サニー・ドールのレイニー

狛口岳

プロローグ 終わり、或いは始まりの…

 黒い海が、荒れている。

 奇妙な音を立てて、荒れている。

 みちみちと、ぐちゃぐちゃと、絡まって、合わさって、ぶつかりあって、鳴いている。これは波の音ではない。波間に埋もれた人々の、物々の、意図せずして潰れ合う音。


 ―僕のせいだ。


 奇妙な音に耳を蝕まれながら、青年は力無く地べたに膝をつく。町を一望できるという小高い丘に、そこにいたのは彼だけだった。

 友人も、先輩も、先生も、みんなみんな呑み込まれた。


 ―僕が、あんなことをしなければ。


 ―僕が、失敗しなければ。


 ―僕が、もっと強ければ。


 ―僕が、僕が、僕が……。


 救いも希望も見出せない悪夢のような現実に、青年はひたすら自分を責め立てた。

 できることなら、この現実を打破したい。

 けれどそれは無理なのだ。

 持ちうる全てを出し尽くした青年に、今できることなど何もない。この延々地獄を見届ける、ただそれしか残っていなかった。


「―ぁ゛ギッ??」

「っ!?」


 唐突に耳を劈いた奇声と、そっと掴まれた左腕。ひやりと骨ばった手の感触に心の臓を逆撫でされ、青年は条件反射でそれを払いのけた。

 瞬間息を吞み込んだ。

 黒い海は、いつの間にか量を増していた。

 否、海のように、波のように見えるそれは、肥え嵩張り奇声をあげて蠢く”何か”であった。丘の頂上まで迫ってきた黒に畏怖した青年は、尻を地につけたまま笑う膝を引きずり後退する。


 ぼとり、ぼとり……。


 その大群からはみ出すように、押し出されるようにして丘の上に打ち上げられた一個体たち。それらは数秒痙攣したように体を震わせると、すぐさまむくりと立ち上る。

 バランスの悪い、七本足の黒寸胴だった。顔はなく、腕もない。体の前方と思わしき部分の側頭には、人間のものと酷似した耳がついている。凡そこの世のモノではないような図体で、だのに平然とこの世に存在している。日常を非日常へと塗り替えられたのはほんの一瞬の出来事だった。その全てを呑み込まんとする増殖性と活動性は、青年に絶望の二文字を押し付けた。

 かさ、かさ、と丘に生えた草を踏みしめ、黒寸胴は同じ方を向いて歩く。どうやら狙いは青年らしい。それを察知した青年は、更に後退しようと腕に力を加えた。

 加えたところで、はたと脳裏に潰れ死んだ仲間たちが浮かび上がる。


 ―逃げて、どうなるんだ?


 それは素朴な疑問だった。


 成す術はなく、逃げ場もほとんど残っていない。だのにここで逃げたとして、一体何になるというのか。その疑問は、本能的に生きようと藻掻いていた人間を諦めさせるには十分で。


「‥‥‥もう、いいや」


 青年の口からは、無意識のうちに諦念の言が零れていた。それを咎める者はおろか、拾ってくれる者などいない。口の聞けない黒寸胴だけが、彼の言葉にぴくりと反応した。


「‥‥‥好きにしろ」


 どうせ死ぬと理解すれば、不思議と恐怖は消えていった。ただその瞳は死んでいた。

 青年の言葉を皮切りに、黒の群れは忙しなく足を動かし出した。抵抗しないことを悟ったらしいそれらは一気にトドメを刺そうと考えたのか、青年に向かって躊躇うことなく突進する。

 天を仰ぐように地へ背を預けた青年は、その雑踏に耳を傾ける。死のカウントダウンが刻一刻と迫る中、ハイライトを失くした瞳をそっと閉じてその時を待つ。


 ―もし、人生をやり直せるのなら。


 青年の脳裏に、懐かしい文面が浮かび上がる。


 ―新しく生まれ変わるわけでも、違う世界にいくわけでもない、ただ自分の人生を遡行できたなら。


 誰かの言った、そんな戯言。

 これが、走馬灯なのだろうか。

 黒に身を呑み込まれ、その体を押しつぶされながら青年は懐古する。

 あの人は、一体なんと言っていただろうか。

 四肢が捻れ、内臓がひしゃげ、全身が悲鳴を上げて鳴りやまない。痛みに叫びを上げたくとも、声帯が潰されて声が出ない。

 痛い。

 苦しい。

 辛い。

 悲しい。

 ああ、せめて思い出すだけの猶予が欲しい。

 今はただ、それだけでいいから。

 朦朧とする意識の中、青年は記憶に縋る。

 誰だ、あなたは一体、誰なんだ。

 あと少し、ほんの少しで思い出せそうなのに、その人のシルエットが明確になろうとすれば、子供が書いたようなぐしゃぐしゃの線が邪魔をして人の姿を曖昧にする。

 頼むから、見せてくれ。

 死に際の望みにしては下らない願いだったかもしれない。しかしそれは、彼の脳を微かながらに刺激した。

 モザイクが掠れ、細い輪郭の口元が現れた。それは女のようで、けれど細身の男のようで、誰の顔なのかまでは判別しかねない。だが青年にとっては十分だった。これで言葉が聞き取れるからと、それでもう十分だった。

 白い肌によく馴染んだ、淡い桃色の唇がゆったりと開かれた。


 ―ただの人間に、なってみたいものですね。

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サニー・ドールのレイニー 狛口岳 @komaguchi

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