「ちょっと脳貧血起こしてその辺のビルで休んでるけど、早退して来なくていいし、大丈夫だから」
そう言ったらかつてない程怒られた。
【普段が丈夫だからって素人診断しないの!倒れるってこと自体が異常なんだから、その辺の人にタクシー呼んでもらってさっさと病院に行きなさい!
脳内出血やくも膜下や脳梗塞だったらどうすんの。鈍い人や部位によっても平気で動けちゃったりするのよ!】
そんな説教もされ、茜がこの場所から一番近い緊急外来に連絡を入れておくから、と病院で落ち合うことになった。
看護師の娘の言うことなので説得力もかなりあった。
ごもっとも、と英樹も後で反省したのだが、こんな時はやはり気楽な判断をしてしまい勝ちなものかもしれない。
******
タクシーが来る頃には英樹は大分気分がよくなったので、名刺を配り、受付嬢たちにもよくお礼を言ってからタクシーに乗り込んだ。
程なく病院に到着すると、病院の緊急外来出入り口側には看護師たちと病院の車椅子と、英樹の父…嵯峨翔悟が待っていて、ホッとしたように微笑んだ。
…そういえば、父の会社は病院から二駅離れてるだけだったか。
茜の今の現場が隣の市の郊外だし、泥だらけのまま病院に直行するワケにも行かないし、保険証を自宅に取りに帰ってからなら更に病院まで時間がかかる、と連絡してくれたらしい。
倒れた後ならまだあまり歩かない方がいい、と英樹は車椅子に座らされ、まず、熱の有無、血圧、脈拍、意識確認といったバイタルチェックをされた。
かなり血圧が低くなっていたので、このせいで脳に酸素が行き渡らず、脳貧血を起こして倒れたらしい。
診察室へと運ばれ、改めて診察され、採血もしたが、血圧以外は正常値だった。
食欲もあって寝不足でもないので夏バテでもないし、血液の比重バランスも健康そのもの、らしい。
食後だったので脳貧血を起こしても意識を失う所まで行かず、受け身も取れたようだが、食べそびれて血糖値が下がっていたらヤバかっただろうし、念のためもあって、脳のCTを撮ることになった。
茜の言うように脳内出血や脳梗塞はCTを撮らない限り分からないし、脳腫瘍が出来ていて血管を圧迫して、という可能性もあるからである。
診察時間外なのでCT待ちもなく結果も早く出た。
異常なし、である。
今まで低血圧でもなかったのなら、ストレスでしょう。心療内科の方へご相談を、という診断だった。
「まぁ、殺されかかったりしてるしなぁ」
階下の受付の方へと移動しながら、翔悟が感想を述べた。
時間外の精算も受付である。
異常がなく体調も回復した英樹は普通に歩いていた。
「もう一ヶ月も前のことでほぼ無傷だったのに?そっちより、顧客とその身内の不幸や入院が多過ぎることの方が問題だっつーの。寿命はしょうがねぇけど、夏は何故か多いし、高齢の顧客も多いから倒れる人も結構いるしさ~」
「ちゃんと健康に留意しろ」「もっと根性見せろ!」「亡くなるのならもっとバラけろ」と非常に言いたい。
…まぁ、倒れた英樹が「健康に…」と言ったところで説得力はまったくないが、精神的ストレスを作り出してる張本人たちが原因なワケで。
「法律関係だとどうしても人の生死に関わる機会が多いだろうしな。転職したらどうだ?塾講師とか議員秘書とか」
「何で議員秘書~。政治屋なんか尚更バカばっかだから嫌だっつーの」
「ボディーガードも兼ねたら高給取りだし、精神的疲労は少なそうだぞ。ま、それ以前に面接でハネられまくるだろうけど。自分より目立つ人は嫌う人種だし」
「ダメじゃねぇかよ~。塾講師の方がまだマシ。モンスターピアレンツの相手をするだけでいいんなら気楽じゃね?ちゃんと授業してやっても成績が上がらねぇのは本人が悪いんだし」
「そう簡単に行くと本当に思ってるんなら、とっくに塾講師になってるだろ。何の職業でも同僚や取引先や顧客と上手くやって行くのは難しいな。まして、対人関係が苦手な英樹だと尚更。キャパオーバーの自覚も甘いし。これを機に勤務態勢を見直すか、たっぷり休暇を取るんだな」
ぽんぽん、と翔悟に肩を軽く叩かれた。
父の身長は185cmだが、それ以上に育ってる息子の頭を撫でるには、少し遠かったらしい。
…いや、脳貧血を起こした所だから、というのもあるのか。
「いや、自覚があったからこそ、九月十月と休職をもぎ取ったんだけどな…ちょっと遅かったっつーか」
英樹が自覚していたより、疲労もストレスも溜まっていたのだろう。
翔悟たちに長期休職の話はまだしてなかった。色々と忙しかったので、近所に住んでいるのに会うのも久々だ。伝え忘れていた、とも言う。
「茜ちゃんの勧めで?」
「やっぱ分かる?…ったく、マジでおれなんかにはもったいないよく出来た奥様だよ。滅茶苦茶甘やかすしさ~。茜がいなかったらとうに倒れてたって」
「しみじみと、いい子だよなぁ。英樹の奥さんやって行くのもかなり難易度高いだろうに、更にウチの連中は良くも悪くも個性が強い面々ばかりで、胃袋もでかいから、上手くつき合ってくれる方が稀だと思ってたけど、茜ちゃん、対人スキルが超高いし」
「超とか言ってんなって。五十過ぎのオヤジが」
遠目だと兄(翔悟にとっては長男)と間違えられる程、若いが。
「じゃ、無茶苦茶。しかも、茜ちゃん、稼ぎもいいから、英樹が何もかも嫌になって仕事を辞めたとしても、生活的にも全然問題ないワケで。専業主夫になってもいいとか言いそう」
「言うだろうなぁ。魅力的ではあるけど、世界のあちこち行きたいんでそれなりの稼ぎは確保しねぇと。
…あ、そうそう、九月の三日から十一日までスペイン&ドバイ旅行。一週空けて十六日から二十四日までバンコク&サメット島旅行に行く予定だから」
時間外で通りがかる人がほとんどいない診察室前の通路なのだが、一応、周囲に人がいないのはしっかり確認済みである。
いまだにストーカーが定期的に張り付くので、予定を言う時には慎重に。
「おーとうとうスペインかぁ。いいなぁ。パックツアーで行くから別々ってことか?」
「いや、個人手配。ちょうどいいフライトがなくて連続だとかなり高く付くし、移動時間もかなり長くなっちまうし、別々の方が旅程の余裕も出来るから。物価の落差がスゲェのも別々にして正解だって。タイ旅行はかなりいいホテルなのに、スペイン&ドバイの半額以下」
「やっぱりヨーロッパは高いよなぁ。スペインだと直行便もないだろ。どこ経由?」
「ドバイ。地元空港からのフライトはねぇんで関空まで移動ってことで」
「世界一高いタワーに登って、
「いやいや、
「なら、南米の方がよくないか?ほら、何だった?鏡のようになる塩の湖」
「ボリビアのウユニ塩湖だな。乾季だからその鏡のような、が見れねぇ時期なんだよ。それでも、乾季も面白そうだし、マチュピチュも近いから、と思ったけど、南米は季節が逆だから真冬に標高が高いトコになっちまうし~」
「あーそれはちょっとなぁ。さすがにそうも温度差があると体調崩しそうだし」
エレベーターに乗り込み、二階の受付に降りると、見舞い時間になったらしく、人が結構いた。
ヒソヒソコソコソキャッキャッと周囲が騒ぐのはいつものことなのでスルー。翔悟も人気があるのだ。
そんなことより先に英樹は茜が早歩きして来るのに気付き、手を挙げた。
英樹が倒れた時、世話になった人たちに挨拶するつもりらしく、茜はスーツ姿だ。もうほとんど体調は回復しており、英樹の顔色もさほど悪くないので、ホッとしたように茜が微笑む。
「もう診察も検査も終わったの?何だって?」
「CTも撮ったけど、低血圧だった以外は異常なし。ストレスが原因だと思われますので心療内科へご相談を、だとさ」
「やっぱりハードワークのツケだね。さっさと帰って安静にしてるように。完全回復した後で判断ミスしかけたことに対して、しっかりと説教します」
「…予告するのかよ…」
いや、まぁ、しょうがないとはいえ。
英樹のボヤきは黙殺され、茜は翔悟に仕事早退して付いててくれたことの礼を言っていた。家族なので謝罪はいらないにしても、礼は必要である。
茜が持って来た保険証で精算すると、翔悟と別れ、英樹と茜はタクシー乗り場でタクシーに乗り込んだ。
英樹の体調もほぼ戻ってるし、後日にした方が先方にも迷惑だろう、とまずは日持ちする焼き菓子の菓子折を買い、英樹が倒れた時に世話になった人たちにお礼して回ってから、自宅マンションに帰った。
「夏バテでもないんだから、食べた方がいい物とかもないよね。夕食は何食べたい?天ぷら?」
英樹がシャワーを浴びた後、アイスを食べていると、茜にそう訊かれた。
「いいなぁ、天ぷら♪」
帰って来てから夜食で天ぷらは重いし、朝も同じくだし、昼、夕食と弁当は持って行っており、天ぷらもたまにおかずにして冷めてもサクサクなのに、更にオーブントースターでフライ温めはしてるものの、揚げ立ては中々食べられないのだ。
「じゃ、天ぷらね。野菜以外はエビとイカと白身魚とちくわと鶏天も食べる?」
「食べる♪」
「じゃ、買い物に行って来るよ。アイスを食べたらとっとと寝なさいね」
「はーい」
素直に返事をしておく。英樹自身も何も考えない休養が一番の薬だと分かっていることもあった。
まだ夕方にもなってない時間で外は焦げ付くような暑さだったが、室内はクーラーを入れて快適温度だし、遮光カーテンが日差しを遮ってくれる。
やはり疲労を感じていたのか、ベッドに横になってすぐに睡魔が訪れた。
翌日。
しっかり寝て休んで食べて、茜の補給もしたおかげか、英樹はまったく普通に元気になった。
まだ体調が、とか言って休みたい所だが、仕事を途中で放り出すワケにも行かず、人手も足りないので渋々と出勤し、お盆前の仕事は何とかクリアしたのだった。
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