自由のために9

 来客用のドアフォンが響いたのは汗を拭き終わった直後、まるで覗いていたかのようなタイミングであった。



「失礼いたします」




 モニターに映る男に覚えはなかった。上質なスーツを着た、いかにもエリートといった顔つき。こういう人種は駄目な自分と比較してしまって自虐的になってしまうので、今でも苦手だ。




「どなたでしょうか」


「ブリックの秘書でございます」


「あぁ、はい。すみません、今開けます」




 なんと、長官側からのご挨拶である。

 落ち着いてから伺う予定だったが、少し遅かっただろうかと己の迂闊さを悔やむ。ヤーネルから保守的な人間だと聞いていたのにまごまごとしてしまった。ジョークの件といい、失態が続くものだと嘆き、急いでシャツのボタンを絞めて扉を開けた。




「申し訳ありません。お待たせいたしました」


「いえ。それよりも、ブリックが是非アシモフ様とお話をしたいと仰っておりまして。今からお時間いただけますでしょうか?」


「はい、勿論です」


「では、外でお待ちしておりますので、ご準備ができましたらお声がけください」


「分かりました」




 秘書が外へ出ると、俺は急いで身形を整え直した。スーツの皺や髪の乱れもないようチェック。なんとしてでもブリックの懐に入らなければいけない。見た目で印象を落とすなど最悪であるから、余念なく自身の身体を見渡し指先確認。全ての項目に問題なしの判定が出た後に部屋を出る。




「お待たせいたしました」


「ご準備いただきありがとうございます。それでは、参りましょう」




 機械のように真っ直ぐな姿勢のまま歩く秘書の背につき廊下を渡る事十五分。重圧感のある扉の前で俺達は止まった。控室に到着したのだ。

 思いの外時間がかかったのはセキュリティの関係上、要人用の控え室は遠くにあり、ところどころに生体認証が設置されていたためである。外務省が保有する建物だというのに、用心深い事だ。




「失礼いたします。アシモフ様をお連れいたしました」


「入ってもらいなさい」


「かしこまりました」




 ドアフォン越しの通話が終わると、仰々しい音を立てて解錠され、秘書が扉を開いた。部屋は控室というより執務室と形容した方がしっくりくる設えである。後に聞いたが、有事の際の敷現場として機能するそうだ。




「それでは……」




 厳重な部屋の中へ足を踏み入れると、秘書はそう言って外に残り、俺の入室を確認して扉を閉ざした。




「やぁアシモフ君。今日はよく来てくれたね。話せてよかったよ」


「恐縮です。私こそ局長とお話しさせていただき、身に余る光栄でございます」


「そうかしこまらなくてもいい。まぁ、そこのソファに座りなさい」


「はい、失礼いたします」



 

 促されるままに来客用のソファに腰を掛ける。それまで座った中で、一番上等な心地であった。対面のブリックは「いやいやいや」とか「ねぇ」とか言いながら体を揺らし、頭を下げていたが、不意に頭をもたげ、鋭い目線を俺に向けた。




「君、ネストに行った時、どうだった?」


「はい?」


「ネストに行っただろ、昔に。その時に何を見たんだい?」


「……」




 脈絡なくネストへ行った際の事を聞いてくるブリックに戸惑う。

 確かにネストの問題については外務省の管轄であったが、呼びつけて最初に話す内容ではない。なにかあるのかと勘繰る。




「生憎ですが、当時の記憶はなく……軍医の検査も受けたんですが、本当に記憶から消えているとの事です」


「知っているよ。報告を受けているからね」


「報告?」


「そうとも。君がネストに迷い込んだのは、私がネスト対応課に勤務していた頃の話だ。結構大きな問題になってね。何人かの首は飛んだし、私も対策に追われたもんだよ。軍にカウンセリングをするよう国防省に伝えたのも私さ」


「それは……大変ご迷惑をおかけいたしました」


「まぁ過ぎた事だ。それはいい。それよりも、君は本当に何も覚えていないのか?」


「はい。私自身は本当に朧気で……」


「本当か?」


「はい。検査結果にもそう書かれておりますし……」


「あんなものはあてにならん!」




 ブリックは声を荒らげながら机を叩いた。




「すまんね。しかし、本当に何も覚えてないのかい?」


「……はい。やはり、色々あって子供の頃の脳では処理できなかったようです。それにもう何年も前の事ですから……」


「ふむ」




 口を閉じたブリックは真偽を確かめようとしていたのか威圧していたのかしばらく俺を見据えていたが、「まぁ」と言葉を落とし、ソファにもたれかかった。




「いいでしょう。一旦、この話はこれまでにしよう。今日はもう帰りなさい」


「え……はい。本日は大変お世話になりました」


「君にはこれからも色々お願いするかもしれないから、今後ともよろしく頼むよ」


「恐れ入ります。粉骨砕身の覚悟で尽力いたします」


「頼もしいね……おい、アシモフ君がお帰りだ」


「承知いたしました」




 デバイスを操作したブリックがそう告げると控室の扉が開き秘書がやってきた。俺は立ち上がり、今一度ブリックへ挨拶をして部屋を出て、そのまま秘書に見送られて庁舎を後にした。



 俺はこの時、こう考えた。



 ネストに見られるとまずいものでもあったんじゃないか。



 頭を過ぎったのは、例の極秘文書だった。


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