Menu02.再起のパンケーキ 後編

 カウンター越しに漂うバターの溶けた香りは、否が応でも期待を高めてくれるものであり……。

 同時に、敬愛すべき女主人が、自分の大好物をこの日の朝食にしてくれたのだと悟れた。

 そして、実際に供されたのは、マルガレーテが予想した通りの品だったのである。


「――はい、パンケーキのベーコン添えよ。

 こういう時だからこそ、美味しいものを食べて力を付けましょう」


 カウンター越しに供された丸皿の上では、見るからにふっくらと焼き上がったパンケーキが香ばしい匂いを立てており……。

 しかも、その上にはバターが乗せられ、ケーキの熱によって徐々に徐々にと姿を変えていく。

 添えられているのはカリカリになるまで焼いたベーコンで、なるほど、これは女子が力を蓄えるのに最適な一皿であると思えた。

 そして、それだけではなく、アウレリアはハチミツ入りの小さな容器をことりと置いてくれたのである。


 ――簡単なものでよかったのに。


 料理よりも先に、喉元まで出てきたその言葉を呑み込む。

 今はただ、主人の気遣いが嬉しかった。

 何よりも、これを目にした自分の胃袋が大いに喜び、早く食べろと催促しているのだ。


「いただきます」


 主人に礼を言って、ナイフとフォークを手に取る。

 まずは、ケーキの何もかかっていない部分にフォークを突き立てた。


 ――ずしり。


 という、重たい感触が、シルバー越しに伝わってくる。

 たかが小麦粉を焼き上げただけの代物が、なんという重量感か。

 パンケーキに関して、アウレリアは幼い頃から何度となく焼き上げており、その過程で様々な改良を試みたこともあった。

 薄く焼き上げ、それを何枚も重ねてみたり……。

 あるいは、空気を大いに含ませることで、ふわりとやわらかな食感に仕立てたこともある。

 だが、最終的に行き着いたのはこの形……。


 王者の中の王者。

 伝統クラシックにして、基準スタンダード

 やはり、パンケーキというのはこの形態こそが最高なのだ。


 小麦の固まりにナイフを突き立てるときめきへ胸を踊らせ、切り分ける。

 そして、それを口に入れた。


「ん~っ!」


 言葉に、ならない。

 瞬間、口の中に広がるのは、焼き上げる際に用いたバターの蠱惑こわく的な風味である。

 人間というものは、油分に対し多幸感を得るよう創り上げられた動物であるが、とりわけ、バターのそれがもたらす幸福は格別だ。

 まるで、赤子の頃に戻ったかのような……。

 無垢なる幸せが、口の中を支配するのであった。


 ケーキもまた、たまらない。

 小麦粉、砂糖、卵、牛乳……。

 それらが試行錯誤の果てに生み出された最適な配合で混ぜ合わされており、一体となっている。

 噛むたびに溢れ出す、甘み。

 口を動かすごとに、歯で噛み締めるごとに、全身が喜びで打ち震えるのを感じられた。


 今度は、溶けたバターが乗った部位を切りとり、味わう。

 バターの風味が、人間をどうしようもなく高めてくれるのは、先にも述べた通りだが……。

 直接に溶けたそれをまとっていると、そこには凄味すら宿る。

 まるで、肉汁のように……。

 じゅわりと液状化したバターが、喉を通り過ぎていく快感ときたら……!


 だが、まだここで満足するわけにはいかない。

 このパンケーキには、もう一段階……いや、二段階の変化が存在するのだから……。


 続いて、まだ溶けたバターのかかってない部位を再び切り取った。

 その上で手に取るのは――ハチミツ入りの容器。

 これを、慎重に……少しだけ、切り取ったケーキにかける。


 ――ごくり。


 と、喉が鳴ってしまう。

 だが、今ははしたなさを恥じている場合ではない。

 そもそも、このようなものを前にして、欲望が全面に出ない人間など存在しないのだ。

 ハチミツのかかったケーキを、そっと口に運ぶ。


 ――甘味をまといし、甘味。


 だが、まとったそれは、ケーキの持つそれとは大いに性質の異なる甘さであった。

 自然界の花々が、太陽と土の恵みを凝縮して、ようやく生み出すほのかな甘さ……。

 それが、ミツバチという偉大な職人の手によってさらに濃縮され、文字通り華やかな甘さを生み出しているのだ。

 ぎっしりと身の詰まったケーキがそれをまとうと、甘さに負けず、衝突することもなく、ばかりか、ますますその味を高めるのである。


 すでに――この段階で、現実を忘れるほどの美味さ。

 だが……だが、もしも、ハチミツとバター……二つを組み合わせたのなら……。


 本能的なこの欲求に、抗える人間など存在はすまい。

 一種の罪深さすら感じつつ、思い切って容器内のハチミツを全てかけた。

 すでに溶け出したバターをまといつつあったパンケーキが、さらにハチミツによって覆われ、琥珀色に輝く。


 この輝きは、美食の輝きだ。

 もし、食べてしまったのなら、マルガレーテの魂は天へと昇ってしまうに違いない。


 ――望むところ。


 最高潮に高まった期待と共に、全てが組み合わさったパンケーキを切り取る。

 そして、それを――食べた。

 食べて、しまった。


 瞬間、マルガレーテの脳髄を撃ち抜いたのは、麻薬めいた陶酔感である。

 哺乳する生物を魅了してやまない、溶けたバターの味わい……。

 それと混ざり合った、ハチミツの華やかな甘さ……。

 これらを着飾ることで、しっとりとした食感を手に入れたパンケーキは、染み込んだ乳脂と蜜が組み合わさり、マルガレーテをこの世ならざる境地へいざなうかのようだった。


 とはいえ、彼方へと旅立っている場合ではない。

 確かに、パンケーキは全ての味を確かめた。

 だが、この皿には、カリカリになるまで焼かれたベーコンが添えられているのである。


 ――このベーコン。


 ――ぼんやりと食べるわけにはいかない。


 気を引き締め、ベーコンにフォークを突き刺す。


 ――カリリ。


 自らから溶け出した脂で焼かれたベーコンの感触が、なんとも楽しい。

 これに――かぶりつく。


 ――ガリリ。


 いかにこのパンケーキがどっしりしているとはいえ、そこは小麦の固まりに過ぎない。

 ゆえに、あくまで食感としてはやわらかなものであった。

 そこへきて、このベーコンだ。

 突き立てた歯を弾くような固さの肉は、それに負けじと噛めば噛むほどに、内へ秘めた肉汁が溢れ――美味い。

 しかも、甘味の洪水によってダレつつあった舌が、塩気によって活力を取り戻していていくのだ。


 甘さと塩気……これらを交互に味わう幸せに勝る喜びが、果たして存在するだろうか。

 いや――存在しない。


 そこからはもう、食のとりこであった。

 パンケーキを味わい、合間、合間にベーコンを挟んでいく……。

 嵐の夜から一転。

 この世で最も幸せな一時を、マルガレーテは過ごしたのである。




--




 手では自分が食べるためのパンケーキを焼きながら、しかし、アウレリアがカウンター越しに視線を注いでいたのは、一心不乱に好物を食べる忠実な侍女の姿であった。


 ――良かった。


 ――喜んでもらえたみたいで。


 マルガレーテは不思議な少女で、幼い頃から貴族家に仕えていながら、良い意味でその気風に染まっていない。

 そんな彼女が嬉しそうにしていると、自分も嬉しくなれるものであり……。

 ある意味、祖父の言葉以上にこの店を開いた動機となっているのである。


 それにしても、だ。

 栗色の髪を左右で丸めた彼女が幸せそうに食べていると、本物の妹へ対する以上に庇護欲がかき立てられた。

 だが、彼女は自分に助けられ、守られるような存在ではない。

 様々な方面で自分を補佐し、手助けしてくれる分身とも呼べる存在なのである。


 婚約解消を宣言された時は、どうなることかと思ったが……。

 ヴァルターという強力な後援者が得られたことに加え、彼女までもが手伝ってくれたなら、どうとでもなるような気がした。


 ――さあ、わたしも朝食にしましょう。


 外を見れば、実に気持ちの良い朝焼けであり……。

 まるで、この店と自分たちの新たな出発を、祝福しているかのようだったのである。

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