第5話 押しに弱い僕が嫌いだ
朝、目を覚ますと窓の外では雨の音が鳴り響き、特有の土のような香りが鼻をつく。
「そういえば、もう6月か……。」
6月といえば、梅雨の時期だ。
雨の日は外に出るのが憂鬱になる、という人は多い。けれど、僕は正直雨の日は好きだ。
具体的にこれといった理由はないけど、何となく周囲が静かになるというか、落ち着いた雰囲気を感じやすくなるのがいい。
時刻は午前6時半。今日は遅刻じゃないな。
時刻を確認し、顔を洗った後ゴミ出しをするために僕は扉を開けた。
しかし、その行為が間違いだった。いや、日課というか、慣れた行為だったから避けようが無かったけど、それでも間違いと断言できる。
なぜなら……。
「あっ、矢田さん!おはようございます!」
「…………??」
そこには、満面の笑みで挨拶をする美少女の姿があったからだ。
状況の理解ができなかった。クエッションマークがいくつも浮かんで頭が真っ白になり、僕はそっと扉を閉めて鍵とチェーンをかけた。
扉に背を向けて、呆然と立つ。
数秒の沈黙。そして、僕は混乱していた。
…………どういうこと?
わけが分からない。どうしてあの子がここにいる?っていうか、なんで僕の住んでるとこ知ってんだ?教えてないはずだ。何しに来たんだ?またお礼?だとしてもこんな早くから?
いくつもの疑問が一気に頭をよぎり、全く状況が整理できない。
「あの……大丈夫ですか?」
扉の向こうから僕を心配する声が聞こえてくる。
声色から分かる。特に悪意があるわけじゃないんだろう。
深呼吸して何とか冷静さを取り戻し、チェーンはかけたまま扉を開ける。
「……何でここに来たの?」
「矢田君のことが心配になってしまって、何かお手伝い出来ることがあればと思ってきました。住所は加藤先生に教えてもらいました。」
前言撤回。先生は信頼できない。何で本人の許可なく住所教えてるんだよ。
先生への失望を押し殺し、返事を返す。
「いや、必要ないよ。私生活に影響はないから。」
「じゃあ代わりに何かさせてください。朝食でも何でもご馳走しますよ。食材は用意してきましたから。」
よく見ると、腕には小さなビニール袋をかけてある。
いくら非常識だとはいえ、自分のためにここまで用意してくれた相手を邪険にするのは気が引ける。
少し悩んでいると、今度は扉の前で深く頭を下げ出した。
「お願いします。元々は私のせいであなたに怪我を負わせました。どうか、償いのチャンスをください。」
そこまでされて、ようやく気付けた。自分のせいで怪我をさせてしまったという負い目を感じていたのか。そんな状態で何もするなと言う方が三谷さんにとっては辛い選択になる。
真剣で、真っ直ぐなその気持ちに、いつのまにか僕の中で三谷さんを突き返すという選択肢は無くなっていた。
「……案外、押しが強いんだな。」
「えっ?」
扉のチェーンを外し、三谷さんを迎え入れる。
「とりあえず上がって。急だったし、あまり部屋は片付けられていないけど。」
「……っ!はいっ!」
そう言うと、三谷さんは嬉しそうに笑顔を浮かべて、何度も何度も頭を下げる。
まったく、押しに弱い僕のことをまた嫌いになりそうだ。
○●○
その後ゴミ出しを終え、戻ってくると三谷さんが朝食の準備を始めていた。
チラッと調理の様子を見ただけでも、かなり手馴れたものだった。この分なら、もうそれほど時間も経たずに出来上がるだろう。
とはいえ、任せっきりにするのは気がひける。
「何か手伝おうか?」
「いえ!任せてください!とびっきり美味しいものを作って見せますから!」
三谷さんの勢いに押されて、仕方なくミニテーブルの前に座布団を敷いて座る。
それにしても、まさかここまで行動力のある人だとは思わなかった。いや、行動力もそうだけど、あれだけ距離を置く態度をとった相手にここまで食い下がれるなんて、相当な精神力だ。
「矢田くん!できましたよ!」
「あ、はい。」
三谷さんがそういって運んできたのは、味噌汁、ご飯、焼き魚と、典型的な和食の料理だ。
どれも丁寧な仕事ぶりが感じられ、三谷さんの性格がよく感じられる。
三谷さんはテーブルを挟んだ向かいに正座し、手を合わせる。
「いただきます。」
ああ、一緒に食べるのか。確かに、これだけ早い時間だ。自宅で朝食をとる時間なんて無かったはずだ。
僕も同じように手を合わせて挨拶し、箸で食事を口に運ぶ。
なぜかその様子を三谷さんは凝視していたが、まぁ気にしないでおこう。
「……美味いな。」
焼き魚は絶妙な塩加減。焼き具合も申し分ない。味噌汁も具沢山で、僕好みの味だ。
チラッと正面を見ると、僕の反応がお気に召したのか、三谷さんがにこやかな表情を見せている。
「ところで矢田くん。食べながらでかまいません。少しお聞きしてもいいですか。」
「そりゃいいけど……改まってどうしたんだ?」
と言いつつも、言おうとしていることに察しはつく。どうせまた他にもお礼がしたい、とかだろう。これだけしつこく付き纏ってきたんだ。これぐらいじゃ足りないと言いそうだ。
そう、たかを括って食事を止めずに聞いていた。
「矢田くんは、どうしてそんなに自分のことが嫌いなんですか?」
その言葉を聞いて、持っていた箸をピタリと止め、皿の上に置く。
「……誰から聞いた?」
「私自身の見解です。間違っていたらごめんなさい。だけど、あなたからは自分を蔑むような言動が多かったので。」
……ホントに、人は見かけによらないな。ほんの数回話しただけなのに、そんなすぐに見透かされるとは。でも、だったら尚更だ。
「確かに、僕は僕のことが嫌いだ。でも、それは三谷さんには関係ないはずだ。」
突き放せ。僕は、僕が誰かと親密な関係になることを許さない。どうせ僕は肝心な時に役に立たない。大事な人が辛い時、手を差し伸べることができない人間だ。そんな人間と関わったって、ロクなことがない。
「……関係はあります。あなたは私の恩人です。そんな人が辛い顔をしていたら、私だって辛くなります。」
「辛い顔?」
訳が分からず、聞き返す。
何を言ってるんだ?僕はいつも通りに……
「私は幼い頃から、色んな人と話すことが多かったので、表情から感情を察することは得意なんです。もっとも、あなたは嘘がかなり下手なようですが。」
そういわれて、僕は初めて自分の気持ちが表情に出ていることに気づいた。
「私はあなたに助けてもらいました。だから、今度は私が助けたいんです。あの時、誰も助けてくれなかった中で、あなただけが私の言葉に応えてくれたんですから。」
……ああ、この人は本当にやさしい人だな。たった一度助けられたというだけで、ここまで他人のために行動しようとする。
そんな人に、なりたいと憧れたことはある。でも、僕の心はもうずっと昔に折れている。
「ありがとう。三谷さんが僕のことを心配してくれているのは分かった。でも、勘違いしているよ。僕は、一度は三谷さんを見捨てようとしたんだ。ほかの人と同じだ。見て見ぬふりをして、やり過ごそうとしたんだ。分かるか?僕は君が思うような人間じゃない。」
一言話すたびに胸が苦しくなる。
僕が三谷さんが思い描くような人だったらどれだけ幸せだったことか。でも、下手に見栄を張ってまた昔と同じことを繰り返すことだけは絶対に避けたい。それだけは、阻止しなければならない。
僕は、黙り込んでうつむく。
前が見れない。正確には、三谷さんが今どんな顔をしているのかを見ることができない。
「……知っていましたよ。あなたが私を助けようとしなかったことは。」
「えっ?」
驚きで、僕は顔を上げる。そして、見てしまった。三谷さんの顔を。
悲愴感に打ちひしがれた表情……かと思っていた。思い描いた理想と違う、現実を突きつけられたのなら、そんな表情を浮かべていると思っていた。
しかし違った。彼女のその顔には悲愴感なんてものはまるでなく、ただ真正面から僕に目を合わせてほほ笑んでいた。
「それでも、助けようとせず、誰よりも苦しんでいたのは矢田君くんです。だから、あなたは私が助けを求めた時、迷わず助けてくれた。私を助けたのは、ほかの誰でもなく、あなたなんです。」
言葉が出ない。何か話そうとすると、感情を今以上に抑えられなくなりそうだ。
「私、決めました。」
三谷さんは立ち上がり、回り込んで僕の座っている隣に正座で座り、手を握る。
「矢田くんが自分を嫌うと言うのなら、私は矢田くんが自分を好きになれるようにしてみせます。」
『そんなこと、しなくていい』とは、とても言えなかった。こんなに真正面から僕と話してくれる人は、初めてだったから。
……勝手にもほどがある。大体、そんなことをしてどうなるっていうんだ。でも……
「……好きにしなよ。」
彼女と僕。先に折れたのは僕のほうだった。
まったく本当に、押しに弱い僕が嫌いだ。
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