元騎士と元娼婦が出会う話 後編


 銀色の髪に褐色の肌。

 巷ではダークエルフと呼ばれる種族だ。

 エルフ族と同じ出自ながら、彼、彼女らは闇の精霊神を信奉しているという。


 一方で普通のエルフ族は例の翡翠神とやらを筆頭にした光の精霊神を仰ぐ。

 実際のところ、光と闇の精霊のどちらが悪いとかいう単純な図式ではないそうだ。

 ともかくそれが原因で大昔に諍いが起こり、ダークエルフの大半は大陸を去り、闇の神の庇護を受けた魔族の住む北の大地に行きついたとか。

 

 つまりはダークエルフっていやあ、今や魔族の眷属と同義だ。

 街中でその姿を晒せば騒ぎになるのは自明の理。


「…マリエ!」


 女房ミトランシェとダークエルフが鍔ぜりを展開する圧に目を細めながら俺は娘の名を叫ぶ。


「わかってるわよ!」


 両腕を円を描くように交差させ、この場に唯一いるハーフエルフが応える。

 彼女の両手から青い色の蝶が無数に羽ばたき、周囲に溶けるように消えていく。

 他者の視界を覆い錯覚させる精霊魔法だろう。

 

 それを確認した俺は、急いで二人のエルフの傍まで駆け付ける。

 正直ビビッたが、意を決して女房の方へ後ろから羽交い絞め。


「おい! 天下の往来ですることじゃねえだろうッ!?」


 過去のいざこざからか、犬と猿なみにエルフとダークエルフは仲が悪いと聞く。

 だとしたら激昂するのは分からんでもないが、さすがに初手から全力の一撃ってのは行き過ぎだろう?


「コイツは、ずっとあなたの周囲をうろついていた…!」


「あん?」


 俺の腕の中で暴れている女房殿の台詞に、思わず間抜けな声が出る。

 対する目前のダークエルフはというと、俺を見て灰色の目を見張っていた。

 続けて慌てたように構えていた剣を地面に置いて膝を折り、両手を上に向けてその甲を地面を付ける。

 

 詳しいことは判らねえが、どうやら敵意はないとのポーズのようだ。

 それでもまだ怒りが収まらない様子のミトランシェを抑えていると、俺たちの間に割り込んでくる影が。


「すまない、オズマ殿。彼女はおれの連れなのだ…!」







 さすがに道端で話し合いと洒落こむわけには行かない。

 俺の店へと河岸を変え、例のダークエルフにボルドを交えて事の仔細の説明をしてもらう。

 その結果、とんでもないものを手渡されたわけだが、それはとりあえず一旦横に置く。


 例のダークエルフは支配人室で一旦ミトランシェの監視下へ。

 そうしてから俺とボルドが肩を並べて向かったのは階下の小部屋だ。


「なんなんですか、一体」


 憤慨するエルチがいた。

 ボルドの『余人に聞かせるわけには行かない』との歎願により、別室でマリエともども待機してもらっていた彼女だったが、気付けの酒が入った杯を片手に俺を睨んでくる。


「…そいつは」


 わざわざ俺が頼み込んでボルドの道案内をしてもらった手前、知らぬ存ぜぬはさすがに憚られた。

 かといって、しっかりと事情を説明するわけにもいかない。なんせ、下手をすれば国際問題に―――と、いけねえいけねえ。


「確かにおめえには悪いと思っている。けれど、ここは敢えて目を瞑ってはくれやしないか?」


 これこの通り! と両手をパンと打ち鳴らして頭を下げる俺。

 すると、さすがのエルチの雰囲気も少し和らいだ気がする。

 

 しかし、顔を上げた俺の目前で、エルチの視線は険しい。

 視線の先は、俺の隣に悄然と立つボルドへと向けられていた。咎めるようで、それでいて値踏みをするような目だ。 

 俺がまだエルチの雇い主であれば、『こら、なんて目をしやがる!』と叱りつけたところだが、今の立場ではただ成り行きを見守るしかない。

 

 ボルドとて、仮初めにも一国の兵士である。加えて、話を聞くには何やら密命を抱えてきていた。

 そんな事情があるにせよ、市井の一般人に素直に謝罪するなど…。


「…このたびは、おれの事情にあなたを巻き込んでしまったことを申し訳なく思う」


 ためらいもなくボルドは深々と頭を下げていた。

 この潔さに、エルチも「え、ええ」と驚くしかない。


「更に申し訳ないが、その事情をあなたに話すわけにはいかない。もし話せば、あなたの身に累が及ぶかも知れないからだ」


 ボルドの言い分はまったくの事実だった。実際に聞いた俺としても、超特大の厄ネタと断言できる。

 だからといって事情を知らぬエルチの剣呑な視線は緩むことはない。むしろ、益々細くなって光を帯びているような。

 その意味を要約すれば、『口ではなんとでも言える』と言ったところか。

 実際のところ、ボルトの台詞自体は誤魔化しの常套句みたいなもんだしな。


 ボルドの為人ひととなりを知る俺としてはヤキモキするしかない展開だ。

 彼が本心からエルチの身を案じて先ほどの台詞を口にしているのが分かるのに、気を揉むことしか出来ない。

 だが間もなくエルチはふっと笑った。


「了見しました。ほら、こんな見すぼらしい市井の女にそこまで申し訳なさそうな顔をしないでくださいな」


 柔らかい声音と裏腹に、ちょっと拗ねたような口調だった気がする。

 それを耳にボルドは毅然と顔を上げた。続けて彼の口にした台詞に、俺もエルチも揃って呆気に取られることに。


「ならば、謝罪の意味も込めて、あなたを夕食に招待したいのだが受けて貰えるだろうか?」












 そろそろ日も暮れようかという時刻。

 俺の前に、煌びやかなドレスを着込んだエルチが立っている。

 長い髪を結い上げ化粧を施された顔は、現役の頃と遜色のない美しさ。

 それでいて、本人の浮かべている表情は半ば仏頂面なもんだから、色々と台無しである。


「ずいぶんとめかし込んでいるじゃねえか。綺麗だぜ、エルチ」


 世辞でもなんでもなくそう賞賛する俺。


「はいはい、どうも。ありがとね」


 ぞんざいに応じ、手持ちの扇子なんぞをポンと叩きながら、エルチは顎をしゃくる。

 その合図に扉を開けたのはサイベージ。

 扉の先に展開する光景は、この街でも有名な高級料理店―――などではない。

 広いホールの中央にオープンキッチン。

 なんと、俺の店の食堂である。


「お、おい、あれ…!」


 既に酒を呷っていた冒険者たちが揃ってポカーンと口を開けている。

 先日と違い、今日は通常営業だから客がいるのは仕方ない。

 そして客の中には、かつてのエルチに世話になった連中もいるわけで、彼女の顔は見間違いようもないはずだ。

 

 ボルドは既にめかし込んだ格好で奥まったテーブルの前に佇んでいる。

 テーブルにエルチが近づくと、厳めしそうな顔が柔和に綻ぶ。


「おれの招待に応じて下さったことに感謝する」


 椅子を引きながら言うボルドに、


「はい、こちらこそご招待下さりありがとうございます」


 応じて椅子に座るエルチの様相は、慇懃無礼でこそなかったが、かなりしょっぱい。

 謝罪のために食事に誘うってのはありがちにせよ、どんな伊達や酔狂で娼館の食堂ディナーに招待しようなんて思いついたんだ?

 化粧を施された顔にそう書いてある。

 と思っていたら、彼女は直接訊ねていた。


「それにしても、ボルドさんはなんでこの場所にご招待を?」


 対するボルドの返答はこうだ。


「申し訳ないが、おれも先日この街についたばかりで他の店に詳しくない。その上で、今まで生きて来て心の底から美味いと思った店はここなのだが、気に入らなかっただろうか?」


 ……この台詞はつくづく殺し文句というやつで、俺も嬉しいのはもちろん、この食事会に先立ってそう告げられたうちのコック長なんざ、えらく感激してたもんなあ。


「まあ、わたしにとっても馴染みの味と馴染みの場所ですから、気楽ですけどねぇ…」


 あまりにも真っすぐな物言いに毒気を抜かれたのか、エルチも戸惑うしかない様子。


「それは良かった」

 

 安堵の笑みを浮かべるボルドに、折よく給仕娘が酒と料理を運んでくる。

 ボルドにはビールのジョッキに、エルチにはワインのグラス。

 そして肝腎の料理はというと、丁寧に小皿に取り分けられた料理の数々は、まるでお貴族様向けのコースのようだ。

 おいおい、ゲンシュリオンのやつ随分と張り切ったもんだな。

 

 乾杯をして料理へ向かうボルドのフォークとナイフ捌きは見事だった。

 無論エルチとて、教養としてテーブルマナーは完璧である。

 向かい合って上品に料理を食べる二人の姿は、まるで本当の貴族様のようだ。

 普段の騒々しい食堂とは違う、優雅ささえ漂う光景がそこにある。

 

 そんな風に通常営業とは違う空気を漂わせた一角に向けて、割れ鐘のような声が轟いた。


「よう、エルチじゃねえか! 久しぶりだなあ!」


 長身の壮年の男。

 冒険者のロズワールだ。

 下あごに髭を生やした魁偉な容貌は、怪物相手だったらさぞかし頼り甲斐があるだろう。されどガサツで奔放な性格から、個人的にはあまり一緒に酒を飲みたくないヤツでもある。

 これがイキった若造だったら他の冒険者も止めに入ったかも知れないが、ロズワールはそれなりのキャリアと実績を持つ。

 ましてやうちの娼館が掲げる『どんな客も平等に扱う』って看板もあっては、俺も迂闊に口を挟めない。


 しかし今日、よりによってロズワールの野郎もウチを利用してやがったのかよ…!


 臍を噛む俺の目前で、実に馴れ馴れしい態度でエルチの肩に手を載せるロズワール。

 30半ばのアイツは、現役の頃のエルチに熱を上げていた客の一人でもある。

 彼女の引退にあたり求婚したが、あっさりと袖にされていた。

 あれから五年近く経つのに未練たらたらなのは、言動を見れば明らかだ。

 今さらながら、エルチが昔の客と顔を合わせるのを避けるため、滅多にうちの風呂へ入りに来なかったことを思い出す。


「なんだなんだ? ひょっとして今晩は仕事に復帰して客でも取ってるのか?」


 興味津々の視線で見てくるロズワールはさもありん。

 こんな風にめかし込んでこれ見よがしに食堂で二人で飯を食う。娼婦仕事において、いわゆる同伴出勤のオプションだからな。


「冗談を。わたしは疾うに引退した年増ですよ」


 軽く苦笑して会話を打ち切ろうとするエルチだったが、どっこいロズワールは食い下がってくる。


「だったら何でこの店で着飾ってやがるってんだよ?」


「それは…」


 言い淀むエルチの前に朴訥な声が割って入った。


「彼女はおれが食事に招待したのだ」


 静かにたたずむボルド。

 俺としてはこうなることを危惧していたのだが、頑なに今日も店を貸し切りにするのを拒んだのは彼だった。


 ロズワールは睨みつけるようにボルドを一瞥してから、親指で指し示す。


「なんなんだ、こっちの男は? エルチ、ひょっとしてこいつが新しいおめえの…!」


「戯れはよしてくださいな」


 早口でエルチが否定。するとロズワールは破顔した。


「そうか。なら今日、これから一晩、俺に付き合わねえか?」


 肩に載せられた手の指先が、エルチの鎖骨あたりを這う。


「だからよしてくださいなッ!」


「しばらく喪に服していたらしいが、どうせおめえも身体を持て余しているんだろ? だったら、なあ? 昔みたいに一晩たっぷりと…」


 粗野極まりない笑みを浮かべるロズワールに、さすがに俺も一歩踏み出そうとした寸前。


「やめろ」


 立ち上がったボルドがロズワールの二の腕を払いのけていた。


「…なんだてめえ」


「生憎と、公衆の面前で婦女子を嬲る無法者に名乗る名前はない」


「けッ! やっぱりてめえが新しいエルチの情男イロか!」


 ロズワールが吠える。

 しかし、ボルドはその剣幕に全く臆することなく言った。


「彼女はおれの恩人だ。恩人を食事に招待するのは、ごく当たり前のことだと思うが」


「ああん?」


「それとも、そんな食事をしているところに、有無を言わさず割り込んで怒鳴り散らすのがここいらの礼儀なのか?」


「てめぇ…!」


 激昂するかに見えたロズワールだが、不意に怒気を引っ込めたかと思うと、満面にニヤけた表情を浮かべた。


「いやあ、すまんすまん、別に邪魔するつもりはなかったんだよ、兄弟」


 一転、馴れ馴れしい態度でボルドの肩をポンポンと叩く。


「…兄弟? なぜに貴様とおれが?」


 面食らうボルドに、


「いやね、どうせアンタもこれからエルチを抱くんだろ? いや、もう抱いたのかい?」


 この宣言に、周囲の酔っ払いもどっと沸く。 

 つまるところ、ロズワールの兄弟という意味は、いわゆる穴兄弟という下ネタだ。


「………」


 沈黙するボルドに、ロズワールの下卑た声は止まらない。


「おや、まだだったかい? なんなら教えておくが、コイツの具合はそりゃ最高でな! おまけに一晩中跨ってくる好き者だぜ!?」


 ゲラゲラと笑う様子に、見物に回った客の何人かが笑いながら前のめりになった。娼婦の頃のエルチを抱いたことがある連中で間違いない。

 

「なんぼお高く留まって見えても一皮剥きゃあ淫魔みたいな女さ。あんたもせいぜい絞られ過ぎて干からびねえように注意しなよ?」


 こんな風に度が過ぎた酔漢が、娼婦たちを腐すのは珍しくはなかった。

 しかも今のロズワールはエルチに対して可愛さ余って憎さ百倍の様子。

 だが、そもそもエルチはとっくに娼婦を引退した身。

 その上で彼女の過去を揶揄するのは、行儀が悪いを通り越している。さすがの俺にも了見しかねる現状だ。

 ここは速やかにご退場を願おうか―――。

 そう思い、俺が腕まくりをして近づこうとした時だった。


「ふむ。進言、心に止めておく。その上でこちらも忠告をしておこう」


 ボルドはあくまで穏やかな声音と態度のまま。

 続いて一転して発せられた怒気を含んだ声に、食堂の喧噪はピタリと止む。

 

「―――これ以上。彼女を侮辱することは許さん」


 対面で顔を伏せたまま耐えていたエルチの肩の震えが止まった。

 ロズワールはさも珍しいものを見たようにあんぐりと口を開けた。


「……は? 侮辱も何も、こいつは娼婦だぜ? 毎晩毎晩、金目当てで男に抱かれるのが勤めなんだぜ?」


「貴様こそ彼女たち目当てで金を払っているのではないか? 金を払った時点で関係は対等だ。なぜに彼女だけが嘲笑を受けねばならん?」


 商売における需要と供給。

 そこに金銭が介在するにせよ、本来的に売り手側と買い手側に貴賤はない。

 ボルドの言い分は日本から転移してきた俺の商道徳からすれば真っ当なものだが、生憎と風俗業への従事者が必要以上に貶められるのはこの世界も一緒だ。いや、それ以上だ。


「馬鹿かおめえ? 娼婦ってのは金次第で誰にでも股を開く淫売ってな…!」


「ならば貴様は、金を払って女をのべつ幕無しに抱く淫買だな」


 ボルドの真っすぐすぎる物言いに、ロズワールだけではなく他の客もいきり立つ。 


 売女という言葉がそのまま悪口になるのはこの世界も一緒で、なぜに売春する女性が蔑まされるのかを掘り下げれば、だいたい宗教や歴史が絡む。

 けれど学のない冒険者連中はそんなことを知るはずもなく、知る必要もない。


 娼婦がロクでもない仕事だと腐す一方で、そんな彼女らを金を払って抱き、時には大金を積んで身請けして妻にするという大いなる矛盾に気づこうとはしない。

 

 つまるところボルドは、昔からの慣習を真っ向から否定したのだ。

 だが、いかに正論であっても、それを吟味し疑問を抱く冒険者など、少なくともこの場には存在しなかった。

 

「…てめえ喧嘩売ってんのかッ!?」


 太い指をボキボキと鳴らすロズワールに、ボルドは平然と応じる。


「おれの望みは、貴様が彼女に対し言動を改めてくれることだ」

 

 会話が嚙み合っているようで噛み合っていない。

 それでも互いの身体が発せられる殺気というか闘気は、周囲で見ていた他の客も思わず鼻白むほど。


「そうかい。そうかよ……」


 へらっとロズワールが笑い、わずかに殺気が緩む。

 そして次の瞬間、やつの太い腕が振り抜かれていた。

 

 ズバン! と凄まじい衝突音。

 ロズワールの大きな右拳はボルドの頬に叩き込まれて―――いない。

 

 受け止めたボルドは、唖然とするロズワールの右拳を握手するように握りこむ。

 そのまま互いの手の甲にぶっとい血管が浮かぶ様子は、実に古典的な力比べだ。

 

 ニヤリと笑うロズワールに、岩のように泰然としたボルド。


 下馬評で言えばボルドが不利に見えたことだろう。

 なにせロズワールはボルドより頭一つ分は背が高く、身体もカッチリとしてやがる。

 

 ところが、先に表情から余裕がなくなってきたのはロズワールだった。

 加えて全身が小刻みに震え、だんだんと腰の位置まで落ちてきているじゃねえか。


「て、てめえ…!」

 

 唇を斜めにして歯を食いしばるロズワールに、ボルドは微動だにしない。

 むしろ益々握る手に力を込めるようにして―――おいおい、マジで握りつぶすんじゃねえだろうな、あの御仁!?


 さすがに俺が止めに入ろうかと思った時だった。

 涼しい顔のままのボルドは、ひょいと空いた左手で卓上のジョッキを掴む。

 それを差し出したのはロズワールの鼻先だ。

 

「―――どうやら、少しばかり互いに頭に血が昇ってしまったようだ」


 すんなりと右手を解放された。痺れたであろう手を覆いながら、ロズワールの野郎もさすがに面喰らったような表情を浮かべている。

 

「酒の席の無礼はお互い様にして、飲み直すことにしよう」

 

 左手でジョッキを受けとると、ロズワールは小声でうなべった。


「あ、ああ…」


 ロズワールだって単なる無頼漢というわけではない。

 目前の男に太刀打ちは出来ないことを理解し、かつ己の面子を潰さないによう配慮してくれたことは理解出来たはずだ。


「…チッ」


 それでもエルチに未練たっぷりの眼差しを残し、ロズワールは大きな身体を翻す。

 この場でもっとも腕っぷしが強い髭男の撤退に、他の冒険者たちも潮が引くように各々のテーブルへ戻り、酒杯を傾けたり目当ての嬢を注文したりしている。


 いつもの喧噪が戻ってきた食堂。

 ボルドも着席すると、申し訳なさそうにエルチを見た。

 応じるようにエルチは微笑み返し、食事が再開される。


「……ん?」


 その様子を眺め、俺は目を擦っていた。

 こんな風にエルチが客と食事を共にする様子なんて、百っぺん以上目にして来ている。

 どんな客相手でも物怖じせず、話題の花を咲かせ抜群のホスピタリティを発揮してきたエルチの所作が、なんともぎこちないのだ。


 これは一体どういう風の吹き回しだ―――と首を捻るほど、俺も野暮天じゃねえ。

 馬に蹴られる趣味もない俺は、こっそりと笑みをこぼすと、足早にその場を離れたのだった。



 






 


 それから二日後。

 俺は支配人室に昔馴染みを迎えていた。

 

 軽装の白銀鎧に裏地が黒の真紅のガーヴは宮廷騎士の証。

 しかしてその正体は、かつて一緒に冒険者を組んでいた悪友のメッツァーである。


「オレを好きに呼びつけるとは、偉くなったものだなレンタロー?」


 遠慮なくソファーにひっくり返るコイツを朝一番で呼び出したのは間違いないが、俺にだって言い分がある。


「だからって、一足飛びで俺が直接クラーラを呼び出すわけにも行かねえだろうよ」


 そもそも大聖皇国皇位継承第七位を持つクラーラことクラウディア殿下を娼館へ呼び出すことなんて、異例を通り越して異常だ。

 加えて、市井の娼館の親仁である俺が、皇都の王城を訪れたとて門前払いを喰らうに決まっているわけだし。


「ともあれ、クラーラ宛のこんな物騒なシロモンは、さっさと持っていってくれや」


 俺が視線で指し示したのは、テーブルの上の立派な封筒だ。

 赤い蝋で封印された若獅子の紋章を目にするのは二度目である。

 

 アルディーン・ノツァグライラ・ドライゼン。

 

 西の大国ドライゼンの王子様なわけだが、あの御仁、俺のことを郵便係だとでも思っているのだろうか?


 これがボルドより手渡されたものの正体だ。併せて、休暇ではなく実は密命を帯びてはるばるヒエロまで俺を訪ねて来たとのこと。

 例のダークエルフが連れであることは本当だが、彼女がどういう役割を担っているのかという質問には言葉を濁された。

 おそらく、この親書にはその詳細が記されているのだろうが、俺としてはあまり内容に関知したくないのが本音だ。

 直接クラーラに送りつけず俺を経由させるあたりも、嫌な臭いがプンプンしやがる。


 しかし、ボルドがあの伊達な王子様の部下だったとは。

 コーウェン伯爵の死後、辺境都市カナルタインの軍備は再編されて改めて配下入りした可能性もあるが、もしボルドが牢番をしていたころから繋がりがあったとなると、少しばかり人間不審なりそうだ。

 

 ……いや、あの御仁に限ってそんなことはないか。


 ボルドは、先日の早朝にヒエロを発っている。

 慌ただしい出立の理由は、役目を果たし終えたからこそ急いで本国に報告をしなければならないから、とのこと。

 

「オズマ殿。心尽くしの歓待に感謝する。そして申し訳なかった」


 すこぶる済まなそうな表情をするボルドは、使命とはいえ俺に厄介ごとを持ち込んだ件を心から侘びている様子がありありと。


「なら、今度こそ休暇でゆっくりと遊びにおいでくださいよ、ボルドさん」


 俺がそう返すと、ボルドの表情は一瞬泣きそうな感じでくしゃっと歪む。それでも笑顔を浮かべ直すと、差し出した俺の手をしっかりと握り返してくれた。

 男と男の約束は交わされた。ならば蟠りを残す必要は何もない。

 またの再会を楽しみに、気持ち良く見送ってやろうじゃねえか。


 続いてボルドが身体ごと視線を向けたのは、見送りに駆けつけてくれたエルチだ。


「エルチ殿にも大変お世話になった。改めてもう一度礼を言わせてくれ」


 俺へと同様に、エルチに向かい深々と頭を下げるボルド。


「ああ、そんな真似はよしてくださいな! ……こちらこそ、食事に招待して頂いてありがとうございました」


 慌てたように手を振るエルチを前に、ボルドは少しだけ口籠る。

 しばしの間のあと。

 俺が石頭と称した御仁は、その厳つい顔の頬を少しだけ紅潮させて口を開いていた。


「では、おれが再びこの街に来た時も、食事に付き合って頂けるだろうか……?」


「それは……ええ、もちろん。喜んで。ええ」


 エルチが笑みを浮かべたまま何度もうなずく。

 ボルドも嬉しそうに微笑むと、


「ならば、これをあなたに」


 差し出したのは古くも緻密な彫刻が施された腕輪だった。埋め込まれた碧命石の淡い光が朝日を反射して煌めく。


「そんな! 受け取れませんよ!」


 血相を変えるエルチは無理もない。

 かつてビッテンハイブがヨルグから金貨800枚で譲り受けた場に彼女も居合わせていたからな。


「おれは急いで国へ戻らねばならない。物騒だが近道を行くつもりだが、せっかくの頂き物を落としてしまう懸念がある。なので、預かっておいて貰えれば嬉しいのだが……」


 彼にしては珍しく早口で、長台詞を一気に捲し立てている。

 ったく、つくづく不器用な御仁だぜ。

 だかその込められた想いを、エルチは正確に受け取っていたのだろう。


「では確かに。次にお会いするその日まで預からせて頂きますわ」


 にっこりとして腕輪を受け取る彼女に、ボルドは会心の笑みを浮かべかけ―――隣でニヤニヤしている俺に気づいたのか、慌てて誤魔化すように咳払い。


「ゴホンゴホン! ……と、ともかく、オズマ殿、エルチ殿。次に会える日までどうか壮健であれ…!」


 言いおいて踵を返したボルドは、もう振り返らなかった。

 その力強い歩みと、広い背中が見えなくなるまで俺もエルチも彼を見送ったわけだが―――。





「……ボルド。ボルド・ギムレットだと? まさか流星の騎士か……?」


 回想から立ち返った俺の目前で、酒杯を手にしたメッツァーが首を捻っている。


「てめえ、いつの間に酒を注ぎやがった!? って、それよか、ボルドのことを知っているのかメッツァー?」


「いや、おそらくオレの思い違いだろう」


「おいおい、知っていることがあるなら素直に話してくれよ」


「すまんな。オレも騎士である以上、一般市民には話せることと話せないことがあるのだ――」


「棚の奥に、皇室御用達の逸品が瓶に半分ほど残っているんだが」


「是非何でも訊いてくれ!」


「………」


 ったく。こいつの酒への意地汚さも大概だぜ。まあ、これに関しては呆れるだけ時間の無駄だ。

 それより。


「なるほど、やはり騎士だったのかあの御仁は」

 

 言われてみれば、ボルドの素性にぴったりとハマる。

 謹厳実直な物言いも、整然とした立ち振る舞いも、騎士道に基づくと言われれば、なるほどと納得できるってもんだ。


「しかも“流星”って二つ名まで持っているってのかい。なんともカッコいいじゃねえか。痺れるねぇ!」


 はしゃぐ俺だったが、例の高級酒を口に含んだメッツァーの浮かべる表情は渋い。

 うん? おかしいな、先日抜栓したばかりだからそんなに劣化しているはずはないんだが。


「酒は美味いぞ、もちろん」


 メッツァーは答える。


「だが、レンタロー、おまえが期待するような話ではないかも知れん…」


 













 以下は、メッツァーから聞いた話を、俺なりにまとめたものだ。







 西の大国ドライゼンに、スプリッツァという家名の男爵家が存在した。

 先だった魔王戦役の際に、当主である長男は戦死。

 次男も先天性の病で既に亡く、彼らには妻も子供もいなかったため、このまま男爵家は潰えるかに思えた。 

 そこで家名を絶やしてなるかと立ち上がった者がいる。

 

 アルバート・スプリッツァ。


 スプリッツァ家の末っ子で、女もかくやと思われる秀麗な容姿の美丈夫だ。

 華奢ともいえる身体に鎧を纏い、匪賊討伐や領地内の危険怪物たちを駆逐。

 内政にも力を入れ、領内の安寧と発展にも手腕を示す。

 

 それがひょんなことから実は男装をした少女であることが発覚した。

 本名はアルバートではなく、アルテシア・スプリッツァ。

 ならばこそあの美貌か、と周囲は大いに納得し、既に男爵として申し分ない実績を打ち立てていた彼女は、正式にスプリッツァ男爵として承継を受けるに至る。

 つまりは、女性が爵位を継ぐのは絶無ではないが難色を示される世界において、実力で慣例をねじ伏せたということだろう。


 さて、いっぱしの男爵として認められたからには、次に果たす責務は次代への継承だ。

 アルテシアは独身の女性であるからして、婿を迎え入れ子供を作らなければならない。

 芳紀まさに18歳の美貌の男爵に縁談の申し込みが殺到する。

 実益と打算と妥協との兼ね合いの結果、近領の貴族の子弟を相手に婚姻を結ぶ。


 しかし、婿を迎え、二年ほど経っても、いっかなアルテシアは懐妊しなかった。

 夫は、既に自領のメイドや町娘に手を付けて孕ませ、国元に庶子が幾人もいたにも関わらずだ。

 

 されど、次代を作れないのであれば仕方ない。

 己の血筋の子を、とアルテシアの強い希望もあり、一人目となった旦那とはかなり強引な離縁となる。


 次に夫と迎えた貴族は血筋も確かで、本人の人品はともかく、こちらも既に御手付きとの間に子供を何人か作っている実戦証明済み。

 まさに背に腹は代えれぬ、というアルテシアの苦渋の婿選びだったに違いない。

 だが、またしても彼女は懐妊せず二年が経過。

 二人目の夫と離縁するにあたり、社交界にはまことしやかな噂が醜聞となって膾炙する。


 アルテシア・スプラッツァ男爵は石女うまずめだ、と。


 根も葉もない噂と否定することも叶わず、アルテシア本人は、男爵としての仕事に精励し続ける。

 世間から口さがない中傷を受ける中、それでも彼女を守り、いたわり続けた者こそ、常に影日向に男爵家のために働いてきたボルドという従卒上がりの男だった。

 

 本来なら身分差はもちろん、主君に対しそのような不敬な感情を抱くことこそ罪となる。

 だが、それを承知で、ボルドは彼女に寄り添い続け、気づいたときには彼女も長年苦楽を共にしてきた年上の部下の不器用な愛情を受け止めていた。

 

 それは一夜かぎりの夢物語。一晩だけの慰め。 

 朝がくれば嫌でも辛い現実に直面しなければならないが、それに立ち向かうためのひと時の安らぎを―――。


 互いに承知した秘密の関係。

 それが公になってしまったのは、なんとアルテシアが懐妊してしまったことに拠る。

 この慶事に、周辺の人間が大いに混乱することになったのは想像に難くない。

 俗な言い方をしてしまえば、王城の奥深くにいた深窓の御姫様を、一兵卒が孕ませてしまったに等しいのだから。  


 されどボルドの長年の献身は誰もが認めるところであり、当のアルテシアも昔から彼を信頼していたことから自体は急展開を迎える。

 アルテシアは自身の懐妊の公表と同時に、その相手であるボルドを伴侶にすると宣言したのだ。 

 傍から見れば、ボルドいわゆる逆玉というやつである。

 長年抱いていた主君への想いを昇華させた彼にとっては、願ってもないハッピーエンドってやつだっただろう。

 しかしお伽噺でも童話でもない現実は続く。

 

 離縁したかつての旦那たちにとって、この慶事は実に面白くない。

 連中はスプリッツァ家に婿入りしたことによって、ゆくゆくは爵位持ちとしての権勢も思いのままと皮算用さえしていたのだ。

 そして何より名も知らなかった従卒あがりが美貌の元妻をモノにしたことに対し、彼らの貴族としてのプライドは大いに傷付けられたのである。

 

 連中は、寝取られたといった見当違いの怒りと逆恨みを混ぜ合わせ、伴侶として宣言される前のボルドに対し、刺客を雇って襲撃させたらしい。

 それらを悉くあっさりと退け、なんなら捕縛し生き残りを尋問、依頼主が誰であるかさえ詳らかに語らせたボルドの鮮烈すぎる手腕に、ドライゼン現国王バルザックも興味を示す。

 試みに御前試合でその技量を確認させたところ、彼が相当な腕前であったことから、近衛騎士へ就任させるという異例の大抜擢。

 国王の後ろ盾を得たことにより、ボルドが男爵家に婿入りしたことに文句を付けられる貴族はいなくなった。


 基本的に自領を離れ、ドライゼンの王城に詰めなければならなかったが、無事に跡取りである息子も産まれていた。

 ボルドの人生はここがまさに絶頂期にあった。


  

 そんな中、国王バルザックは、南西のバラート連邦への親善訪問へと出立。

 付き従う近衛の中に、就任してまだ日も浅いボルドが選抜されたのは非常に名誉なことだ。

 産まれたばかりの息子を抱きあげ別れを惜しみ、まだ床上げも済んでいない妻を置いて、ボルドは所領より旅立つ。


 訪問自体は恙なく済んだ。

 歓待を受け、いざドライゼン領へ戻ろうかと一行がバラート連邦を発ったのは、ボルドが所領を出てからおよそ一か月余り。

 その帰路で、ドライゼンからの早馬が伝達を持ってくる。


『リングリア界隈より、病の流行を確認せり』


 古来より、災いは北から来るという。

 そしてその災いの名前こそ『赤瘡病』。

 後に、ベルファスト大陸の全人口三割の命を奪い去った流行り病である。

 

 国王バルザックとしても、自国領とそこに住まう民を守るために帰路を急ぐのは当然だった。

 訪問とは真逆のスピードで急ぐ強行軍。

 あともう少しでドライゼン領に入るというところで、一行は悪天候に襲われた。

 首都より駆けてきた早馬の使者が告げる。

 

「わたしはどうにか駆け抜けてこれましたが、この先の峠道は土砂崩れで流されています」と。


 ならば、迂回して危険な細道を進むか。

 いや、この天候ならばその道も危うい。

 天候が回復するまで待つしかないのか。


 喧々諤々の意見を交わす同僚たちの中で、ボルドは一人身を震わせている。

 それは雨に塗れた寒さからではない。

 使者は、スプラッツァ領からの速達を携えていたのだ。

 その内容は。


『奥樣と御子様が流行り病に罹られました。至急のお帰りを』


 短い文に、一刻も予断を許さない状況が滲む。


 もはやドライゼン領は目と鼻の先。

 ボルドとしては今すぐにても駆けつけたかったが、一行の総意は王の安全を第一との考えに纏まる。

 すなわち、この悪天候が落ち着くまでこの場に駐留し続けることに。


 ボルドは迷った。

 最愛の妻と息子のために、即座に自領へ飛んで帰りたい。

 だが、近衛騎士が王のもとを離れるなど言語道断。

 

 仮に素直に訴え出ればどうなる?

 王は、心情的に理解してくれるかも知れぬ。

 だが、本音はともかく、建前を優先して王者としては決して認めて下さらぬだろう。

 それにそのことが同僚たちに知れれば、諫められるのはともかく、職務違反、命令破棄とその場で捕縛されてしまうかも知れない―――。


 悩んだ末、ボルドの選択は是非もないものだった。

 天幕に取って返すと、雨を吸ってすっかり重くなった近衛騎士の外套を外す。

 それをテーブルの上へと置いて鎧も脱ぐと、最低限の装備に腰に剣だけを佩き、天幕を出た。

 見回りの従卒たちに見つからぬよう身を潜め、夜の闇に染まる山道へとその身を踊らせる。


 幸いなことに雨は止み、雲間から月が顔を覗かせた。

 二つの月が交互に照らす道なき道を、ボルドはドライゼンへ向けてひた走る。

 泥濘に足を取られ、転倒したことも一度や二度ではない。

 ひょっとしたら出血や骨が折れていたかも知れないが、今のボルドにとってそれは意味をなさなかった。


 暗い茂みを抜けた先だ。

 開けた広場らしき場に、月光に朧に映る人間たちの姿が。


 すわ、王のもとを出奔したことに対する追っ手か?

 

 言い訳を口に乗せる間もあらば。

 相手が問答無用で躍りかかってきたのだから、ボルドは反撃せざるを得なかった。


 鬱蒼と茂った木々の隙間からこぼれる月光が、まだらに森を染め上げる中での大混戦。

 血と泥濘に塗れ、それでも相手を一人残さず殲滅したボルドの技量は、騎士として、戦士として、隔絶していたと言える。


 死体を埋葬する手間など惜しいボルドは、打ち捨てたまま道を急ぐ。

 

 急がねば、生きている妻と息子の姿を見ることが叶わないかも知れない。

 仮に妻たちと再会できたとして、騎士としての責務を破棄し、味方の兵を斬り殺したとあれば極刑は免れないだろう。


 矛盾した思考を抱えつつ、今の自身の行為には微塵の後悔もない。

 駆けに駆け、峠を抜ける。

 

 ドライゼン領内に入るなり馬を掻っ攫い、ボルドは自領に帰り着く。

 だが、到着したときには、既に妻も息子も赤瘡病で息を引き取っていた。

 瘡で覆われた死に顔を見せたくない、とのアルテシアの遺言により、遺体は既に埋葬されていた。

 当時の流行り病の死体に対する当然の処置でもあり、家宰も即座に遂行している。


 ボルドは妻と子の死に目に間に合うどころか、その死に顔を見ることすら叶わなかったのだ。


 

 騎士としての誇りをかなぐり捨てたボルドだったが、では彼は極刑に処されのだろうか?

 ここで、決死の覚悟で夜の峠を走り抜けたボルドが相対した、例の兵士たちの存在が浮き彫りとなる。

 実はあれば国王バルザックを狙った暗殺部隊だったことが後に判明。

 現体制に不満を持つ貴族の暴走とその差し金との風聞が流れるも、詳細は不明。

 実態は王都の留守を守る王子たちの策謀とか、キナ臭いどころかかなり血腥い話になったらしい。

 

 とにかくボルドにしてみれば自身を追ってきた討伐隊で、相手にしてみれば暗殺の情報が事前に漏れたのを待ち構えられていたと判断せざるを得ない。

 結果としてボルドが殲滅したことは、脱走の途上とのことを無視すれば比類ない手柄となる。

 そして彼を抜擢したバルザック王は、スプラッツァ男爵家の事情もある程度把握していた。

 

 国王バルザックは、ボルドの功績と相殺するように脱走行為に目を瞑った。

 ボルドにとっては、暗殺部隊との戦闘を回避した時間があれば、妻子の死に目に会えたかも知れない。

 それほど、ほんの一足の違いだったという。


 スプラッツァ男爵の継承をボルドは辞退した。

 そのまま近衛騎士も辞し、一兵卒として軍に組み込まれた彼のその後を知るものはいない。

 

 

 

 



「……なんで流星なんて二つ名を持ったんだ、あの御仁は?」  

 

 語り終えたメッツァーに、俺はそう問い掛けている。


「流れ星というのは、別名“夜這い星”と呼ばれているのを、おまえも知っているだろう?」


「……ああ」


 漆黒の夜を這うように駆ける星。

 それは闇の峠を駆けるボルドの姿そのままだ。

 行き先は、愛すべき妻子の元。

 俗に女の元へ夜に忍び込むのは夜這いと称されている。

 大義を背負わず騎士としての責務を放擲して夜を駆けたボルドの行為は、不義行為である夜這いに例えられたわけだ。

 そして夜を徹して駆けた星は、その光の軌跡だけを残して燃え尽きている。

 結果、彼に付けられた不名誉な二つ名が『流星』なのか。



 何ともくたびれてしまった俺は、酒杯を口に運ぶ。

 だが、疲労感に反し後悔はなかった。

 この話のおかげで、ボルドの為人をより深く知ることが出来たからな。


 ボルドがロズワール相手に切った啖呵を思い出す。

 彼が憤慨した理由も、今でこそはっきりと理解できる。

 

 結果としてアルテシアを妻にすることは出来たものの、以前の彼女は二人の夫と婚姻を結んでいる。

 懸想する主君が、いくら貴顕の義務のためとはいえ、自分以外の男に身を委ねているのだ。

 そのことを間近で見ながら彼女に仕え続けたボルドの心情は如何ばかりか。きっと筆舌に尽くしがたいものがあったに違いない。

 転じて想い人の名誉を守るための意識が、この世界にそぐわない倫理観を育んだ。

 それをエルチの境遇に重ねたボルドは、ロズワールの物言いに発奮したのだ。


 ……彼がエルチのどこに惹かれたのか、なんて詮索は野暮だろう。

 外見が元の細君に似ていたのかどうかすら定かではない。

 二人して数年前に伴侶を流行り病で亡くしたところだけは共通してはいて―――互いにどちらも喪が明けて、年増の恋と揶揄されようとも、出来れば懇ろになってもらいたいものだが。


 物悲しい回想の中に少しだけ光明を見たような気がした。もう一度酒を口に運べば、目前の悪友騎士の所作が目に入る。


「お、おいおい! 何してやがる!?」


 なんとメッツァーの野郎、自前の小刀でアルディーン殿下の封書を破ろうとしているじゃねえか!


「いや、なに。これはクラウディア殿下の指示でな。レンタローと一緒に開けてまずは中身を読んでみろ、と」


「だったらクドクド言ってねえで、さっさと本題に入れば良かったじゃねえかよ!」


「焦らせば良い酒が出て来ると思ったからなあ」


「おまえな……!」


 と、すったもんだのやりとりをしながらメッツァーは封書を開封。

 正直中身は見たくなかったが、万が一ボルドの差配に関わる話だと悪いし、例のダークエルフの存在も気にかかっていたので、不承不承目を通す。

 


 その果てに勃発したのは、俺とメッツァーの取っ組み合いだ。

 俺は宮廷騎士様の胸倉を掴み上げ、思い切り怒鳴りつける。











「てめえ、魔王の娘を俺の店で面倒見ろってのはどういう了見だ!?」

 

 

 




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