「料理屋を開くなど貴族子女にあるまじき」と言われ婚約破棄された公爵令嬢ですが、代わりに若手実業家の寵愛を受けています。 ~わたしが開いた料理屋は、世界で最初の「レストラン」でした~

英 慈尊

Menu01.始まりのハンバーグ

 飲み屋街の片隅に存在するその店を訪れたのは、はっきり言えば単なる好奇心であり、冒険心と言い換えてもよいだろう。

 何事においても、マンネリというのは大敵であり、男の一人飲みにおいてもそれは同様である。

 何しろ、寂しい人生を送ってきたこの私であり、日々の楽しみといえば、これくらいしか存在しないのだ。

 慣れ親しんだ店で、顔馴染みの酔客たちと騒ぐのも悪くはないが、見知らぬ店で全く未知の体験をするのも良しだろう。


 それに、この店……外観が、ひどく気になる。

 この飲み屋街に存在する店というのは、実用本位といえば聞こえはよいが、要するに安普請であり、掘っ立て小屋にも近い造りをしているものが大半であった。


 対して、この店はそれら周囲の店舗とは対極の存在である。

 まず、外壁には高価な石材を惜しみなく使用しており……。

 ドアにはこれも高額のガラスが使われ、入り口付近の様子が外からもうかがえるようになっていた。

 周囲の店が剥き出しのたいまつを明かりとしている中、この店がドアの両脇に設置しているのは、洒落た造りのランタンであり、何とも言えぬ高貴な光で店の外を照らし出している。

 しかも、ドアの周囲には観葉植物が置かれており、それが癒しを与えてくれているのだ。

 総じて、まるで――小さな城。

 城というものに求められる優美さが、超局小規模に凝縮されてここに建てられているのである。


 ――ずいぶんと長いこと、ここいらで工事をやっていたらしいが、こんなものを造っていたとはな。


 馴染みの店で酔客が話していた噂話を思い出しながら、店を眺めた。

 忙しさに負け、ここしばらく、この辺りまでは踏み込んでいなかったのだが、もし、建築中に訪れていたのならば、心の中へ留めていたに違いない。


 ふと、店の前へ置かれたブラックボードが目に入る。

 そこには、流麗な筆致でこう書かれていた。


 ――シュロス。


 城、か。

 おそらく、これが店名であるに違いない。

 名前負けしないだけの雰囲気が、この店には備わっていた。


 ――城攻め、か……。


 ――ふふ、悪くない。


 まるで、攻城戦に挑む騎士のような心持ちで、私はドアノブに手をかけたのである。




--




「いらっしゃいませ」


 ドアを開くと同時に、涼やかな声が奥から響き渡った。

 外からうかがえたのは、玄関口の様子のみであったが……。

 内部に足を踏み入れると、店の全貌が明らかとなる。

 造りそのものは、そこいらの酒場と変わらない。

 カウンターがあり、カウンター席があり、テーブル席が二つばかり存在する……。

 城を名乗るにしては、いささか小ぢんまりし過ぎているといえるだろう。


 だが、店を彩る調度や装飾……。

 これらは、店名にふさわしいものだった。


 天井からは、小さなシャンデリアが吊るされており、ただ、ろうそくの火を並べただけでは、決して生み出せないきらびやかな光で店内を照らしている。

 純白の壁紙が貼られた壁面には、絵画や盾が飾られており、出来たばかりの店に歴史を付与することへ成功していた。

 カウンターやテーブルの素材として使われているのは黒壇で、腕利きの職人が手がけたのだろうそれらは、華美な装飾こそ施されていないものの、滑らかな曲面が生み出す美というものを感じられる。

 革張りの椅子もまた、重厚な空気を生み出すことへ一役買っていた。


 総じて――先まで歩いていた場所とは、別世界。

 日常から隔絶した食事の場が、ここに顕現しているのだ。


「どうぞ……。

 コートは、入り口のハンガーにおかけ下さい」


 優美な仕草でコートハンガーを指し示したのは、年若い――少女といってよい年齢の女性である。

 彼女もまた、先まで飲み屋街で見かけた女たちとは対極に位置する存在だ。

 黄金の髪は、調理の邪魔にならないよう結い上げられており……。

 しかし、それが働く女にありがちなスレた雰囲気となっていないのは、ただ邪魔にならないようまとめているからではなく、自らを演出するため、丁寧に櫛を入れ、金糸の刺繍が入ったリボンを使っているからだろう。


 顔立ちは、高貴の一言。

 ただ、麗しいだけではない。

 身に付けた教養や気品が、見目となって表れているのだ。


 着ている装束は、確かディアンドルと呼ばれるものである。

 これは、山脈地帯から出稼ぎにやって来た娘たちの着ている伝統衣装で、胸元を大きく開けているのが特徴だった。

 だが、これを着こなした彼女から感じられるのは、田舎臭さではなく、華やかさのみ……。

 よく見ると、生地に使われているのはベルベットであり、それが田舎装束に風格を与えているというのもあるが、何より、身にまとっているのがこの女性であるからだろう。

 そもそもが、簡素な造りの装束であり、着ている人間によって、大きくその印象を変えるのだ。


 総じて、この飲み屋街に現れた華麗なる花……。

 私は、本当にドア一つ隔てた店の中に入ったのだろうか?

 その実、目の前にいる女性は魔女で、何らかの秘法により別世界へと誘われたのではないだろうか?

 店内の雰囲気と相まって、そう思わずにはいられない。

 そういった、本当に別次元の存在としか思えぬ女性であった。


「さあ、どうぞコートを……」


 うながされ、自分が立ち尽くしていたことに気づく。

 そのことへ、若干の気恥ずかしさを覚えつつ……コートをかけ、カウンターの席に着いた。

 すると、ガラスのコップに入れられた水と、品書きだろう羊皮紙に加え、温かなお湯でしぼった布がさっと出されたのである。


「どうぞ、それで手をお拭きください。

 こちらは、品書きになります。

 お水と布に関しては、お金を取っておりませんので、どうぞお気兼ねなく」


 言われて、この布が手を拭くためのものであると気づく。

 水の料金を取らず、ばかりか、手を拭くための布までタダで用意してくれるとは……。

 しかも、単に水でしぼったのではなく、程良い温かさのお湯を使ってあるのが、また良い。

 季節は春であるが、夜ともなればコートを必要とするくらいには冷える。

 かじかみつつあった手が、ぬくもりによってほどけていくのは何とも心地良かった。


 清涼な水で喉を潤しながら、品書きを見る。

 なるほど、これは、どの品もなかなかの値段だ。

 庶民の懐事情で考えるなら、そう……月に一度の楽しみとして来るくらいが、限界であるだろう。

 だが、来るのが不可能というわけではない。

 まだ、何かを食べたというわけではないが……。

 それだけの額を払って来店する価値が、確かに存在すると思える店であった。


 ……と、いけない。いけない。

 そういった物事に思いを馳せてしまうのは、私の悪い癖……というよりは、職業病といった方が適切か。

 ともかく、今は、この空腹を満たすメニュー選びが重要だ。


 今度は品書きの値段ではなく、内容の方に目を通す。

 すると、気になったのはある料理であった。


「失礼……。

 この、ハンバーグというのは?

 肉料理の項目にあるから、肉を使っているとは思うのだが……」


「ああ、それはですね」


 両手を合わせた女店主が、ぱあっと顔を輝かせる。

 してみると、この料理について語りたかったか……あるいは、これこそが自慢の一品であるのかもしれない。


「以前、ハンベルク公爵という方が東方遠征に向かったのですが、その際、故郷の味であるタルタルステーキが食べたくなったそうです」


 やがて、始まったのは、唐突な昔語りだ。


 ――ハンベルク公爵。


 その名は、よく知っている。

 東方遠征に向かったというのは先代で、彼は一軍を率い、遥か東方の地で様々な功績を打ち立てた。

 それらは、英雄譚として当代でも語り継がれており、私たち世代にとっては、一番の英雄であるといって過言ではないだろう。

 そのような身分ではないため、葬儀には列席できなかったが……。

 大々的に建てられた墓に花を添えたのは、一度や二度ではない。

 そんな憧れる人物の名が、まさかここで飛び出すとは……。


「公爵は軍属の料理人に命じ、どうにかして故郷の味を再現させようとしました。

 料理人は野菜の切れ端や戻した干し肉を使い、工夫してみましたが、出来上がったのは似て非なる料理……。

 ですが、そ……公爵はその味がいたく気に入り、故郷の味以上に好んだそうです。

 ゆえに、その料理へ付けられた名は――公爵の名をもじって、ハンバーグ。

 と、いっても、ここでお出しするのはさらに改良を重ねたものになりますが……」


「ほおう……」


 このお嬢さんが、なんでそんな逸話を知っているのかは分からないが……。

 英雄の知られざる物語に、心がときめいてしまう。

 眉に唾を塗るのは簡単だ。

 だが、今、聞いた話はいかにもありそうなものであり……。

 どの道、ここまで話を聞いた以上、その正体を確かめずにはいられなかったのである。


「では、そのハンバーグを」


「かしこまりました。

 出来上がりまで、少々お時間を頂きますが、お酒や軽くつまめる品はいかがですか?」


「うん、そうだな……」


 言われるまま、再び品書きを眺めた。

 そうして、最初にピンときたものをそれぞれ選ぶ。


「では、ビールと――この、新玉ねぎと人参のマリネを」


「はい、少々お待ち下さい」


 待つこと、しばし……。

 すぐに、注文の品が供される。

 ビールは、ごく一般的な……しかし、我が国の人間にとっては血液そのものと呼べるそれだ。

 これもこだわりなのか、この飲み屋街で一般的な金属のそれではなく、ガラス製のジョッキを使っているのが高級感を出していた。


 マリネは、彩り鮮やかな玉ねぎと人参のスライスに、しかも、チーズとレーズンを散らされているのが嬉しい。

 見た目にも美しく、華やかさが感じられる料理だ。


「では……」


 まず一口、ビールを味わう。

 味わって、気づいた。

 このジョッキ……。

 ビールを味わうことに、特化している。


 ジョッキのふちが丸く厚みを帯びており、それが、飲み心地に滑らかさを与えているのだ。

 ただ、琥珀色の輝きを外から楽しめるだけではない……。

 薄く、金気のある金属ジョッキでは、決して生み出せない一杯に仕上がっていた。


 マリネの方も……これは、素晴らしい。

 新鮮な新玉ねぎと人参は、そのままでも味わえそうだが……。

 これをビネガーで引き締めることにより、かえって自然の甘さが引き出されている。

 散らされたチーズは、柔らかく、酸味と甘みが強い。

 レーズン共々、加工品ならではの甘味かんみで味に重層感を与えつつ、食感まで加えてくれていた。

 全てが――渾然一体。

 春という季節の瑞々しさが、マリネという形で表現されているかのような一品なのだ。


 ビールとの相性も、これが不思議と悪くない。

 いや、違うな。

 これは、相性が――良い。

 蒸留酒ならばともかく、甘さを含んだ品でビールを飲むというのは新しい感覚だったが、なかなかどうして、酒を進めさせてくれる肴である。

 これは、おそらくビネガーの使い方が絶妙なのだろう。

 甘みばかりが全面に出過ぎず、酒のつまみとしても成立するギリギリの範囲で味をまとめているのだ。


「……たまらんな」


 早くも酒臭くなった息を吐き出しながら、そう独りごちる。

 このマリネ……ビール一杯で迎え撃つのは、不可能。

 私は途中でビールのおかわりを挟みながら、ハンバーグなる料理の登場を待ったのであった。




--




「お待たせしました。

 ――ハンバーグです」


「おお……」


 カウンター越しに供された料理を見て、思わず驚きの声を漏らす。

 私がそうしてしまったのも、無理からぬことであろう。

 この、料理……。


「スキレットに乗せたまま供するのか……」


 そうなのである。

 せっかくのカウンターが焼けてしまわないよう、木製のプレートを噛ませているが……。

 肝心の料理は、熱々のスキレットに乗せられたまま、ジュウジュウと音を立てていた。


「はい。

 熱々のまま食べられるよう、工夫をしてみました。

 見ての通り、大変お熱いですので、火傷しないようお気をつけ下さい」


「なるほど……。

 これは、嬉しい心遣いだな」


 心からそう言って、眼前の料理を眺める。

 一見すれば、不精にして無作法。

 だが、最後まで美味しく料理を食べさせようという心遣いが、ここには溢れているのだ。

 しかも、武骨なスキレットで供するというのは、これがなかなか画になるものであり、見た目にも楽しいのである。


 かような気遣いに溢れた料理……。

 それは、なるほど……タルタルステーキとよく似ていた。

 大きな……それでいて最大の相違点は、しっかりと火が通されているということだろう。

 肉の上には、刻まれた玉ねぎが乗せられており、付け合わせとして、人参のグラッセと揚げた芋が添えられている。

 肉へ寄り添うようにしている容器へ入れられているのは、魚醤ガルムのソースだろうか。


「タルタルステーキを目指した割に、火は通してあるのだな」


 ――タルタルステーキ。


 生のひき肉などを混ぜ合わせていることから、蛮族タルタルの名が冠された料理を思い出しながら、そう問いかけた。


「何しろ、新鮮な肉が手に入る状況ではなかったそうで……。

 そのため、火が通してあるのです」


「なるほど……」


 そういえば、先の話によれば、戻した干し肉などを使って現地で考案したのだったか。

 亡き英雄の足跡に思いを馳せながら、ナイフとフォークを手に取る。


「では……」


 肉料理に食器を突き立てる瞬間というのは、いつだって胸がときめくものだ。

 心を躍らせながら、左手のフォークを突き刺す。

 突き刺して驚いたのは、みしりとした感触が伝わってきたことである。

 この、ステーキ……。

 もしや……。


 予感と共にナイフを突き立て、断面が露わになると、勘働きの正しさは照明された。


 ――よくぞ挽いた肉のみで、こうもまとめあげたものだ。


 断面からうかがい知れるのは、細かく挽かれた肉のみだったのである。

 一体、どのようにして成形したのだろうか……。

 普通に考えたならば、焼いた過程でぼろぼろと崩れ落ちそうなものだ。

 調理過程の工夫もさることながら、彼女の技術力が、それだけ確かだということの証左であろう。


 感心してばかりはいられない。

 さっそく、味わってみなければ。


 一口大に切り取ったそれを、口の中に放り込む。

 瞬間、口内に広がったのは、乗せられていた玉ねぎの香りと……肉本来の旨味だ。

 使われているのは――牛肉。

 それを挽いた上でこの形に成形し、焼き上げているからこそ、噛んだ瞬間に肉汁と旨味が溢れ出すのである。


 これは、このハンバーグという料理でしか味わえない美味しさだ。

 通常のステーキでも、生のまま食べるタルタルステーキでも、こうはいかない。

 挽いた肉だからこそ、十分に加熱されているからこそ、この味が生まれるのである。

 そして、刻まれた玉ねぎが香味を添えることで、ますますその味が高まっているのだ。


 このままでも、美味い。十分だ。

 だが、ソースをかければどうなるか……。

 胸を躍らせながら、陶器製の容器を手に取り、中に入ったソースをかける。

 すると、ハンバーグの上に乗せられた刻み玉ねぎが飴色に染まり、白いままの部分と合わせて色合いのコントラストが生み出された。


 これを再び切り取り――食べる。

 おほ、これは正解だ。

 魚醤ガルムが使われているのは、疑いようもない。

 しかし、その他に少量の砂糖やにんにく……他には、何だ?

 ともかく、複雑な甘みと旨味とが付与されていて、それを刻み玉ねぎが吸うことにより、肉の味をさらに高めてくれているのである。


 ここで、再びガラスジョッキを手に取った。


 ――嗚呼。


 ――ビールが、美味い。


 力強い肉料理というものは、どうにもビールを進ませる。

 しかも、酒への衝動を高めるのは、ハンバーグのみではない。

 付け合わせの揚げた芋もまた、塩が効いていてビールとの相性抜群なのだ。

 そして、これらだけではだらけそうな舌が、甘く煮られた人参によって復活を果たすのである。


 肉を切り、食べ、ビールを飲み、また肉を切っていく……。

 時に、揚げた芋や人参のグラッセが変化を与えてくれた。

 この時間が、永遠に続けばいいのに……。

 私はそんな思いと共に料理を食べきり、スキレットの上を空にしたのである。




--




 こだわり抜いた店の外観は、周囲の店舗と比べて明らかに浮いており……。

 下手をすれば、料理屋として認識してもらえないかもしれない。

 そんな思いと共に迎えた開店初日だったが、最初に訪れたお客は、随分と満足してくれたようだった。


 また、この方がハンバーグを注文して下さったのも、嬉しい。

 何故なら、この料理は――。


 わたしの思索を遮ったのは、乱暴にドアが開かれる音であり、そこから姿を現わした人物の怒声であった。


「見つけたぞ!

 まさか、本当にこんな所で店を開いているとはな!」


「オスヴァルト様……!」


 金髪を短く整えた、精悍な青年の名を間違えるはずもない。

 何故なら、彼こそは、わたしの……。


「僕の婚約者ともあろうものが、随分と恥ずかしい真似をしてくれるじゃないか? ええ?

 ――アウレリア・ハンベルク」


 ――ハンベルク。


 その名を聞いた最初のお客様が、驚いた顔でわたしを見る。

 そうなのだ。

 彼に供したハンバーグを生み出したのは、亡き祖父とその料理人であり……。

 わたしこそが、それを継承した孫娘なのであった。


「貴族令嬢でありながら、料理を趣味とする……。

 そのくらいなら、まだ許そう。

 だが、僕に隠れてこんな場所にこそこそと店を開くとは……!

 分かっているのか? 君は、婚約者である僕に恥をかかせるところだったんだぞ?

 この、オスヴァルト・ハイデルバッハに……!」


 ――ハイデルバッハ。


 その名を聞いた最初のお客様が、またも驚いた顔になる。

 これもまた、当然であるだろう。

 ハイデルバッハの姓を持つ一族は、この国にただ一つのみ……。

 ハイデルバッハ王家であるのだから……。


 それにしても、である。


「オスヴァルト様……。

 どうして、この場所が?」


 何よりも気になったのは、このことであった。

 言うまでもないことだが、この飲み屋街は、彼のような……そして、普段付き合いがあるような高貴な者たちの訪れる場所ではない。

 それが、開店初日に見つかるなんて……。


「カーヤだよ」


「カーヤが?」


 カーヤは、わたしの――腹違いの妹だ。

 確かに、彼女にはこのことを話してある。

 だが、他には漏らさぬよう、固く口止めしてあったのに……。

 よりにもよって、最も話してはいけない方に……。


「すでに、僕の父上からも、君の父上からも了承は取ってある。

 もし、勝手に店などを開いているのが事実なら、貴族の恥晒し。

 ただちに婚約破棄して、君の妹カーヤを、この第三王子オスヴァルトの婚約者にすると」


 それで、なんとなく裏が察せられてしまった。

 今の今まで気づかなかったが、妹はオスヴァルト様が好きであったに違いない。

 また、貴族社会の伝統を重んじるオスヴァルト様にとっても、妹の方が好ましいのだろう。

 よって、こうも円滑に事が運んだのだ。


「それだけじゃないぞ!

 君は、ハンベルク公爵家から追放だそうだ。

 当然、こんな店も閉めてもらう!

 貴族の身分をはく奪されたとはいえ、新たな婚約者の親族がこんな場所で恥を晒していては、困るからな」


「この、店を……」


 オスヴァルト様が告げたのは、ひどく衝撃的な言葉だった。

 なんならば、一方的に婚約破棄を告げられた時よりも……。

 シュロスの名を与えた、このお店……。

 この場所こそは、わたしとお爺様の夢そのものなのである。


 王侯貴族の間でのみ、花開いている食の文化……。

 それを、一般庶民にも広めていく……。

 そんな、架け橋となる場所なのだ。


「失礼ですが……」


 と、そこで口を挟む者が一人。

 他でもない……。

 最初のお客様である。

 年齢は、三十を目前にしているというところか。

 さらりと伸ばされた長い黒髪が印象的な、男性であった。

 彼は立ち上がると、あれだけビールを飲んだ直後だというのに、冷静そのものな瞳をオスヴァルト様に向けたのである。


「話は聞かせて頂きました。

 要約すると、こちらのお嬢さんは実家を追い出され、すでにあなた様と縁も切れている状態……。

 その状況で、さらにせっかく開いたお店を閉めさせるというのは、あなた様の立場を考えても筋が通らないのではありませんか?」


「ん? なんだ貴様は?」


 一回りは年上だろう人物……。

 しかも、自分より頭一つは背が高いだろう相手を、オスヴァルト様が睨みつけた。

 王族という名の下駄を履けば、それだけのことが許されるのだ。


「お父上や兄君たちとは面識がありますが、あなた様とは初めてお会いします。

 私の名は、ヴァルター。

 お父上から賜った姓は、ゲーベルスと申します」


 ――ヴァルター・ゲーベルス。


 その名を聞いたわたしとオスヴァルト様に、激震が走った。


「ヴァルターというと、貧民から成り上がり、東方世界への海路を開拓した……」


 オスヴァルト様がそう言い……。


「今は、陛下から姓を授かり、東方貿易会社の社長になっているという……」


 わたしが、その言葉を引き継ぐ。

 貧民出身とは思えぬ優雅な一礼をしたこの人物こそ、祖父に勝るとも劣らない国の英傑なのだ。


「だ、だとしても、このことは王家の問題……。

 い、いくらあなたでも口を挟むことは……」


 さっきまでは貴様呼ばわりしていた相手に、オスヴァルト様が急に敬語を使い始める。

 それが、王家とヴァルター氏の関係性を雄弁に物語っていた。


「オスヴァルト様……。

 ハイデルバッハ王家が我が社から借り受けている金額を、知らぬわけではありますまい?」


「ぐっ……」


 その言葉に、オスヴァルト様の顔色が悪くなる。

 東方世界への貿易……。

 これを貧民上がりに独占されてしまった王家は、彼の栄誉を称えつつも実のところは快く思っておらず、独自に交易路の開拓へ乗り出した。

 結果は――大失敗。

 五隻もの帆船が失われ、巨額の借金だけが残る形となったのである。

 そして、一方的に敵視している当の本人へ頭を下げ、借金の肩代わりをしてもらっているのだった。


「どうか、この場は私に免じてお引きさがり下さいませんか?

 せっかく、素晴らしい料理を食べたというのに、その余韻が台無しになってしまいます」


「うっ……くっ……」


 オスヴァルト様は、しばらく言い淀んでいたが……。


「お、覚えていろ!」


 そんな、演劇の三下悪役が言いそうな言葉を残して、店から出て行ってしまったのである。


「済まないな……。

 私が口出しする問題かは分からないが、少なくとも、この店は失いたくないと思った」


「い、いいえ……。

 ありがとうございます」


 ヴァルター氏へ、頭を下げた。

 どうやら、私は生家から追放されたらしく……。

 オスヴァルト様との婚約もまた、破棄されてしまっている。

 だが、この店だけは、残ってくれたのだ。

 世間知らずの小娘一人が、実家の力なくしてどこまで維持できるかは分からないけれど……。

 少なくとも、希望は残った。


「ついては、だ……。

 私や君のお爺様が目にした東方世界では、このような言葉がある。

 毒を喰らわば、皿まで。

 こんな素敵な料理店で、使う言葉じゃないがね」


 お茶目な仕草を交えつつ、ヴァルター氏がそう語る。

 それから、次の瞬間には、驚くべき言葉を言い放ったのだ。


「君さえ良ければ、私を君とこの素晴らしい店の後見人にして頂きたい。

 どうかな? どうだ?」


「え……?

 ええええ!?」


 貴族子女らしからぬといえば、これも貴族子女らしからぬ行いであろう。

 わたしは、大きな声で驚きの言葉を漏らした。


 これが、彼とわたしの馴れ初めであり……。

 この店が、真の意味で産声を上げた瞬間だったのである。

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