第15話 刻哉の症状
――蝶の少女が飛ぶように跳躍する。
フィステラは精霊だ。人間やチーターとはまた別の移動方法が取れる。
だが、その軽やかな足取りとは反対に、表情は焦りと不安に満ちていた。
彼女は今、アダマントドラゴンが眠っていた洞窟を出口へ向かって駆けている。ひとつ跳躍して距離を稼ぐ毎に慎重に辺りを見渡し、安全を確認する。その繰り返しだ。
しばらくして、彼女はくるりと踵を返し、元来た道を引き返し始めた。
間もなく、待ち人の元にたどり着く。
「トキヤさん!」
フィステラの呼びかけに、刻哉は
チーターによって理不尽に斬り付けられ、生死の境を彷徨っていた青年は、両脚でしっかりと立っていた。
上着は左肩から右の脇腹にかけて、ばっさりと切られている。だが、その下にのぞく肌には傷がない。
足下にはバックパック。破けていても何とか再利用しようと、入れられるだけ荷物を入れて、それを抱えてここまで持ってきたのだ。
刻哉の表情は、相変わらず何を考えているのかわからない。
「フィステラさん。おかえり」
「あまり喋らないでください」
いつもの口調で労った刻哉を、フィステラはぴしゃりと遮った。
そのまま刻哉の身体に寄り添うと、彼の胸元に耳を当てる。そして、白く細い手を刻哉の口元にかざした。刻哉はされるがままだった。
「……やはり、
絶望すら感じさせる声音でフィステラがつぶやいた。
刻哉は、動くようになった右手を自分の胸に置く。心臓の上だ。
「妙な気分だね」
「暢気なことを言っている場合ではありません!」
精霊少女が前のめりになる。彼女の周囲を漂う蝶がしきりに明滅する。
「今のトキヤさんは、いつ
――チーターによって斬り伏せられた後。
フィステラが口移しで回復薬と地粘材を飲ませた効果か、間もなく刻哉の傷は完全に塞がった。意識も取り戻し、折れていた腕も含めて自由に動けるようになった。
精霊少女は泣いて喜んだが、それも束の間のこと。
刻哉は自身の異変を、いつもの平坦な口調で告げた。
「なんか、鼓動がヘンだ。呼吸も」
フィステラも刻哉も、医療知識はない。
だが、刻哉の脈と呼吸が異常に細く弱くなっていることには気づいた。
脈を確かめたフィステラは、みるみる表情を青くする。
このとき、フィステラは理解したのだ。
刻哉が生きているのは、彼の命をマナが繋いでいるからだ――と。
――我に返ったフィステラが大きく息を吐く。
「さきに言ったとおり、トキヤさんの身体を巡るマナが今のトキヤさんを動かしています。脈も呼吸も細いのに今まで通り動けているのがその証拠……」
「見方を変えれば、俺の体内マナが枯渇すれば、その瞬間に俺は死体に変わる。そうだね」
「だ・か・らっ、不用意に喋らないでください」
「……理不尽?」
「知りません!」
ぷいと精霊少女が顔を背ける。
短い付き合いながら、刻哉は少しずつフィステラのことがわかってきた。普段は優秀なナビゲーターのような態度を取るのに、怒ったり動揺したりして感情が高ぶると、とたんに子どもっぽくなる。
素直に、「新鮮だな」と思った。
フィステラは自らの二の腕を指先で叩く。刻哉が怒りも不満も不安も感じさせない表情で、じーっと自分を見つめてくることに、居心地の悪さを感じていた。
こうも平然としていられると、フィステラはどうしても意識してしまうのだ。
世界を救ってもらう。そのためには刻哉に今、死んでもらっては困る――そう考えている自分のエゴに。
お互いに不安でバタバタしている方が、まだそのエゴから目を背けていられた。
「……トキヤさんの願い。最高の武器を創り出すという目標を達成するためにも、ここで斃れるわけにはいきません。支えると私も決めましたから」
ずるい、と自分自身を断じながら、フィステラは言った。
「とにかく、状況は変わりました。今は一刻も早く、安全でマナが安定供給される場所に移動しましょう。トキヤさんに必要なのは、一にも二にも療養することです」
目線で刻哉が「どこへ向かうのか?」と尋ねる。フィステラは彼の腕を取る。
「この洞窟から最も近い街、『クィンクノーチ』を目指します」
「聞いたことがある。確か獣人たちが暮らす街だった」
「よくご存じですね――というより、なぜご存じなんですか? もしかして、それも『いせスト』とかいう……」
刻哉はうなずく。フィステラは少しの間黙り込んで、すぐに顔を上げた。
「ここから徒歩だとかなり時間がかかります。けれど、他に適切な場所がありません。できるだけ急ぎつつ、体調には十分注意していきましょう」
「うん」
「……先に言っておきますが、体調に少しでも異変があった場合はすぐに教えてくださいね。トキヤさんのことですから、ずーっと黙ってるなんてこともあり得るので」
「……」
「すぐに! 教えてくださいね!」
念押しされ、刻哉は再びうなずく。
このとき彼は自覚していなかったが、少しだけ口元が緩んでいた。
フィステラに支えられながら、凹凸の激しい洞窟内を出口へと向かう。
しばらくして、洞窟の大きな出入口が見えてきた。
洞窟内の暗がりと陽光で照らされた地面とが、まるで世界の境のようにくっきりと浮かび上がっている。
外に、出た。
洞窟内の冷たく湿った空気とはまったく違う、爽やかで軽やかな風が吹き抜けた。
緩やかな隆起と沈降を繰り返す、草原地帯。視線を巡らせれば、近くには鋭い山々が見える。
刻哉はこのとき初めて、肌で異世界を感じ取った。
――ここでなら、自分に授けられた力を存分に振るえる。そのためだけに生きる、生きることが許される世界。
自分の命が明日どころか、数時間後も危ういかもしれない状況にもかかわらず――
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