第31話 みんな一緒なら


「リコッタさん、どうして泣いているのですか」


 フィステラが声をかけながら、獣人少女の肩に手を置こうとする。

 リコッタは激しく反応した。

 まるで傷ついた我が子を護る獣のように、勢いよくフィステラの手を振り払うと、人形を抱きしめたまま部屋の隅に跳躍した。

 積み上がったゴミ山を駆け上ったせいで、もう天井に頭が付きそうなほど。


 フィステラは払いのけられた自らの手を悲しそうに見つめていた。周囲を舞う彼女の蝶は、悲しみを表して動きがゆっくりになる。

 刻哉はたずねた。


「フィステラさん。リコッタは何て?」

「……すみません。聞けませんでした」


 リコッタは歯を剥き出しにして威嚇していた。興奮状態である。

 フィステラは獣人少女と目を合わせられない。彼女の状態をまともに見られない。

 刻哉は違った。

 彼は、リコッタと微妙に視線が合わないことに気づいた。彼女は刻哉たちを見ているようで、別の何かを透かし見ている。


「フィステラさん。何か聞こえたら翻訳お願い。ここにいていいから」


 答えを待たずに、ゴミ山を登る。

 登りながら、考える。

 ここはかつて、リコッタたちの仲間が作った拠点だという。彼女が引っ張り出した箱は、チーターたちがゴミ溜めにする前からここにあったものだろう。

 だとしたら、あの人形はリコッタの過去に深く関わるもの――。


 あと一歩のところまで近づく。リコッタは怯えた猫のように威嚇を続けている。まだ、刻哉の姿をきちんと捉えていない。


 刻哉はじっとリコッタを見た。それからゆっくりと手を差し伸べる。

 引っかかれる――どころか、問答無用で攻撃されることも覚悟していた。たとえまた腕一本持って行かれたとしても、とりあえず死ななければ今はいい。

 刻哉は、純粋にしていた。


「リコッタはすごいな。自分の過去に、こんなにも強く心を動かされるなんて」


 他人が聞けば眉をひそめたくなるような台詞。

 刻哉の言語はリコッタに通じない。

 ただ、刻哉が敵意も恐怖も一切出さず、純粋な気持ちで接しようとしていることには気づいてくれたようだ。

 唸り声を上げるリコッタの頭を一度、二度と刻哉が撫でると、彼女は一気に我に返った。耳と尻尾が驚きでピンと立つ。

 刻哉はいつもの無表情で言った。


「気がついた? さ、降りよう。その人形も一緒に」

「――ッ!!」


 リコッタが抱きついてきた。刻哉の胸元に顔を埋め、ぐりぐりと何度もこすりつけてくる。

 すっかり馴染みになった、刻哉の匂いを吸い込む仕草を繰り返し、ようやく彼女は落ち着きを取り戻す。


 ゴミ山の上から降りてきた刻哉に、フィステラがぽつりと言った。


「『ごめんなさい』……だ、そうです」

「そう。翻訳ありがとう」

「トキヤさん。どうしてあなたにはそんなことができるのですか?」


 フィステラがたずねる。訴えかけるように。

 当然、刻哉は言語化できない。ただいつもの表情で首を傾げるだけだ。

 精霊少女はそれを見て、質問を変えた。


「私は……今すごく落ち込んでいます。どうしてか、わかりますか?」


 子どもが駄々をこねるような、ねた表情だった。

 もちろん、刻哉はきっぱり言う。「どうして?」と。

 フィステラは肩の力を抜いた。


「私は無力なんです。リコッタさんの言葉がわかるのに、ろくに意思疎通ができない。なのにトキヤさんはあっさりと私にできないことをする。私は自分が情けないです」

「情けない、か」

「はい。そしてトキヤさんはずるいです。何ですか、意思疎通能力が壊滅的だと言っておいて、この鮮やかな説得ぶりは」

「ずるい、か」


 刻哉は天を仰いだ。

 それから心に浮かんだ言葉を、そのまま素直に口にする。


「皆、考えてたことは全然違うんだなあ」

「トキヤさん……あなたという人は」

「いや。新鮮というか――面白いな、と思って」


 言ってから、刻哉は自分で驚いた。

 まさか、人付き合いの中で『面白い』と感じなんて。


 ひとり小さく感動する刻哉の姿に、フィステラは肩を落とした。感情を表す蝶は、綺麗な輝きを取り戻している。


「とりあえず、ここを片付けましょう。このままでは落ち着けません」

「うん。賛成」


 ――その後。

 ゴミ山を整理している間に夜が来た。


 作業完了と言うにはほど遠い状況だが、それでも寝床になるスペースだけは確保する。

 埃や汚れは気になるものの、テントを失った今、風雨がしのげるだけでも万々歳ばんばんざいだった。


 片付けの最中、リコッタが食料保管用の箱を見つけ出した。いざというときのための拠点らしく、保存が利く乾燥食料を詰め込んでいた。

 ここを訪れたチーターは保存食には興味が無かったようだ。ほとんど手つかずである。

 キッチンを荒らしていたところを見ると、単に画面映えする料理を求めたのかもしれない。


 刻哉の膝の上で保存食をカジカジする獣人少女を見守る時間が、しばらく続いた。

 このメンバーの中でリコッタだけは、飢えと乾きが生死に関わる。腹の音もしっかりと響く。

 わずかばかり腹を満たし、ようやく、緩やかな空気が流れる。


 そこで意を決したフィステラが、改めてなぜ泣いてしまったのかをリコッタにたずねた。

 獣人少女の口は重かったが、刻哉の膝の上で頭を撫でられていると、ぽつぽつと語り出す。


 フィステラの翻訳を挟み、刻哉は事情を聞くことになる。


 それによると、あの人形は今は亡き妹と一緒に作ったものだという。

 かつて、リコッタと彼女の妹は、他の同志たちとともに拠点への物資運搬を手伝っていた。

 いずれ精霊に反旗を翻すそのとき、離れ離れになっても心細くならないようにと、荷の中に忍ばせたらしい。

 リコッタはあの人形を見て、幸せだった時間とその後の辛い時間の両方を、一気に思い出してしまったのだ。

 だから、取り乱した。

 あのときリコッタが見ていたのは、過去の幻。襲い来るチーターや、精霊たちに洗脳された人々の幻影だったのだ。


 翻訳し終えたフィステラが、遠慮がちにリコッタを見る。獣人少女もまた、気まずそうにフィステラの方を見ていた。

 ひとこと、ふたこと、言葉を交わす彼女たち。刻哉にはその内容はわからない。

 刻哉に疎外感はなかった。


「さ、休もうか」


 刻哉は言った。そしてふと思いついて、付け加える。


「みんな一緒なら、安心だからさ」



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