第14話 希望へと繋がる一撃


 落ち着け。落ち着けリコッタ。

 まだリナータが死んだと決まったわけじゃない。

 そうだ。売り物の中に、回復薬があったはず。それを使おう。叱責では済まないかもしれないが、知ったことか。リナータの命の方が大事だ。

 それから、この子を温かい場所に連れていかなければ。安心して横になれる、ふかふかのベッド。まともなものをずいぶん食べてなかったから、今日くらいはたくさん用意してあげよう。そうだ、あの子の好きだった肉料理を作ろう。

 それから、それから――。


「……」


 頭の中でめまぐるしく回る思考。

 対処法が浮かぶ。この先にすべきこと、したいことも浮かぶ。


 だが、身体が一切動かない。言葉が出てこない。


 リコッタは金縛りに遭ったように、妹の顔を手で包み込んだまま固まっていた。

 手のひらに伝わる感触、過ぎていく時間、時折吹く風で揺れる、姉妹それぞれの前髪。

 それらがぶつけてくる圧倒的な現実に、リコッタは完全に打ち負かされていた。


 ふいに。

 後ろから何者かによって肩を掴まれ、無理矢理妹から引き剥がされる。

 倒れ込んだ後、緩慢な仕草で顔を上げるリコッタ。


 彼女の視界には、監視役たる男チーターが映った。妹の前に仁王立ちしている。

 チーターが背中の荷物に手を伸ばす。

 容れ物の大きさと明らかに合致しない大槌が、にゅるりと出現する。

 チーターはそれを大きく振りかぶって――。


「やめてっ!!」


 リコッタの叫びを完全に無視し、振り下ろした。


 腹に響く轟音と衝撃波が襲いかかる。

 地面に倒れていたリコッタは、その衝撃でさらに二メートルほど飛ばされた。

 めまいがする。聴覚が半ばおかしくなっている。


 砂埃が風に乗り、ゆっくりと晴れていく。

 妹が寄りかかっていた岩は影も形もなくなり、周囲の地面はすり鉢状にえぐられていた。


 リコッタの全身から血の気が引いた。

 彼女は知っている。

 これまであのチーターが、仲間たちを『処分』するとき、どのようにしてきたか。


「やめ――」


 声をかける間も、駆け寄る間も、手を伸ばす間も、なかった。

 男チーターは、再び無感動に大槌を振り下ろす。念入りに、相手が絶対に復活しないように。

 リコッタにとって、最悪の仕打ちだった。

 あれでは絶対に生きていない――妹が息絶えたことを、こんな形で思い知らされるのだから。


 嗚咽が漏れる。皮肉にも、泣くことで止まっていた思考が動き出し、ひっきりなしに過去の記憶をリコッタに思い出させた。妹との記憶だった。


「あ……あぁぁっ……ああっ!!」


 細い手で雑草を握りしめ、声と涙を地面にぶつける。

 ぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げる。


 男チーターは、数分前とまったく同じ顔付きで立っていた。リコッタを見ていた。

 汚れひとつない姿で、何事もなかったかのように立っていたのだ。


 リコッタには、もう家族も仲間もいない。

 息が荒くなる。

 顔だけでなく、頭もぐちゃぐちゃになった。まるで絵筆をデタラメに振り回すように、思考が訳分からなくなる。


 リコッタは腰に吊り下げたナイフもどきに手をやった。

 無性に腹が立っていた。

 妹を肉片に変えたチーターに。

 自分たち姉妹やその仲間たちをこのような目に遭わせた運命に。

 そして、抗う力を持たないちっぽけな己自身に。


 立ち上がる。

 ナイフ擬きを構える。柄が剥き出しの金属のままで、ひどく握りにくかった。今の自分にぴったりだとリコッタは思った。


 膝が鳴る。怒りだけではどうしようもない疲労がある。

 だからリコッタは、勝てるなんて思っていなかった。

 一矢報いよう、とも思っていなかった。

 間違いなく、無駄死にする。確信がある。


 一歩踏み出す。


 無駄死にでも良かった。もうこの世に生きている意味がないのだ。

 きっとチーターに抵抗すれば、一息に死ねる。

 死の瞬間まで、怒りに身を任せるつもりだった。

 自分は怒らなければならない――と彼女は強く思った。


 チーターに敵意を、反逆を伝えるために雄叫びを上げる。

 走る。

 残された力を振り絞った疾走は、軽やかで力強かった。ナイフの構えは素人とは思えないほど隙がなかった。踏み込み、身のこなし、いずれも非凡なセンスがあった。

 の才能が、死を直前にして花開く。


 チーターが大槌を振りかぶる。


 目を逸らすな。

 見届けるんだ。

 わたしの方から屈したりしない。絶対に屈してなるものか!


 先にリコッタの刃が懐に潜り込む。

 刃がチーターの脇腹に食い込む。

 一瞬だけ、ナイフ擬きがきらめきを放つ。

 空気を薙ぐように滑らかに直進する。


 気がつけば、振り抜いていた。


「………………え」


 空いた手で口元を押さえる。自分が漏らした声とは思えなかった。

 その手で自分の首を触り、胸を触り、腹を触り、顔を触る。


 硝子の割れる音がした。

 利き手に持っていたナイフ擬きが、光を散らしながら粉微塵に砕けたのだ。

 さらさらと流れていく光の鱗粉を、しばらくリコッタは呆然と眺めていた。


 それから、恐る恐る振り返る。


 大きな荷物だけが放置されていた。

 かすかな物音に目を向けると、赤色の粘性ある液体が地面を伝ってどこかへと移動している。リコッタはそれがチーターの成れの果てだとは気づかなかった。なぜなら彼女も、彼女が知る人たちも、誰もチーターを倒したことなどなかったから。


 リコッタはその場に尻餅をついた。

 目を大きく見開いたまま、虚空を見つめる。風に髪先がもてあそばれるままにする。

 彼女は震える手で、腰に吊り下げていた別のナイフ擬きを手に取る。

 刃の表面に、ぼんやりとリコッタ自身の顔が映り込んだ。


「倒、した……? わたしが、チーターを……?」


 少しずつ、冷静さが戻ってくる。

 喜びはない。むしろ、頭が冷えてくるにつれて大事な人を喪った苦痛がぶり返してくる。


 リコッタは再び涙を流しながら、すり鉢状になった地面を探した。そしてわずかな遺品――髪の毛の一部を拾い上げると、大事に布でくるんだ。

 これまでも、リコッタは仲間が亡くなるとこうして遺品を回収してきたのだ。


 泣いた。もう誤魔化せない。妹がもう戻ってこないことを受け止めた涙だった。


 どのくらいそうしていたか。

 フラフラになりながらも、リコッタは残された道具類を整理した。持っていけるものを選別し、必要なものから道具袋に詰める。


 ――チーターを倒した自分は、いずれ処分される。

 ならば、わずかな希望にすがってでも生き続ける。


 リコッタは売り物の回復薬を一息に飲み干した。

 ナイフ擬きを手に取る。

 このいびつな形の武器こそ、彼女にとってのわずかな希望。


「これを作った人に、会いに行こう」


 持てるだけの荷物を背負い、彼女は新しい一歩を踏み出した。

 

 

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