進学1

 シュトルドガルドから帰ると俺は変わらず勉強漬けの毎日を送っていた。

 知識の探究といえば聞こえはいいが、単にライフワークになってしまっていたのと、ずっと残り続ける不安を一時的に掻き消すためである。例のマナー実技に対する不安だ。


 筆記と運動だけなら通った自信がある。どちらも思ったより適応できた。飾られていた絵は像を飲み込んだウワバミではなくただの帽子だった。それだけの事。想像の怪物は所詮想像だったのである。


 しかしマナー実技だけは相変わらず怪物の様相を呈していた。得体の知れない不気味な何かがずっとそこにいる感覚。寝ても覚めても、生活の中でなにをしている時も頭にチラつき支配される。取り払うには勉学しかなかった。ハルトナーから餞別でもらった羊皮紙に毎日毎日ペンを走らせる日々。聖書、数式、言語、歴史、あらゆる知識を書き出し詰め込み不安と戦わせると勉強が勝ち、終わると不安が勝る。試合に勝って勝負に負けたみたいな事が続き、薬物中毒者の如く卓に向かい続けていた。



「気にしすぎだよ」



 試験が終わったあの日、アデライデはそう言ったが、不安は当人しか分からないのだ。他人に気にするしないのボーダーが決められるものではない。


 アデライデといえば試験の後。結局家族ぐるみで食事をする事となった(母親役の人は案の定二つ返事であった)。ザクセン男爵は気さくな人だったが、その分母親役の人が馴れ馴れしく肝が冷えた。男爵自身それをよしとする人柄であるものの弁えなければならないと個人的には思う。一歩間違えばお家断絶。一家皆殺しだ。何事もなかったから本当によかった。参加した両家の父母についてはそれ以外に取り立てて口にするような事はない。適度に果実酒を飲み交わし強かに酔っていた。ところが娘の方、即ちアデライデについてはそうはいかず、ずっとのぼせ上がっているのだった。原因はハルトナーからの手紙である。




「ハルトナー様、コーンブルームの押し花を差し込んでくださったの。素敵」


「そうかい、よかったじゃないか」




 この会話は延べ十回以上繰り返された。最初は後で揶揄ってやろうと数えていたがあまりに多いため飽きてやめた。後で話のネタにするのも疲れるだろうから没にした。この時のアデライデの様子は俺しか知らないのだが、できれば他の人間に変わって欲しい役回りであった。なにを言っても最終的に「ハルトナー様、コーンブルームの押し花を差し込んでくださったの。素敵」に繋がってしまうコミュニケーション。意思不疎通のストレスは地味に大きい。



 あぁ、特筆すべき事はないとしていたが、ザクセン男爵から少しだけ、試験内容に関して安心材料となる言葉をいただいたのだった。




「ロルフ君。今回の試験、上々だったそうじゃないか」


「筆記と運動はよかったです。けれど、マナーが駄目でした」


「駄目とは、なにがあったんだい。君の食事作法や立ち振る舞いは子供とは思えない程洗練されている。ズィーボルト婦人が教え込んだだけの事はあって、素晴らしいものだが」


「マナーを披露できれば、男爵様に仰っていただいたような評価をいただけたかもしれません」


「試験がなかったのかね?」


「はい。面談のような事をして終わりました」


「何を聞かれたのかな」


「対応された方がズィーボルト様を嫌いと仰られたんです。それから私に向かって、君はどう思う。といったような事を聞かれました」


「なるほど。それで、なんと答えたんだい」


「私は好きですが、神学校で教鞭を振るうような方が私怨で嫌うわけもないと思うので、入学後にズィーボルト様がこれまで働いた悪行の詳細をお伺いしたいと」



 ザクセン男爵は大きな声で笑い、「面白いじゃないか」と、中年男と同じような事を言った。



「君は肝が据わっている。そこまで大胆な事が言えるのは結構な事だよ。いいじゃないか、うん。実にいい」


「しかし、結局マナーは見ていただけませんでした」


「その男は、君の人格を見て試験を切り上げたのだろう。すべて行うまでもないと思ったんだよ。気にする事はないさ。きっと合格する」


「そう言っていただけると、少しだけ不安が晴れました」


「あらオリバー。私も似たような事を言ったのに、お父様の言葉は信じるのね」


「君は優しいから、方便を使ったと思ったんだよ」


「まぁ、調子がいい」



 アデライデの言う通り調子がよかった。俺は彼女の言葉よりも彼女の父親である男爵の言葉を信じたのだ。

 アデライデが悪いわけではないのだが、こういう時はやはり実績のある人間の言葉の方に心動かされる。ローティーンの女と貴族社会で生き抜いてきた猛者。重みがあるのはどちらか明白ではないか。そういったわけで、俺は不安の中に一縷の希望を見出し、いつもと変わらぬ生活をしながら結果発表を待っていたのだ。




「落ちたら大工の修行をさせるぞ!」


「そんな事嬉しそうに言わないでちょうだい!」



 母親役の人間と父親役の人間のホームコメディのようなやり取りが続くのも、残り僅かである。


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