Menu02.再起のパンケーキ 前編
昨夜は、嵐の夜であった。
別段、天気が悪かったというわけではない。
ただ、マルガレーテが侍女として使えている家……ハンベルク公爵家において、大きな騒動があったのである。
……長女、アウレリア・ハンベルクを追放するという騒動が。
当代の家長であるマインラート・ハンベルクは、何事においても貴族の伝統やしきたりを重んじる人物であり、型破りだった先代とは対象的な存在であった。
それは、東方遠征というあまりに壮大な冒険行を成功に収めた男の息子という、重圧からくるものなのかもしれない。
何しろ、マインラートはごくごく平凡な男であり、抜きん出た才も業績も存在しないのだから……。
それゆえ、伝統やしきたりといった装備で身を固める道を選んだのだ。
そんな彼にとって、祖父の血を色濃く受け継ぎ、また、その
先代の死後、自分とよく似た長男や次女はかわいがり、アウレリアとは距離を置いていたのがその証左である。
だが、昨晩、彼がアウレリアに対して下した決断は、距離を置くなどという生やさしいものではなかった。
――追放。
籍から除名し、以降、二度と当家の門をくぐることは許さぬと、そう宣言したのである。
原因は、アウレリアが密かに開業を果たした料理店――シュロスであった。
――アウレリアよ……。
――現在、食の喜び、奥深さというものは、王侯貴族が独占してしまっている。
――どうか、このおれに代わって、それを一般庶民に伝えてやってくれねえか。
……とは、死期を悟った先代が、アウレリアに残した言葉である。
彼女は、その約束を果たすべく、何年もかけて下準備をし、密かに店を造り上げることへ成功したのだ。
なかなか自由に動けぬアウレリアへ代わり、様々に奔走したのは、マルガレーテにとって誇りであった。
第三位とはいえ、いずれは王子に嫁ぐ身……。
それでも、可能な限り祖父との約束を果たそうと造り上げた、
ともかく、それは開店の日を見たのである。
開店して、そして、最も知られてはいけぬ人々に存在を知られた。
アウレリアの婚約者――オスヴァルト・ハイデルバッハ。
それから、実の父であるマインラートに……。
マインラートが貴族としての対面を重んじる人物であるのは先述した通りだが、オスヴァルトを始めとするハイデルバッハ王家の人々も、それは同じ……。
何しろ、東方との交易路開拓という一大事業が貧民出身の男によって成し遂げられ、ならばと別の交易路を開拓しようとしたら、国庫が受け止めきれぬほどの損害をもたらしてしまったのだから……。
ハイデルバッハ王家にとって、自分たちを王者たらしめているのは体に流れる血と、受け継いできた伝統でしかないのだ。
それを、第三王子の婚約者が破った。
貴族子女にありながら、密かに料理屋を開いたのだ。
それも、飲み屋街の片隅においてである。
本来、王子との婚約というのは国策であり、そう簡単に破られるようなものではない。
だが、事を知った王もマインラートも激怒し、即座に婚約破棄へと同意し……。
アウレリアは、家を追われることになったのである。
そして、ハンベルク公爵家と縁を断ったのは、マルガレーテもまた同じ……。
マルガレーテにとって、アウレリアこそが仕えるべき主であり、唯一無二の友であった。
そのアウレリアが追放されたとなれば、もはや公爵家に居るべき場所はなく……。
夜が明けたならば、即座に置き文をし、少ない荷物と共に飲み屋街を訪れたのである。
アウレリアの、助けとなるために――。
--
――店を寝床とするにしても、さぞかし心細いに違いない。
そのような思いから、マルガレーテは昨晩、ろくに眠れもしなかったものだが、当のアウレリアといえば、存外、元気にしており……。
マルガレーテがシュロスを訪れた時は、玄関前を掃き掃除で清めていたのである。
「お嬢様!」
そう叫ぶと、アウレリアがハッとこちらに気づく。
「マルガレーテ! どうしたの?
……いいえ、来てくれたのね!」
そして、そう言いながら両手を広げてくれたのだ。
「もちろんでございます!
お嬢様の居る所が、このマルガレーテめの居る所ですとも!」
せっかく、主人からそうしてくれたので、遠慮なくその胸に飛び込み抱擁を交わす。
ディアンドルという、極度に胸を強調する装束を着ているのもあるだろうが……。
一つ年上の女主人は、相変わらず豊満な胸をしており、その感触が同性ながら心地良かった。
余談だが、店に立つ衣装へ悩んでいたアウレリアにこの装束を提案し、自ら縫い上げたのは他ならぬマルガレーテである。
「もう、マルガレーテったら……。
そんなに抱き締められていては、お掃除ができないわ」
この際なので、胸の感触のみならず、髪の手触りや匂いも堪能していたのだが、いけずにもそう言われ、身が離された。
しかし、そこはマルガレーテも慣れたもの……。
「お掃除など、このマルガレーテにお任せ下さい」
すぐさま忠実な侍女の顔に戻り、そう進言したのである。
「気遣いは嬉しいけど、でも、そんなに掃く所もないし、もう終わってしまったわ。
それより、本当にいいの?
わたしは、もう公爵家の娘じゃない。
この店を手伝ってくれたとして、きちんとお給金を払えるかどうかも怪しいわ」
「そのような心配など、無用です」
主人のそれに比べれば、圧倒的に劣る胸を張りながら宣言した。
「先にも述べた通り、アウレリア様のいらっしゃる場所こそあたしの居るべき所……。
それに、先代公爵様には、あたしも孫娘がごとくかわいがって頂きました。
その大願をアウレリア様が果たそうとしているのですから、お手伝いするのは当然のことです」
「マルガレーテ……。
本当に、ありがとう。
家族というものを失ったわたしだけど、百の味方を得た思いだわ」
このような時、アウレリアは決して固辞しようとしない。
それは、祖父から受け継いだ彼女の気持ち良い気風だった。
ゆえに、マルガレーテも大いに張り切ったのである。
「それでは、さっそく仕事をいたしましょう!
ささ、なんなりとお申し付け――」
だが、いかに精神を高潮させようとも、どうにもならないものというのが存在した。
他でもない……。
空腹、である。
――くう。
アウレリアを心配するあまり、他の侍女が目覚める前に屋敷を飛び出したマルガレーテは、当然ながら何も食べておらず……。
その胃袋が、今こそ恩を返すべき時という場面で、抗議の音を上げたのだ。
「こ、これは……申し訳ありません!」
赤面して頭を下げると、アウレリアはくすくすと笑って応えた。
「いいのよ。
あなたのことだから、朝一番に起きた後、取るものも取らずにわたしの下へ駆けつけてくれたのでしょう?
すぐに、何か作るわね」
「そんな……朝食など、あたしが用意します」
マルガレーテが申し出ると、アウレリアはイタズラっぽく指を立ててみせる。
「だーめ。
わたしが一番困ってる時に、駆けつけてくれた友人へ感謝を込めた料理だもの。
それに、この先、わたしは公爵令嬢ではなく、料理屋の女主人としてやっていかなければならない……。
なら、まかない作りにも慣れていかないとね」
こういった時、決して決定を曲げないのは、ハンベルク一族に共通する気性であった。
そう言われると、マルガレーテとしてはこれ以上の口出しができず……。
二人で立ち上げた店に招き入れられ、女主人の朝食作りを見守ることになったのである。
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