第3話 重傷の異世界入り


「これが、大噴禍。異世界への入り口……」


 刻哉は歩を進める。

 先ほどの運転手の怒声は、頭から消えていた。


 大噴禍は、まさにその名前通りの見た目をしていた。何もないアスファルトから、マグマのような輝きが勢いよく噴き上がっている。触れればそのまま身体が蒸発してしまいそうだ。


 ――普通の人間なら、ここで躊躇ためらっただろう。

 運転手の制止も、ここで、理解できたかもしれない。


 べしゃり、とマグマもどきが刻哉の顔にかかった。

 が入ってしまった刻哉は、もう止まらない。

 彼は思った。なんて力強い光なんだろう――と。


 大噴禍に手を伸ばす。マグマ擬きの表面に指先が触れる瞬間――。


「……蝶?」


 マグマの中から、半透明の蝶がヒラヒラと飛んできたのだ。

 刻哉の目の前を過ぎ去る。彼は蝶を目で追って――途端、足場を失って落下した。

 大噴禍に飲み込まれたのだと悟る。


 予想よりも、大噴禍の中は激しかった。

 まるで巨大な水道管の中に放り込まれたような、猛烈な圧力を感じる。息ができない。

 息を止めるのも限界が近くなったとき、刻哉の視界に、再びあの蝶が舞い込んできた。

 声が、聞こえてくる。


『怖がらず、息を吸ってください』


 頭の中に直接響いてくる。


『大丈夫。この流れは水ではありません。あなたの体内に入っても、それは――』


 声が伝え終わる前に、刻哉は大きく息を吸い込んだ。大噴禍の中に流れる『何か』を、目一杯身体の中に取り込む。

 目を閉じた。

 苦しさは一瞬。すぐに不思議な温かさが身体の中に広がっていった。血管の中に、血とは違う何かが流れ始めたような、そんな感覚である。


 目を開ける。

 ほんの数㎝先で、黄金色の瞳をした美少女が刻哉を見つめていた。

 彼女の周囲には、先ほど目にした蝶が数羽、舞っている。


 迎えに来てくれたのか、と刻哉は言った。大噴禍の中では言葉にならなかったが、少女は少し困惑したように目を細めた。


『この流れに呑まれて、あなたのように落ち着いていた人は初めてです。それから……私はあなたを迎えに来たわけではありません』


 ややあって、少女は付け加える。


『むしろ、あなた方は今すぐ元の世界へ戻るべき……いえ、と思っています』


 刻哉は少女から視線を外した。

 彼女は異世界の存在で間違いないだろう。

 だが、刻哉が望むものをくれる存在ではないようだ。


 刻哉の態度を見て、異世界の少女はさらに戸惑いの表情を浮かべた。上の方向――刻哉が落ちてきた方向をしきりに振り返り、気にしている。

 行きたいところがあるものの、刻哉を見捨てるには躊躇いがある――そんなように見えた。


 行っていいよ、俺は放っておいてくれていいから――と刻哉は言った。どうせひとりには慣れている、とも言った。


 すると異世界の少女は驚いた表情を浮かべ、そして意を決して刻哉に抱きついた。


『もうすぐ大噴禍を抜けます。衝撃に備えてください』


 このまま放り出されるのか、もしかして。


『はい。運が悪ければ死にます。そして、私にはあなたへかかる衝撃を和らげる力がありません。ただこうして、マナの流れを整えるだけ』


 どうすれば。


『祈ってください。私はあなたに、このまま死んで欲しくはありません』


 刻哉は小さくうなずいた。

 落ちていく方向に顔を向け、じっと見据える。


 わかった。衝突の瞬間を見てる。そうすれば受け身を取るタイミングもきっとわかる。


 ――少しの間があった。


『ほんとに、ヘンなひと』


 抱きつかれているので、刻哉に少女の表情はわからない。だが、その声は先ほどまでの事務的な口調が和らいで、かわりに心底呆れていた。

 刻哉は気にしない。衝突の瞬間に、ただ全集中力を傾けるだけ。もとより、稀代きのしろ刻哉という人間は他人からの冷めた評価に慣れすぎている。


 ――大噴禍の奔流が、終わる。

 全神経を研ぎ澄ませていた刻哉は、自分が空中に投げ出されたのだとすぐに理解する。


 浮遊感。上下逆さまに、放物線を描く身体。

 地面が近づく。


 超集中状態ゾーンに入った刻哉は、地面がごつごつした岩場だと把握した。

 ゲームやアニメのような、なぜか平坦の親切設計ではない。徹頭徹尾リアルな、起伏に富んだ危険地帯だ。


 刻哉は息を止めた。身体をできるだけねじり、背中のバックパックを地面に向ける。

 バスンッ――と音がした。

 勢いが強い。止まらない。

 視界が回転する。バウンドする。衝撃と、金属音。バックパックが破けて、中身を周囲にぶちまけているのだとわかった。


 一際強い衝撃と、嫌な音。遅れて痛み。

 突き出した岩に身体を強かに打ち付けて、刻哉は止まった。


 ――心臓の鼓動がうるさい。

 集中力を少しだけ緩める。途端、自分が荒い息をしているのに気づく。

 慎重に、身体を動かしてみる。


 左手、握れる。右手、ダメ。左足、動く。右足、動く。

 視界の一部に、どろりと赤い幕が広がる。切った頭から出た血が、片目に入ったのだ。


 左腕を支えに、身体を起こす。自分がぶつかった岩に、背中を預ける。破れて使い物にならなくなったバックパックの感触が不快だった。

 再び右腕を動かそうと試みる。やはりダメだった。完全に折れていると刻哉は思った。

 痛みをあまり感じないのが、逆に深刻さを増す。


「……いせスト、ウソばっかりじゃないか」


 つぶやいた。

 いせストのキャラクターたちは、モンスターから大ダメージを受けても五体はちゃんと動かしていた。ヘマして落下ダメージを受けても、しばらく動けなくなるペナルティがある程度のように見えていた。


 ……もしかしてここは、いせストとは別の異世界なんじゃないか?


「大丈夫ですか」


 失望感に打ちひしがれていた刻哉は、すぐ隣から声を聞いた。大噴禍の奔流で聞いたのと同じ声音で、今度はしっかりと耳から入ってきた言葉。

 顔を向ける。

 ふわりと黄金色の蝶が視界を横切る。


 まるで蝶が幕を開けるように、少女の姿が目に飛び込んできた。




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