「料理屋を開くなど貴族子女にあるまじき」と言われ婚約破棄された公爵令嬢ですが、代わりに若手実業家の寵愛を受けています。 ~わたしが開いた料理屋は、世界で最初の「レストラン」でした~
Menu03.元冒険者に供すカレーライス 後編
Menu03.元冒険者に供すカレーライス 後編
これは、カウンター席の特権と言うべきか……。
厨房内部の様子は、カウンター越しに丸分かりであり、胸を昂らせながら見守るゲルトの視線を受け、アウレリアというらしい女店主がそっと鍋の蓋を開いた。
瞬間、店中に広がった芳香ときたら……!
これを嗅いで、ゲルトの意識が旅立ったのは、海の彼方であり、とうの昔に過ぎ去ったはずの過去である。
肌の色も、着ている装束も異なる人々が、頭に壺を乗せ、牛と共に練り歩いていたあの街並み……。
沐浴し、祈りを捧げ、あるいは洗濯などをする人々で溢れかえっていた大河……。
そして――あの、黄金宮殿。
国の歴史と豊かさで圧倒される建築物の中、椅子ではなく敷き物の上に直座りしたゲルトたちに供されたのが、カリーであった。
あの時……。
初めて香りを嗅いだゲルトたちは、あまりの刺激臭に顔をしかめないよう苦労したものである。
だが、今は違う。
その芳香がもたらす美味を知っている今となれば、頭をもたげてくるのは期待感のみであった。
しかし……。
「何?」
「これは……?」
鍋からおたまですくい上げられ、深皿によそわれた米の上へかけられた汁を見て、ゲルトのみならずヴァルターも驚きの声を上げる。
その後、酢漬けだろう玉ねぎを添えられた料理……。
カウンター越しに直接ではなく、間に入った侍女が優雅な所作で提供してきた料理は、記憶にあるのと全く異なる代物であったのだ。
「お待たせしました。
――カレーライスです」
まず、目を引くのは、かけられた汁の色合いであろう。
ゲルトが記憶しているカリーという料理の色は、赤であり、緑であり、黄……。
実に色鮮やかな汁であった。
だが、目の前に鎮座するこの料理は……。
汚物のごとき――茶。
その中で、豚肉や玉ねぎ、芋、人参が煮込まれているのだ。
見た目はこのようなものであるが……。
香りだけは、かの日に味わった料理と酷似しているのだから、タチが悪かった。
「かしらあ……」
思わず、昔の呼び名を使いながら、隣へ座ったヴァルターを見る。
「う、うむ……」
どうやら、彼自身、これは想定外であったようだ。
いついかなる時も冷静沈着な判断を下し、新航路開拓に成功したかつての冒険者が、やや顔を引きつらせていたのである。
「い、いや……だが」
しかし、しばらく考え込んだ後、意を決した。
「アウレリア殿が、おかしなものを提供するはずもない……。
とにかく、まずは味わってみようじゃないか」
「う、うす……」
うながされ、ゲルトもまた、料理と同時に供された銀製のスプーンを手に取る。
これもまた、かの国とは違う食べ方だ。
何しろ、あちらでは素手を使って食べていたのだから……。
ただ、その点に関しては、やはり食器を使った方が安心できる王国男ではあった。
上司と同時に、茶色の汁がかかった飯をすくい上げる。
瞬間、匙を通して伝わった感覚……。
これもやはり、カリーとは異なるものだった。
――ひどく。
――ひどく、ドロリとしている。
一体、何を混ぜたのだろうか……。
ライスにかかった汁は粘性があり、それがますます得体の知れなさを増大させるのである。
何から何までが、知っているカリーと異なる料理……。
これを口に入れるのは、ひどく勇気がいた。
とはいえ、ゲルトは隣のヴァルターと共に、大海原を駆け巡った勇士である。
食べて、口の中に広がった香り……。
それは、まぎれもなくカリーのそれであった。
「おお……っ」
長らく、夢想しては諦めていたもの……。
それとの再会に、思わず声が漏れる。
口中に広がるは、複雑に香辛料を混ぜ合わせることで生み出された、華やかな香り……。
それが、鼻孔から器官に至るまで充満し、陶然とした心地に
――カリーだ。
――これは、カリーだ。
刺激の後に広がるのは、汁そのものへ含まれた旨味……。
これはおそらく、鶏ガラで丁寧に出汁を取ったに違いない。
だが、そもそもそれを下支えしている、このコクは……?
「あの刺激が、ある程度再現されているだけではない……。
ひどく、奥行きのある味わいだ。
一体、これはどうやって?」
無言で味わっていたヴァルターが、そう女主人に問いかける。
すると、やはり無言でこちらの様子を見守っていた店主が、にこりとほほ笑みながら口を開いた。
「飴色になるまで炒めた玉ねぎを、ルーの土台としています」
――玉ねぎか!
コクの正体を知り、納得する。
玉ねぎという根菜……。
その内に秘めた甘み、香味というものは、計り知れない。
おそらくは、時間をかけて丁寧に火を通し続けることによって、それらを極限まで引き出しているのだ。
そして、このルーを彩っているのは、それらだけではない。
――甘みだ。
ハチミツか、あるいは何かの果実でもすり下ろしているのだろうか……。
華やかな甘さが香辛料の刺激をまとめ上げ、調和させているのである。
これは、かの地においては見られなかった工夫だ。
あちらのカリーというものは、とにもかくにも香辛料の刺激が全面に押し出されており、ともすれば、舌や胃がそれに負けてしまうほどであった。
対してこちらは――優しい。
香辛料の刺激に慣れていない者の舌でも、やわらかく包み込んでくれるような……。
王国人の味覚に、寄り添ったカリーであるのだ。
おそらく……。
向こうの人間に食べさせたなら、こう言うことだろう。
――これは、カリーじゃないよ。
……と。
そうだ。これはカリーではない。
カレーだ。
海を超えて持ち込んだ食材によって生み出されし、全く新しい料理なのだ。
それにしても、このカレー……。
米を、盗む。
とろみを付与したのは、このためだろう。
ルーが白米の一粒一粒にまとわりつき、この穀物が本来持っている淡い甘みを、より強調するかのようである。
ルーとやらで煮込まれた豚肉や根菜もまた、その味が染み込んでおり、米とよく合った。
ゆえに、カレー――ライス。
これならば、いくらでも米をかき込めそうだ。
香辛料の働きもあるだろうか……。
三十代半ばを迎え、衰えつつあった食欲が、若者の時代へ戻ったかのように燃え盛った。
それを後押しするのが、ライスへ添えられている玉ねぎの甘酢漬けだ。
――この玉ねぎ。
――添え物の域を、超えている。
甘酸っぱく味付けされた玉ねぎは、しゃきりとした食感がまだ残っており、まずはカレーに使われた具材とはまた異なるそれで楽しませてくれる。
そして、その実が吸った絶妙な配分の漬け汁……。
これが、香辛料の芳香に支配されていた口の中を洗い清め、また新たな一口を迎える準備が整うのだ。
――おれは今、カレーを食らう魔獣だ。
最初に感じた忌避感は、どこへやら……。
猛烈な勢いで、カレーライスを食べ進める。
一方、ヴァルターの方は店主との会話も楽しみたいようで、一時、匙を持つ手が止まっていた。
「私は現地で本物のカリーを食べたこともあるが、こちらは随分と趣の異なる美味さだ。
一体、生み出すきっかけはなんだったのだ?」
そんな彼の問いかけに、カウンター越しの女店主はほほ笑んでみせる。
それから、かつてを思い出すようにして語り始めたのだ。
「きっかけは、お爺様のために現地のカリーを再現しようとしたことでした。
幸いにも、ヴァルター様たちのご活躍で航路が開拓され、わずかづつですが香辛料も入るようになってきてましたから。
ですが、これは長期輸送の宿命……。
いかに工夫して保存しようとも、時間を経た香辛料は香りが弱まっており、祖父が現地で聞いていたレシピ通りでは、味の再現がかなわなかったのです」
その言葉に、食べながらピンときた。
香辛料部門の部長として、ゲルトは、必ず運ばれてきた荷の香りを確認している。
その際、商品として格付けするため口にする言葉が、このようなものだ。
――こいつは、香りがだいぶ残っている。
――こいつは、香りがかなり飛んでしまっているな。
加点はない。
完全なる、減点方式なのだ。
香りが一切飛んでいない状態での運輸など、おとぎ話しの魔法使いでもなければ不可能なのである。
「ですので、思い切った工夫をすることにしました。
再現するのではなく……。
ハチミツなども用い、海を隔てたこの国に生きる人間の味覚に寄り添った料理としたのです」
「ご祖父……。
先代のハンベルク公爵は、これを味わってなんと?」
――先代ハンベルク公爵!?
その名に驚き、匙を止めてしまう。
そんな自分のことにはあえて構わず、女店主はこう言ったのだ。
「祖父はこう言いました。
――美味い。
――お前も一つ、冒険したな。
……と」
憧れた英雄が、孫娘に残したらしき言葉……。
その言葉は、無関係なゲルトの胸にも響いた。
――そうだ。
――これは、冒険の味なのだ。
本来、目指していたものから大幅に違う料理となることを恐れず、実際に食べるであろう王国民の味覚へ合わせた料理……。
自分より遥かに年若い女性の冒険行が成功を収めたことは、もはや、語るまでもない。
「アウレリアさん……で、よろしいでしょうか?」
会話に割って入るのは無粋と承知しつつ、声をかける。
「はい。
いかがいたしましたか?」
「その……今度、嫁と息子をここに連れて来てもいいでしょうか?
二人に、これを食べさせてやりたいんです。
そして、語りたいんだ。
これは、おれが社長と一緒に冒険してきた国の料理を元にしてるんだぞって……。
息子はまだ三つなんで、迷惑かもしれませんが……」
がしがしと後頭部をかきながら告げた言葉に、アウレリアはやわらかな笑みを返してくれた。
そして、こう言ったのである。
「どうぞ、いつでもお越しください。
精一杯の、おもてなしをさせて頂きます」
軽く頭を下げながらの言葉は、真実、心の奥底から出ているのだと確信できる声音であり……。
後日、ゲルトが家族と共に再訪したことは、語るまでもない。
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