番外編06 真に恐ろしいお菓子

「うわ~ふくらみ過ぎた~」


 嘆きながらも、Aはすかさず用意していたナイフで「えいっえいっ」と膨らんだ生地をつつき、オーブンの扉を閉めると温度を更に上げた。

 一度オーブンを開けてしまったことで庫内の温度が下がってしまうからである。見計らって下げないと焦げ過ぎるので、その辺の兼ね合いも難しい。


 ちなみに、オーブンの設定温度は開け閉めすると温度が変わり目安にしかならないので、庫内に入れるオーブン用温度計を入れてるので、温度は間違ってないのは確認済だ。場所によっても多少温度が変わる辺りが難しい。

 そう語るAである。


「…マジで難しいお菓子なんだな」


「そうなの。味はいいんだけど、お菓子は見た目も重要でしょ?久々だとやっぱ油断しちゃうなぁ」


 お菓子作りが得意なAとて、以前は三回に一回は失敗して、再利用アレンジしないと食べれない状態だったとか。その時に比べたら腕は上がってるハズだが、しみじみと繊細なお菓子だった。

 買い出しには昨日行ったし、日曜日の今日は出かける気分でもなかったので、久々に難易度が高いお菓子を作ってるワケだ。


 フランスのお菓子、カヌレである。

 外はパリッと中はもっちりで非常にクセになる美味しさだが、いかんせん、焼き加減が難しい。

 半日以上生地を寝かせるので時間もかかるが、それは冷蔵庫に寝かせておくだけでかき混ぜたり転がしたりする必要はないからいいとしても。


 ぐつぐつと生地が煮立って来たら今度は温度を下げて約三十分、トータル約一時間も焼く。

 他のお菓子と違う点は目安が分かったらタイマーをかけておけばいい、というワケには行かない所だ。生地の出来具合と外気温の影響によっても、焼き時間が変わったりするし、こうやって途中で開けてしまった後は、尚更だった。


 庫内の位置によっても焼きムラが激しかったりするが、実家にあった普通のオーブンより、ここの新居の高性能なオーブンは庫内の温度もコンピューター制御、それ程気にすることはないのはまだマシである。


 このカヌレの真に恐ろしい所は、他のお菓子と違って大半が砂糖という所だ!


 『』で、ダイエッターじゃなくても糖分摂り過ぎは身体に悪いので本当に食べ過ぎ注意なのだが、美味しいのがまたタチが悪い。

 なので、Aはあんまり作らないようにしてたので、上達も時間がかかってるワケだが。


「Aがオーブンに張り付いてるだけで、難しいお菓子なんだなってのは分かるけど、だから、その辺のケーキ屋でも見かけねぇワケ?」


「多分。安定して作ろうとするのはプロでもやっぱ難しいだろうし、手間考えたら他のケーキにするんじゃないかな。カヌレは何にもデコがないだけに誤魔化しが利かないし。スポンジケーキは端が売ってるように切って形を整えるからね」


 その辺でも商品にはならないんじゃないかと思う。業務用オーブンなら火力は問題なさそうだが、焦げ過ぎそうでもあるし。


「そういやそっか。Aがカヌレを作るのもおれが怪我してた時以来だし」


「あはははは。気合い入れないとならないんで~。他のケーキやクッキーの方が簡単だし~」


 日持ちするクッキーやパウンドケーキがどうしても多くなるが、それもバリエーションが色々あるので飽きは来ない。


「Aにとっては、な。通販だったらカヌレもあるかも?」


「さぁ、どうだろう?検索したことないし」


 カヌレ型という独特のギザギザ型(定番プリン型の縦に長くなったような形)を使うのだが、大きいオーブンになってもう少し増やそうとAがカヌレ型を買った時も、大半のお菓子道具のネットショップには置いてあるので検索かける必要もなかったそうだ。

 十年ぐらい前に日本で流行ったお菓子で、根強い人気があるようだが、最近ではもう滅多に見かけないので食べたことのない人の方が多いだろう(*注1)。


 じゃ、ググってみよ、とBはリビングのソファに置いてあった自分のミニノートPCをカウンターに持って来て検索してみた。


「…プ、プロでも失敗してワケありで商品出してるぜ…」


 笑いながらBがそう教えると、どれどれ?とAはカウンター越しにモニターを覗き込んだ。

 焼き色が薄かったりムラになってる物が通常価格の二割引ぐらいになっている。だいたい一つ、二百円だが、大きさは定番の直径五センチぐらいだろうか。他のお菓子よりやはり割高である。


「ホントだ。やっぱプロでも失敗するんじゃん。蜜蝋は…使ってあるんだ」


 カヌレは色んなレシピがあり、蜜蝋を使うのが本場フランスレシピだが、あまりの扱い難さに使ってないレシピも多い。

 Aは試行錯誤の末、規定量の半分はサラダ油にしてるが、それで成功している。蜜蝋はミツバチの巣の仕切りの部分で少々固く、あまり食べるとお腹を壊すそうだ。


「そういや、Aは最初はどこで食ったんだ?」


「あれ?話したことなかったっけ?N県に住んでた時に側にケーキ屋さんにあったの。本場フランスで修行して来たっていうふれ込みで。で、『フランスでは家庭料理ですよ~。作ってみましょう』とカヌレに限らず、色んなレシピも配ってたワケ。本によっても分量や材料って微妙に違うものだから、参考にした程度だけどね」


「そうしてレシピを配ることで、プロってすごいって思わせるワケだし」


「そうそう。一から材料や型を揃えたらとんでもなくコストもかかる、ということもね。やっぱり一番難しいのはチョコだと思うなぁ。特にテンパリング」


「シュークリームは?妹は結局成功しなかったけど」


「コツ覚えたら簡単だよ。カヌレもそうなんだろうけどね。たまにしか作らない、作れないから難易度が上がってるワケで。砂糖の塊だしさ~」


「甥っ子にはまだ早い感じ?」


「かも。ラム酒も結構入ってるし。アルコール分は飛ぶけどさ」


 五歳になったばかりの子供にはよくないだろう。


「じゃ、甥っ子用にはパンケーキでも焼く?」


「ううん、パンケーキは自分でもよく作ってるから健康的に大学芋でも作ろうかと。おかずにもなるし」


 Bの兄家族の所もウチも、という意味だ。


「そりゃいいな。…あ、いつの間にかアク抜きしてあるし」


 Bはカウンターの中に置いてあったボールに気付いた。

 そう、もうさつまいもは切って水にさらしてあった。火加減を見ながら下ごしらえもしてたワケである。


「抜かりありませんとも」


 えっへん!とドヤ顔するAが可愛い。


 そうして、カヌレを焼いてる間に大学芋も作り、熱々のウチに兄家族所へおすそ分けに行った。


 ******


 カヌレがそろそろいい感じに焼けて来たので、そこからAは慌ただしくなった。

 型から出して焼き色が薄い物は、また型に戻してもう少し焼き、ちょうどいい物はケーキクーラーの上で粗熱を取る。

 そして、合間にもう使わない物は片付けて、紅茶の準備。

 フランス菓子にはやっぱり紅茶だ。


 カヌレはそこそこ成功だった。

 外はカリッ、中はしっとり、しかし、どうしても焼き色が上手く入らないものがあったので、そこそこ、というAの評価なのだが、味はバッチリなので「そこまでこだわらなくても」とBは思った。

 砂糖が多いだけに濃厚なカヌレは、そう数は食べられないが、今では懐かしく……懐かしく?





 ******


 目覚めた時、ここがどこかB…アルは一瞬分からなかった。

 アリョーシャの街の宿「ランプ亭」の部屋の一室だった。

 菓子の甘い香り、オーブン近くの熱、適温の紅茶の温度も感じられた気がしたが、夢か。

 いや、忘れたくない記憶を再現しているのか、脳味噌が。


「こちらが夢だったらいいのにな…」


 ポツリと呟く。

 この手は自分の手じゃない。身体もまったく違う。

 茶髪に薄い水色の目、平凡な顔立ちのアルトの身体だ。


 A(妻)のいない世界は色せて見える。

 だから、妙に現実味がなく、危ないこともあまり危ないとは思えない。

 気軽にダンジョンに潜るのは、生死の間に身を置き、これは現実だと認識したいから、というのもあるのかもしれない。


――――――――――――――――――――――――――――――

注1*再々ブレイクする前の話です。

   今ではコンビニでも気軽に買える恐ろしいお菓子です。


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