第57回 皇帝の妻
「ありがとう、助かったわ」
「いえいえ」
ルルルンさんに感謝されつつ、手で潰した虫に苦笑する。
結構大きめな虫で、外見はゴキブリに似ている気持ち悪いやつ。
それを素手で潰せたあたり、改めてこの世界に慣れたことを実感する。
「頼りになるわぁ、アオコちゃんの時間操作のスキル」
「あ、あはは」
家庭教師をするリューナをこの家に送った際、ルルルンさんに呼び止められたのがことのはじまり。
だいぶ深刻な顔をしていたので何事かと思えば、これである。
まさかの害虫駆除。
使用人さんに頼めばいいのに。
「お礼にお茶とお菓子を出すわ」
「ありがとうございます。でも……」
「大丈夫、シーナは夜まで帰ってこないから。って、なんか浮気発言みたいね」
ルルルンさんみたいな美人に言われたら、その気がなくてもドキッとしてしまう。
肌も白くてまったく荒れていない。とても三〇代には見えない美貌だ。
「仲直りする気は……ないのよね」
「まあ」
使用人さんがお茶とビスケットを出してくれた。
ルルルンさんには、私とシーナのいまの関係を伝えている。
あの日から一切顔を合わせていないことも。
コロロにあんな真似をしても離婚しないあたり、ルルルンさんはシーナの味方なのだろう。
「ナーサちゃんには、なんて?」
「なにが?」
「いろいろ」
「そうね。まずコロロちゃんの事は……。正しいことだと信じてる。私もね」
そんなわけないだろ。
「ナーサは反抗期だけど、ちゃんとシーナを尊敬してるし、彼女みたいになりたいって、小さい頃から願っているから」
「……本当に正しいって思ってるんですか」
「えぇ。酷だけど、絶対に断言する。私だけは、シーナの味方でいないと」
「なんでまだ愛しているんです? 浮気もするし、非道だし、あいつは!!」
ルルルンさんが人差し指で私の唇に触れる。
少し声のボリュームを下げてほしいというジェスチャー。
そうか、別室で勉強しているナーサちゃんがいるんだった。
「ごめんなさい」
「いいの。あなたの意見だって納得も理解もしてるから。……なんで離婚しないかね、うん。理由は単純。シーナがいない人生が考えられないから」
「いつからの付き合いなんですか?」
「うーん、たぶん生まれた頃から。家が近かったの。ずっと一緒に遊んでたし、そのころからシーナは、私のことが好きとかいいながら、他の女性にもちょっかい出してた。『ルルルンのために恋愛の勉強をしていたのだ』なんて。
懐かしんで頬を緩ませている。
私が知らないシーナの過去。
聞きたくない。知りたくない。私のなかのシーナのイメージがブレてしまいそうで。
この胸に宿る憎しみの焔が、揺らいでしまいそうで。
「ほんと、昔からだらしない人だったけど、それでもやっぱり、カッコいいって思っちゃうのよね。ときどき見せる寂しそうな横顔も、ほっとけない」
「……」
「おばあちゃんになっても、一緒にいるはずだったのに……」
葉から落ちる水滴のように、ポツンと涙が溢れる。
ルルルンさんが背を向けた。
皇帝の妻として、決して人前で泣くものかと、その高貴なプライドが背中から伝わってくる。
シーナの病気を思い返したのだろう。
病気について知っているのは私と、ルルルンさんと、専属の医師のみだ。
「私は……」
早く死んでほしい。
と願っているとは言えるわけがない。
「そういえば、二人目ってつくらなかったんですね」
「私の体がね、あんまり出産に耐えられる体じゃないの。ナーサのときも大変だったから。それだけは、本当に申し訳ないわ」
けど、シーナはルルルンさんが最も大切だから、無理して作ろうとしなかったわけか。
忙しいシーナを妊娠させるわけにもいかない。
「そろそろ帰りますね。お茶、ありがとうございました」
コロロが亡くなってもうすぐ二ヶ月が経つ。
シーナの死は、そう遠くない。
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